第八十三話:さようなら私の愛しき異邦人。ティアラの一人芝居と、冷ややかな視線
屋敷の玄関先には、アン、チート勇者、そしてユーマの姿があった。
アンは旅用の外套を羽織り、その横には数日分の荷物がまとめられている。
(……ああ。とうとう、この時が来たんだ)
ティアラの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
昨夜は仲直り出来た。
出来たはずなのに──胸の奥は、むしろ昨日よりざわついていた。
あの距離の近さ。
あの言葉。
あの表情。
……そしてユーマの体温。
思い返すほど、“ユーマがいなくなる”という現実が、急に耐えられないほど重くなっていく。
(仲直りしたからって……ユーマが帰っちゃう事実は変わらない。なのにどうして、あんなことになっちゃったの……)
ティアラは唇を強く噛んだ。
一瞬だけのよろこび。
(……私、馬鹿みたいだ)
「いい、忘れ物はないわね?」
アンが事務的に二人に問いかける。
「向こうへ行ったら、こちらのことは意識から外しなさい。いいですね、ユーマ?」
「何だ、それ……」
アンは何となく察している様子だ。だからこそ気遣いで言ったのだが、肝心のユーマは“その言葉の意味”を全く理解していない。
そんな真意を知らないティアラには、アンの言葉が酷く冷徹に聞こえた。
「ティ……、じ、じゃあ、行ってくるわ!」
ユーマは一瞬だけティアラの方を見た。
何か言いかけて──結局、いつもの調子に戻ってしまう。
何か言ってくれるんじゃないか? そんな期待を少しでも抱いていた自分を、馬鹿みたいだと思った。
(……ユーマにとって『昨日のアレ』は、ただの気まぐれだった?)
胸がきゅっと痛む。
ユーマは軽く欠伸をしながら荷物を担ぐ。
その姿は、まるで「昨日のことなんて気にしてない」と言っているように見えた。
(……そんな顔で行かないでよ)
(もっと悲しそうにしてよ!)
「……ミラ、あとのことは頼みますよ。兄さんにも、よろしく伝えてちょうだい」
玄関の扉が開かれる。
(行か……な)
喉まで出かかった言葉を、ティアラは必死に飲み込んだ。
せめて、最後くらいは笑顔で見送りたかった。なのに視界は歪み、唇は震えて動かない。
そして────三人の背中が。
「……行ってしまいましたね」
ミラがそっとティアラの横に立つ。
ティアラは、その場に力なくしゃがみそうになりながら必死に耐えた。
「……あいつ、現世に帰っても、ちゃんとやっていけんのかな。……バカだし」
◇
─屋敷に残された『悲劇の女王』開幕─
ユーマたちが屋敷を去ってから、どれほどの時間が経っただろう。
静まり返った屋敷の一階、広間の窓辺に、一人の少女が力なく佇んでいた。
ティアラは、まるで舞台の幕が下りた後の、無人の客席を見つめるプリマドンナのような手つきで、窓枠に指を添えた。
「ああ……。この沈黙は、私の魂を冷酷に切り刻む氷の刃。聞こえるのは、私の心臓が絶望の鐘を鳴らす音だけだわ」
彼女の瞳は、雨の上がった空、或いは沈みゆく夕日に向けられている。その視線は、もはや現実の景色を捉えてはいなかった。
「マシュー……いえ、ユーマ。あなたは今頃、広大な忘却の海を漂っているのね。私たちが紡いだあの日々は、朝露のように儚く、太陽の光に焼かれて消えてしまう運命だったとでもいうの?」
ティアラは大きく溜息をつき、仰々しく胸に手を当てた。
「せめて、あなたがこの屋敷に残していった微かな空気さえも、庭に咲く名もなき花のように抱きしめて、生きていくわ。例えその花に、別れという名の鋭い刺があったとしても、私はそれを誇り高く甘受しましょう」
彼女の独白は止まらない。
昨日までユーマと「エロマ!」「ブサイク!」と罵り合っていたことなど、彼女の脳内では「運命に翻弄される若き恋人たちの、切なくも愛おしい言葉の戯れ」へと華麗に変換されていた。
「ああ、想像の翼を広げれば、私はどこへだって飛んでいける。でも、この重い絶望の足枷が、私をこの冷たい現実の床に繋ぎ止めて離さないの。……ねえ、誰か教えて。愛する人を失った魂は、どこへ向かえばいいの?」
ティアラは、わざとらしく膝から崩れ落ち、床に手をついた。
「いいえ、分かっているわ。私はここで、孤独という名の親友と共に、枯れ果てた希望の枝を数えながら生きていくのよ。貴方は輝かしい明日へと旅立っていった。私だけが、この時間の止まった屋敷で、セピア色に染まっていくのね……」
彼女はそっと目を閉じ、大粒の涙を頬に伝わせた。
それは、自分でも驚くほど美しく、そして完璧に仕上がった「悲劇のヒロイン」としての姿だった。
(……今の私、きっとすごく可哀想で、それでいて気高いんだわ)
一瞬、プリンス・エドワード島のアボンリーの丘に立つティアラ。
彼女はすぐにその妙な景色を打ち消し、今は、この底なしの絶望に浸ることこそが、去っていった者たちへの最大の供養(?)であり、自分のプライドを守る唯一の手段だと心得た。
「さようなら、私の野蛮で、無神経で、……愛すべきバカな異邦人。あなたの面影は、私の心の奥底にある『輝く湖水』に沈めて、永遠の秘密にするわ」
──閉幕。
屋敷の広間で、ティアラは自ら作り上げた絶望の舞台『さようなら、私の愛すべきおバカな異邦人……』の、数日に渡る連続公演の千秋楽が、ここに幕を下ろした──。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
大熱演である。
その震える独白を、壁の向こう側から、引きつった顔で覗き見ている影があることにも気づかずに──。
(……何、このヤンデレムーブ? 怖ぇんだけど)
廊下の影に隠れて覗き見していたユーマは「見てるこっちが恥ずかしくなるわ症候群」を発症しかけていた。
現世から「ある人物」を連れて戻ってみれば、好きな女の子が、耳を疑うようなポエミーなセリフを大音量でブチまけているのだ。
(……こいつ、マジでどうしたんだ? 呪いの魔導具でも拾ったか?)
普段なら即座に突っ込むところだが、しかし。
今はそれ以上に、ティアラに母親と一緒にいるところを見られたくない!「格好わるぅ……恥っず!」などと中二病を拗らせているユーマだった。
なのに、これだよ……。
「あら? あの子が噂のティアラさん?」
母親という人種は、思春期心理など全く意にも介さず、雑に空気を読み間違える破壊者なのである。
まさに鬼神である!
「お、おい、母ちゃん! 勝手に出るなよ!」
焦るユーマをよそに、佳代は「もう、何ボサッとしてるのよ」と息子の背中をパシッと叩き、広間へと足を踏み入れた。
「だから! 行く時は俺のタイミングで行くって──」
「お母さん、挨拶しに行くからね! あんたはいつまでも、そこでお地蔵さんになってなさい」
そう言って佳代は、尻込みするユーマを置いて、ずかずかと入って行った。
ティアラが弾かれたように顔を上げる。
(誰? ま、魔族? いいえ、あれは……人間?)
ティアラの暴走する脳細胞は、現れた佳代の姿を見て、瞬時に「最悪のシナリオ」を構築した。
かつて王宮で受けた尋問(超軽め)
世間知らずゆえに勇者の犯罪を幇助した罪(不起訴)
王宮から命じられた勇者ユーマの監視(なんてした事ないけど)
(そうだわ……。ユーマが現世に帰った今、用済みになった私を処理するために、王宮が『担当者』を送ってきたんだわ!)
ティアラは絶望した。
こんなにキュートで美しい獣人なんだもの、どこか遠い国の貴族にでも高く売られていくんだわ──などと、小学八年生病を発症させていた。
そして目の前の女性は、私の処分を請け負った冷徹な役人に違いない。などと妄想を育んでいた。
(ど、奴隷として売られる!? でも……私のもプライドはあるわ! これだけは言ってやるわ!)
ティアラは涙を拭い、ガタガタと震える膝を必死に押さえて立ち上がった。そして、佳代に向かって凛とした声を張り上げる。
「あの! わ、私! そんなに安い女ではなくってよ! 私にだってプライドがありますから!」
「えっ? ……あ、はい。もちろんですよ、もちろんですとも」
佳代は、初対面の美少女がいきなり「安くない」と宣言したことに面食らったが、すぐに息子から聞いていた「デリカシーのない言動で彼女を怒らせた」という話を思い出し、深く納得した。
(あの子、よっぽど酷い扱いをしたのかしら。……可哀想に)
佳代は同情の眼差しを向け、優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ティアラさん。あの子にもちゃんと、その辺のことは心得なさいよって、きつーく言い聞かせてありますから。どうぞ末永く、仲良くしてやってくださいね」
(……フン! なにが『あの子』よ。どうせ『あの子』っていうのも、どこかの有力貴族の三男坊か何かでしょうね。母親が代理で来るなんて、なんて過保護に育てられた男なのよ!)
ティアラの脳内では、目の前の女性は「売却先の貴族の母親」で、ほぼ確定していた。
「その三男坊さん……ご自身は、お見えになられないんですか!? 私に相手をしてほしいなら、ちゃんと目の前に来て、私の目を見て仰られないと! そんな軟弱な男なんて、絶対に相手にしないんだから!」
「は……はぁ。ええ……っと。三男坊??」
しかし毅然とした態度も、ここまでだった。
ティアラは、もう、我慢の限界を突破していたのだ(色んな意味で)
「馬鹿ーっ! 馬鹿ユーマ! もう……、もう! 助けに来てよぉぉーっ!!」
堪えきれずに叫び、その場に泣き崩れるティアラ。
佳代は驚いた顔で隣の影に向き直り、眉をひそめて息子を促した。
「ちょっと、あんた……呼んでるよ? よく分からないけど、ティアラさんが助けて欲しいって……。ほら、早くこっち来なさい!」
「う、うっせーな。分かってるよ」
顔を真っ赤にしたユーマが、逃げ場のない覚悟を決めて、ゆっくりとティアラの前へ歩み出た。
泣きじゃくるティアラの視界に、見慣れた顔が現れる。
「……もうダメだわ。いよいよ売られていくのね……」
小声で悲しげに呟くティアラ。
そこへ聞き慣れた声が、頭上から降ってきた。
「おい、ティアラ!」
聞き間違えるはずのない、あの「バカ」の声だった。




