????年 午前三時〇〇分
気がつくと店の前にいた。
体は少しポカポカしてて、温かい。頭の中もここに来た時よりはすっきりしている。
「いやー失礼な奴だったね!」
半歩先の彼女は、先程の男の件を引きずっていた。
「どこかで飲み直そ! 次はもっと落ち着いたところで!」
「あの……今何時なの? そろそろお店も閉まるんじゃ……」
随分な間、店にいたはずだ。
けれど外へ出ても、繁華街の様子は何ひとつ変わっていない。
人々の騒めきも、灯りをともし続ける店の数も、ここに来た時のまま。
まるでこの街だけ、時間の流れ方を忘れてしまったみたいだ。
「え? お店は閉まらないよ?」
きょとんした彼女の視線は、すぐ別の方へ向いた。
「あっ!」
弾かれるように声を上げた彼女の視線の先、人混みを隔てた向かい側では小さな串焼き屋が店先で煙を上げていた。
焼き網に乗せられた串焼きからじゅうじゅうと音が鳴っている。
甘辛いたれの香りが風に流れてきて、さっきまで満たされたはずの食欲が顔を出す。
すると、傍では彼女が串焼き屋を指を差して子供の様に小さく飛び跳ねた。
「見て見て、あれ絶対おいしいやつ! ちょっと貰ってくるね!」
「え、ちょっと!」
「ここで待ってて!」
そう言い残すと、彼女は人混みの中へするりと入り込んでいく。
一度こちらを振り返ってひらひらと片手だけ振って再び背を向けた。
後ろ姿は妙に軽やかで、すぐに人波の向こうへ紛れて見えなくなる。
直後、胸の内側でなにかが「どくん」と、歪に跳ねた。
「ま、待って……」
耐え難いほどの不安に自然とそう口にしていた。
怖い。そんな感情が、どっと溢れ。今度は 思わずもう見えない背中に手を伸ばす。
「待って!」
次は叫ぶように呼び止めても、彼女には届かない。
もう会えない。どうしてか、そんな気がしてならなかった。
「――大丈夫だ」
ふと、足元で声がした。
視線を落とすと、この街に来た時に言葉を交わした黒猫が座って見上げていた。
その口には、小さな鼠が咥えられている。まだ生きているようだ。
細い尻尾がぴくぴくと跳ね、短い前足が宙を掻くように必死にもがいていた。
「それ……」
「なんだ? いるか?」
「……ううん、大丈夫」
猫は「そうか」と言って、鼠を地面へ落とす。
鼠はすぐに逃げようと身をよじり、人混みの方へ向いて地面を掻こうとする。
けれど、黒猫はすぐさま前足でその背を軽く押さえ、何事も無いよう人混みの向こうを見ていた。
「あなたは……」
「安心しろ。あいつは帰ってくる……今回はな」
「今回?」
猫の足元では鼠が甲高く鳴いているが、猫は全く気にしていない。
「お前、あいつになにか感じるか?」
「……あいつってあの女の人?」
「他に誰がいる」
私はあの人がいるであろう串焼き屋から立ち上る煙を見上げた。
「なんだろう……あの人と一緒にいると、不思議な感じがするの」
「そうか……お前も、記憶を洗い流しただけじゃ足りなかったか」
「ど、どういうこと?」
「説明してやってもいいが、どうせここを出たら忘れるぞ?」
猫の言葉が意味がわからなかった。
ただ、知りたい。その欲は確かに胸の中にある。
このまま放置するのはどうも、気持ちが悪い。
忘れるとしても、この胸の騒めきに名前が欲しかった。
「……教えて」
そう言うと猫は押さえている鼠を見下ろし、すぐに顔を上げた。
「この街は前世の記憶を洗った者が辿り着く場所だ」
「ぜ、前世?」
猫は「あぁ」と答えて、欠伸をした。
「現世の時を終えた命は記憶を洗われ、次にこの街の酒で魂を洗う。ある程度まっさらになったら、新たな入れ物に宿る為、次に行く」
「よくわからないけど、次の場所ってどんなところ?」
「次は次だ。ここに来た時に言ったな? あいつは随分長い間ここにいる。次に行きたくても行けなかったんだ」
「どうして?」
「いくら記憶を洗い流しても、魂の奥底にこびりついた想いまでは消えない。本来ならこの街で笑って、飲んで、泣いてるうちに、それも少しずつ軽くなって、やがて消えて次へ行ける」
黒猫は、串焼き屋のほうを見たまま続けた。
「だが、あいつは違った。忘れようとしても、忘れきれない何かがあったんだろうさ」
「なにかって……なに?」
黒猫はすぐには答えない。
長い尻尾を一度だけ揺らし、面倒そうに息を吐いた。
「まったく……なんでこの俺が、たかが二つの魂の為にここまでしなきゃならないんだ」
「……なんだかよくわからないけど、ごめん」
ぼそりと呟いた私を横目に、猫は「まぁいいさ」と答えた。
「……あいつにはどうしても、会わなきゃならん相手がいた」
「……え?」
胸がどくりと跳ねる。
少しマシにはなったたが、ここに来た時から頭の中に靄がかかったみたいにぼやけていた。
ただその中で「会いたい」という強い想いだけは、ずっとはっきりしている。
それが誰だったかは、今の胸の鼓動が教えてくれた。
ずっと、ずっと心残りだった誰か。
彼女の笑顔。
見失った瞬間に込み上げた、あの息苦しいほどの不安。
「……もしかして」
猫はじっとこちらを見ている。私の言葉の続きを待っているように。
「……私、なの?」
猫はすぐには何も言わず、少し間を開けてから、うんざりしたように長いため息をついた。
「……やっぱり、お前もか。自分でそそのかしておいて、面倒臭いよ。本当に」
猫は押さえていた鼠を再び咥え、近くの塀の上にぴょんと飛び乗った。
「本来、この街に来た時点で現世の想いや心残りは消え、誰と顔を合わせようと他人のはずなんだ。それが、お前とあいつは違う」
猫は、心底うんざりしたように目を細めた。
「ほっとけばどちらも満たされて、勝手に消えると踏んでたが、放っておくとこの街が崩壊してしまいそうだ」
「な、なにを言ってるの? ちゃんと教えてよ」
「今回は特別に戻してやる。俺の目を見ろ」
「な、なにを戻すの?」
「いいから黙ってろ。じゃないと、壊れるぞ」
不気味な言葉に息を呑んで、言う通りに猫の瞳を見つめる。
直後、体がふっと浮かんだような感覚と共に、頭の中で何かがぱちぱちと火花の様に弾けた。
ざわめきが遠のく。代わりに、ここに来てからずっとぼやけていた頭の中の霧が晴れていく。
その中で見えてくる。
ずっと、ずっと会いたかった人の笑顔が。
そして、私を優しく包んでくれたあの温もりが。
「……あ……あぁ……」
「……まったく、困ったもんだ」
その声は、私に聞かせるというより、独り言に近かった。
「借金まみれだった両親は蒸発。質の悪い取り立ては、当時残された娘達に向けられた」
胸がどくどくと鳴り続ける。
晴れた頭の奥で、またひとつ景色が映る。
狭い部屋。湿った畳。
幼い私の頭を撫でてくれた、あの手。
「あいつはその重荷を一身にうけた……だが、どれだけ身を汚しても連中が満足できるほどの対価は得られなかった」
怒鳴り声が頭の中に響く。
怖い。その中で、あの温もりに誰かにしがみついていた気がする。
「それでも……あいつは諦めずに足掻き続けた。どんなに傷つき、汚れようとも、ある存在があいつの生きる意味だったからな」
猫は動かなくなった鼠を塀の裏へ吐き捨てた。
「そんなある日、痺れを切らした連中は目をつけた。あいつの人生そのものと言っていい、たったひとりの妹に」
すでに猫の言葉はどれも初耳ではない。
どれもが胸を打ちつけるほど、強く、苦しく。
すでに涙は止まらなくなっていた。
「……ずっと待っててくれたの?」
込み上げるものを押さえ、口を両手で覆う。
「あいつは最後まで反抗した。薬で壊れるその時まで、妹を想い続けていた。そして……あとはお前も知っている通りだ」
猫の表情は変わらない。猫だから表情から感情が読めないのか、それともどうでもいいのだろうか?
「……ともかく、あいつはそろそろ往く。眠気を覚えた時が合図だ」
「ど、どう言うこと?」
問いかけると猫から返事が返ってくる前に、正面から明るい声が飛んできた。
「ごめーん! 店の人と話が弾んじゃってさ!」
串焼きを両手に持ったあなたがこちらへかけてくる。しかし、その表情は私の顔を見て、すぐに曇った。
「ど、どうしたの? わっ!」
言葉を返す前に、私は抱き着いた。
「ちょ、ちょっと! どうしたの?」
串焼きを持ったまま、あなたは固まる。
その温もりは、思っていたよりもずっと柔らかく、心地よかった。
「ずっと……ずっと会いたかったんだよ……」




