????年 午前三時〇〇分
気がつけば、小さな店のカウンター席に座っていた。
いつここへ入ったのか、暖簾をくぐった時のことが曖昧だが、鼻先をくすぐる匂いは、はっきりしている。
出汁香る湯気、焦し醤油、古い木の湿った香り。外の繁華街に満ちていた活気ある喧騒とは違う、どこか身体の奥に染み込んでくるような暖かさ。
目の前には、艶の出た木のカウンター。
小ぢんまりとした店内には丸椅子がいくつか並び、壁には色の違う酒瓶や木製の札の品書きが並んでいる。
天井からはいくつかの裸電球がぶら下がっていて、橙色の明かりが店の中を柔らかく包んでいた。
「ここ、お気に入りの店なの」
隣に座る彼女がそう言って、カウンターの木目をなぞる。
すると、そこに二つのジョッキが置かれた。
琥珀色の麦酒が厚いガラスの向こうでゆるやかに揺れ、縁いっぱいに盛り上がったきめ細かい白の泡は、裸電球の橙を受けて喉の渇きを促す。
よく冷えたジョッキの表面には無数の水滴が浮かび、ひとつ、またひとつと筋を引いて木のカウンターへ落ちていた。
そのうちのひとつを彼女はぐっと私の前へ押しやると、自分のジョッキも持ち上げ、口元を緩めた。
「とりあえず、乾杯しよっか」
「う、うん」
おそるおそる両手でジョッキを持ち上げる。
ひやりとした冷たさが掌に伝わり、思っていたよりも重くて、少しだけ肩に力が入った。
「乾杯」
「……乾杯」
二つのジョッキが軽く重なり、キンッと澄んだ音を立てる。
どこか嬉しそうな彼女は、早速麦酒をひと口あおった。
白い泡が唇に触れ、喉が動く。
ジョッキが口から離れると、彼女は「んーっ」と美味しそうに喉越しの余韻に浸った。
「いやーなんかいつに増して美味しい! ほら、あなたも飲んで飲んで!」
勧められるまま、手元のジョッキに視線を落とす。
少し躊躇いがちにそっと唇を寄せ、ほんの少しだけ麦酒を口に含んだ。
「……苦い」
ぽつりと漏れた本音に、彼女は吹き出した。
「あははっ! 初々しくて良い反応!」
「……ごめん。私、これ苦手」
「謝ることないよ。想ったことを口にして良いの。むしろ、正直に言ってくれて嬉しいな」
「……なんか、もう少し甘いものが飲みたいかも」
「確かに……あなたはもっと甘い方が好きかもね」
「え?」
まるで知ったような口ぶりに、戸惑いを見せたのは女も同じだった。
「あれ? 私、何言ってるんだろ?」
彼女は自分の口元を押さえるようにして、困ったように眉を寄せる。本当に、自分でもわからないことが口からこぼれてしまったような感じだ。
ただそれも束の間、彼女は「まぁいいや!」と酒をあおる。喉がこくりと鳴り、唇の端に残った白い泡を親指で無造作に拭った。
「ここにいる間はただ飲んで過ごせば良いだけなの!」
「ほ、本当にいいの? 私……その、あれ持ってないの」
「あれ?」
「なんて言うんだっけ? 物を買ったり、食べたりするときにお店の人に渡すもの……」
彼女はきょとんとして、首を傾げた。
「……渡すもの?」
「うん。えっと……こう、何かと交換するための……」
「んーなんだろ。そんなのあったっけ?」
「ほら、お店で何かもらう代わりに渡す……」
「うーん、知らない」
彼女はあっさりと言って、ジョッキを傾けた。
「少なくとも、この街じゃ見たことないなあ」
「見たことない……じゃあ、皆どうしてるの?」
「どうしてるって……ちゃんと『いただきます』して、食べ終わったら『ごちそうさま』って言えばいいんじゃないの?」
「そ、それだけ?」
「うん」
「……本当に?」
「本当に」
それ以上は返せず、少しの沈黙が流れた。
「本当だよ」
カウンターを挟んだ向かい側から、声が聞こえた。
今まで気配だけだった店主が、湯気の向こうから顔を上げている。
白い割烹着の上に前掛けを締めた、気の強そうな小柄の老婆だ。
「食う前にいただきます。食った後にごちそうさま。それに美味かったって顔してくれりゃ、それで店はちゃんと回る」
「回る……」
「そ。ここじゃ、それで困らねえ」
言い切られても、やっぱり不思議だった。
けれど、店主の口ぶりは冗談を言ってるようには思えない。
彼女も隣で、うんうんと大きく頷いている。
「ね? 言ったでしょ」
彼女は笑いながら、指先でジョッキの水滴をなぞった。
感謝を伝えれば、それでいい。
ちゃんと耳では理解しているはずなのに、なぜだか心が落ち着かない。
それを知ってか知らずか、店主は私を横目に鼻を鳴らした。
「とりあえず何か腹に入れれば、落ち着くさ。好きなもん注文しな」
店主がひとつの皿を、カウンターと厨房の境に置く。
皿の上には美しい卵焼きが、湯気を立てている。
淡い黄金色の層が幾重にも重なり、表面にはうっすらと出汁の艶が滲んでいた。
「わぁ、美味しそう!」
隣で彼女がぱっと顔を輝かせた。
「それ、食べたい!」
「これはあっちの客のだよ」
店主は呆れたように言う。
「えーじゃあ、持ってくの手伝うから、私にも作って」
「まったく、調子のいい子だね」
店主はそう言いながらも、口元だけは少し笑っていた。
「ほら、落とすんじゃないよ」
「はいはーい」
彼女は楽しそうに立ち上がり、皿を両手で持ち上げると、狭い店内を慣れた様子でするりと抜けていった。
「……あ」
その後ろ姿に、胸が酷くざわついた瞬間だった。
「なぁ嬢ちゃん」
突如、まるで違う方向から声をかけられ、肩がびくっと跳ねる。
顔を向けると、赤ら顔の男がにやつきながら私を見下ろしていた。
「な、なんですか?」
「可愛い顔してんじゃねぇか。こっち来て一緒に飲めよ」
「え……えっと……」
言葉に詰まる。正直、気が進まない。
何故かはわからないが、このまま彼女と二人きりの時間を過ごしていたい。
「ご、ごめんなさい……他の人と一緒なので……」
男の頬が、ぴくりと引きつる。
にやついていた口元がすっと歪み、目の奥に鈍い苛立ちが滲んだ。
さっきまでの軽薄な笑いはもうない。
その変わりように、胸の奥から例えようのない恐怖がせり上がってくる。
「まぁそう言うなって」
男は私に顔を近づける。
酒臭い。彼女から香ったそれとは全く別物。
その匂いが鼻の奥に触れた瞬間、身体の芯がひゅっと締め付けられた。
「いいから来いよ」
「わ、私は……その……」
言葉が出ない。
嫌と言わなきゃいけないのに、喉の奥でそれが固まっている。
「聞いてんのか!?」
痺れを切らした男は、カウンターをバンッ! と叩いた。
「俺が誘ってやってるんだぞ! 来いって言ったら来るんだよ!」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
叫びながら、頭を押さえる。
体が震え、息が上手くできない。
その時だ。
男と私の間に割って入る者がひとり。
彼女だった。
先程まで優しかった瞳が嘘のように、男を鋭く睨みつけている。
「この子に近づかないで」
「な、なんだよお前」
言葉とは裏腹に、男の足が半歩だけ引く。彼女の言葉に出来ない異様な圧に押されてのことだろう。
「この子に手を出したら……ただじゃおかないから」
男は何も言い返さない。
強がるように睨み返してはいるが、その目の奥にはもう先ほどまでの威勢は残っていなかった。
「はいはい、そこまでだよ」
次に割り込んだのは、厨房から出てきた店主の老婆の声だった。
「兄ちゃん、ちょっと飲み過ぎたね」
穏やかな口調でそう言いながら、店主は男の腕を軽く叩いた。
「あんたは奥で飲みな」
「いや、でも……」
「いいから」
あやすように老婆は男の背を押す。「ほら、行った行った」とでも言うように。
納得はいかずとも、男は奥の部屋に入っていく。
完全に姿が見えなくなったところで、店主は溜め息をひとつして私を見た。
「悪いね。どれだけ前段階で洗っても、本質的に質の悪い奴もいるんだ」
そう言い残して老婆は厨房へ戻って行く。
肩の震えが僅かに残っている。すると、突如背に腕が回された。
「大丈夫?」
耳元で優しく囁きながら、彼女が私を抱き締めていた。
「ご、ごめんなさい……」
「謝らなくていいの。怖かったね。息を吸って……」
背に添えられた手が、ゆっくりと上下する。
言われた通りに、息を細く、そして長く吸った。
「吐いて」
息を吐く。
「吸って」
息を吸う。
「吐いて」
繰り返すうちに胸の奥に張りついていた恐怖が少しずつ薄れていく。
気がつけば肩の震えも消えていた。
ようやく頬が触れた肩口から、やわらかな体温がじんわり伝わってくる。酒と、甘い香の混じった匂い。その奥に、どうしてか胸の深い場所を静かに揺らす、ひどく懐かしい匂いがあった。
どこで知ったのかもわからない。
なのに、知っている気がした。
遠い昔。泣きたくなった時に、こうして包み込んでくれる誰かがいたような――そんな、輪郭のない記憶だけが、温もりと一緒に胸へ滲んでくる。
「何があっても私が守ってあげる」
彼女は私の頭をそっと撫で続けていた。
なんと言葉を返していいかわからず、私はいつのまにかその背に腕を回し、この温もりに身を委ねていた。




