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黄泉酒  作者: Nokuamu
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4/7

二〇〇四年 四月六日 五時〇二分

 

 空はまだ薄青く、夜の名残を残していた。


 カーテンの隙間からこぼれる光は弱く、台所の流し台を淡く照らしている。

 

 背伸びダイエットをして、棚の上の味噌を取る。

 鍋に水を張って、火をつける。

 小さな青い炎が、頼りなさそうに揺れながらも、ちゃんと鍋を温めていく。


 包丁を握る手つきは、まだ少しぎこちない。

 意識して作った左の猫の手は、力が入っている。


 それでも葱を切る音は、静かな部屋に柔らかく響いた。

 横では、鍋から湯気が立つ。

 頃合いを見て、味噌を溶く。

 今日は少し贅沢をして、白出汁で隠し味。

 

 この時間は何度迎えても心地が良い。

 怒号と暴力に怯えることなく、あなたの支えになれる。

 冷蔵庫から、昨日の残りの白米とおかずを取り出し、レンジに放り込む。

 おかずは冷えても、美味しい……はずの自信作だ。

 

 あとは温まったら食卓に並べるだけ。

 ひとつひとつは大したことじゃない。

 けれど、こうして並べていくと、ちゃんと朝になる。

 味噌汁と、温まってきたおかずの匂いが狭い部屋に広がっていく。

 

 たぶん私は、知っていたのだ。

 帰ってきたとき、部屋にこの匂いがあるだけで、人はほんの少し救われるのだと。


 玄関の向こうで、かすかに足音がする。

 次いで、錆びたドアノブがゆっくりと回った。


「ただいま」


 聞こえたのは少し疲れた声だった。


「おかえりなさい」


 帰ってきたあなたは、ひどく白く見えた。

 肩にかかった髪は少し乱れていて、崩れた化粧が疲労感をより一層濃く感じさせる。


 いつものように綺麗だったけれど、綺麗なものほど汚れやすく、壊れやすい。

 それでも……あなたが私に向けるのはいつも笑顔だ。


「起きてたの? まだ早いんだから、寝てていいのに」

「私もう中学生だよ? やれることはやりたいんだもん」

「入学式は明日。それまでは、まだ中学生じゃないよーだ」

「そんなの変わらないじゃん!」


 あなたはくすくすと笑う。

 移した視線の先には、壁にかけられた真新しい制服。

 まだ誰の癖もついていない紺の布地。きちんと畳まれたリボン。

 この古びた部屋には少し不釣り合いなくらい、穢れがなく、まぶしい。


「そうだね……中学生だもんね……制服は着てみた?」

「お披露目は明日でーす」

「えー! 待ちきれなーい!」

「だって、変なしわ着いたら嫌だもーん」

「いじわる! 意地悪な妹にはこうだ!」


 あなたは私を抱き締めた。


「わっ! な、なに?」

「こんなに大きくなって……」


 抱き締める腕に、少しだけ力がこもる。

 夜の匂いと、外気の冷たさと、その奥にあるいつもの体温が、いっしょくたになって私を包んだ。


「お姉ちゃん、急に変だよ」

「変じゃありませーん。これはね、妹補給です」

「いもうと、ほきゅう?」

「そう。妹が足りなくなるとお姉ちゃんは元気がなくなります」

「なにそれ……」


 思わず笑うと、あなたは私の肩口に額をこすりつけるみたいにして、満足そうに息をついた。


「中学生になったら、楽しみなことある?」

「え? うーん……」


 少しだけ考える。

 壁にかかった真新しい制服を見つめた。


「友達できるかな、とか」

「できるよ」

「あとね、部活とかも気になる」

「いいねぇ」

「それと、修学旅行!」

「それは、いくらなんでも気が早くない?」


 すぐそばであなたの笑い声が聞こえる。胸の奥がくすぐったくて、つられて笑みがこぼれた。

 

 その時のことだ。


 こん、こんと、不意に扉が叩かれた。

 すると、抱き着いていたあなたの身体が小さく、ビクッと跳ねた。


「……お姉ちゃん?」


 呼ぶと、あなたは更に強く私を抱き締めた。

 もう一度、扉が叩かれる。

 今度は急かすように、どんどんと音色を変えて。


「……ちょっと出てくるね」

「誰なの?」

「すぐ戻るから」

「でも、ご飯……」

「先に食べてて」


 あなたは靴を履いて、ドアノブに手をかける。

 そして、振り返って優しい笑みを浮かべた。


「大丈夫、すぐ帰ってくる」

「すぐっていつ?」

「すぐはすぐ。安心して? なんだって、明日は世界で一番可愛い妹の入学式なんだから」


 冗談めかすようにそう言ったあなたはドアノブを回した。

 扉が細く開く。

 隙間の向こうに、数人の男の影が見えた。

 背が高い男。少し猫背の男。服装は特に目立つようなものではない。

 聞き取れないくらい低い声がして、あなたが何か短く返す。

 その声は驚くほど小さい。


「お姉ちゃ――」


 私の言葉が届く前に、ばたんと扉が閉まる。

 


 そして、あなたは帰ってこなかった。

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