第八十二話:「な、何もないから!」ティアラの部屋から朝帰り。固まる屋敷の面々
雨音が、屋敷の奥まで満ちていた。
”コン、コン”
遠慮がちにノックの音がした。
「……ティアラ?」
ユーマの声がする。
しかし、ティアラからの返事はない。
少しだけ間を置いて、
「入るぞ」
返事を待たずに扉が静かに開いた。
ベッドに伏せたままのティアラのお尻が見える。
「……何?」
顔を上げないまま、ティアラの低い声。尻尾は元気なく”だら~ん”と垂れ下がっている。
ユーマは一歩だけ部屋に足を踏み入れたが、そこで足を止めた。
いつもなら勝手に入って勝手に喋るのに、今日は妙に慎重だ。
「さっきのことだけど……」
「別に、もういいって言ったでしょ」
間髪入れずに返ってくる。
「よくねえよ」
短く返すが、声はどこか弱い。
また一歩、ユーマが足を踏み入れる。
ティアラの肩が、わずかに強張る。
「だから、何?」
「だから……あんな終わり方したら気持ち悪いだろ」
「……そういうことじゃない」
「じゃあ何だよ」
ユーマの声に、少しだけ苛立ちが滲む。
沈黙。
雨音だけが聞こえる。
ティアラが、ゆっくりと起き上がった。
目が赤い。
「あんたさ」
そう言って言葉を探すティアラ。
「……なんで、あんなに平気なの?」
「は?」
ユーマが眉をひそめる。
「何も変わらない、みたいにしてるじゃん」
「……いや、だって」
「“だって”じゃない!」
遮るティアラ。
「普通、もうちょっと気にするでしょ」
「何がだよ?」
「……全部よ」
それ以上は言わない。
ユーマは言葉を探すように口を開いて、また閉じた。
「ごめん……悪かった」
ユーマが謝ると、一瞬だけ目を見開いたティアラ。
「何が悪かったの? 言える?」
「俺……あんまり深く考えてなかったかもしれない。その……ティアラの気持ちとかも」
ティアラは何かを言おうとして止めて、代わりに、
「……うん」
と小さく頷いた。
「で、でもさ。なんも言わねえで、急にああなるのは分かんねえよ」
別に責めているわけではない。ただの本音だ。
ティアラは視線を落とした。
「……言えるわけないでしょ」
「なんでだよ」
「言ったら……」
ティアラの言葉がそこで止まる。
ユーマは押し黙って待った。
「へ……変になるじゃん?」
ティアラは口を尖らせて言った。
ユーマは少しだけ考えてから、真顔で言った。
「もうなってるだろ」
(違……っ)
やはりユーマは、どこまでも鈍感なんだと思った。
「……」
少しの間があり、
「……バカ」
ティアラが小さく吐き捨てる。
「お、おう……」
「ほんとにバカ」
「知ってるよ」
ティアラはため息をつく。
ユーマがふっと笑う。
また沈黙になるが、今度は重苦しさも焦りもなかった。代わりに二人で微笑を浮かべて見つめ合った。
少し気恥ずかしい。
ティアラは視線をそらして、ぽつりと呟いた。
「……あんた、さっき私が泣いてたの見ても、別のこと考えてなかった? 別のところも見てたって言うか……」
(確かに……)とユーマ。
こんな状況でも、ベッドの上で突っ伏して、パンツが見えそうなくらい無防備だったのだから、男だったら思わず見てしまうのでは仕方がない──と自分に言い訳するユーマ。
「胸とか見てなかった?」
”いや、お尻だよ!”とは、もちろん言えない。
「見えてねえよ!? いや見えてたけど違う意味でだよ!!」
「どっちよ!」
「あ、いや、だから心配の方だよ! ……いや、でも、ちょっと可愛いなとは思ったけど!」
ティアラの耳が、わずかに赤くなる。
「……はあ?」
心の中では「可愛いのと、エッチな目で見るのとは、全然違うでしょうがぁぁぁ! ほんっと調子がいい!」なんてことを思っていた。
そんなティアラの内心にも気づかず、ユーマは更に能天気に続ける。
「いや、泣いてるのは嫌だけどさ。でもティアラが泣く時って、俺の時だけだし──」
「だったら……」
「俺にだけそういう顔見せるの、なんか……その……」
言いながら自分で照れて、視線をそらすユーマ。
「……バカ!」
声は多少きついが棘はない。とても柔らかい声だった。
「おう。バカでスケベだよ。でもティアラが泣くのは嫌なんだよ」
ティアラは、ゆっくりとユーマの方を見る。
「……ほんと、あんたって……」
呆れたように言いながら、その目はもう赤くない。
「……ありがと」
「お、おう……。あ、でも泣いてるティアラも可愛いっちゃ可愛いけど、できれば泣かせない方向で……」
「黙れ!」
「はい……」
そこで終わればいいのに、また余計な言葉を加えるから台無しにするんだよねェ……と思ったが、それは言わないであげた。
ティアラの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
外の雨は、もうすっかり上がっていた。
「もう……部屋に戻る?」
「……」
◇
ティアラは目を覚ますと、ベッドと壁の間に頭を突っ込んで、その体勢でも起きずに熟睡しているユーマを見つける。
「……なんで、そんなところで寝てんのよ。まったくぅ……」
心底呆れ果てる。
(……ほんと、バカ)
ティアラはそっと立ち上がり、寝ているユーマの肩を軽く揺らした。
「……ユーマ。起きなさい」
「んあ……ティアラの胸が……へへへ」
「起きろぉ!」
「はいー!」
一瞬で覚醒するユーマ。
ティアラは溜息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。
既にキッチンの方では、料理をしているであろう音と、美味しそうな匂いがしていた。
「……行くわよ? 朝ごはん」
「おう!」
ユーマは伸びをしながら立ち上がり、何も考えずに扉を開けた。
その瞬間。
既に起きて廊下にいた数人が、一斉にこちらを振り返った。
「……え?」
最初に目が合ったのはミラだった。
「お、おはよー……?」
ユーマは能天気に手を振る。
(馬鹿ッ! 何してるのよユーマ……!)
ティアラは固まった。
ミラが目を丸くし、クロムは口を半開き、バッシュはテーブルに足をぶつけ転びかけた。。
「ちょ、ちょっと待って……二人は、今……」
「え、何が?」
呑気に反応するユーマ。本気でこの状況を理解していない。
ティアラの顔が一気に真っ赤になる。
「ち、違うから!! 何もないから!!」
「え? 何もって、何のことだ?」
「だから言わなくていいのよ!!」
ティアラが慌ててユーマの口を塞ぐ。
ミラは頬を染めながら、
「ユ……ユーマ、そういうのは……その……ちょっと」
「そういうのって何だ?」
「黙れって言ってるでしょ!!」
ティアラはユーマの腕を引っ張り、そのまま端へと連れ出した。
「お、おいティアラ!? なんだよ急に!」
「……あんたのせいで変な誤解されるでしょ!!」
「え、なんで? だって俺ら、誤解も何も……」
「だから言わなくていいのよ!!」
ティアラは顔を覆い、耳まで真っ赤にして震えていた。
「……なんかよく分かんねえけど、ティアラが恥ずかしがってるのだけは分かった」
「う・る・さ・い……」
「でもさ」
ユーマは少しだけ真面目な声で続けた。
「昨日のこと、俺は……嬉しかったけどな」
ティアラの肩がぴくりと揺れる。
「……バカ」
「え、えぇぇ?」
「ほんとにバカ」
ティアラは顔を上げないまま、小さく呟いた。
「……でも。私も……」
ユーマは照れ隠しのように笑い「私も」って? と意地悪を言う。
「……あ、でも昨日のティアラ、ちょっと可愛かっ──」
「黙れ!!」
ティアラは深呼吸をして、ようやく顔を上げた。
(……こいつ、わざとやってんの?)




