第五十六話:ユーマが異世界の理に違和感を覚える時、対象者は強制的に現実に収まる
ギルドの資料室から「借りてきた」図鑑を、ユーマは屋敷の庭でぼんやり眺めていた。そこには朝倉咲の手によって、元の記述が読めないほどに真っ赤な添削と、精密な骨格比較図がびっしりと書き込まれていた。
「ユーマさん、そこそこ! 見てください、このワイバーンのページ!」
隣からひょいと覗き込む咲。その声は、心なしか弾んでいる。
(ひゃぃ!)
興奮した咲の鼻息が、ユーマの耳元に当たる。
「彼ら(ワイバーン)はまだ、生物として筋が通ってるんですよ。前肢がそのまま翼に進化している。これ、私たちの世界の鳥類や翼手目と同じ収斂進化の原理なんです。素晴らしいと思いませんか!」
「へー、じゃあワイバーンは、俺たちの世界の生き物に近いってことか」
「はい、理屈に合ってます! 解剖学的にも『納得』がいきます。……でも! 問題は次ですよ」
咲が震える指先でページをめくる。そこには四本足で立ち、背中から巨大な翼を生やした『ドラゴン』の解剖図が描かれていた。咲の目が、獲物を定める肉食獣のようにきらりと光る。
「これ……根本的におかしいんです。『バグ』ですよ。存在自体がバグなんです」
「は? おかしい? いや、まんまドラゴンじゃん。何がおかしいんだよ。かっこいいだろ!」
ユーマの不用意な一言が、完全に咲の生物オタクのスイッチを押してしまった。
「いいですか。脊椎動物の基本構造は『四肢』なんです。なのにこいつは六肢になっています! 本来、翼というのは前足が変化してできるもの。それなのに、四本足があるのに、背中からさらに『アレ』が生えてるんですよ? そこがもうおかしいでしょう! 筋肉の付着点(起始・停止)はどこにあるんです? 肩甲骨が三対あるとでも? 構造的に破綻しすぎてて、見てるだけで頭が痛くなります!!」
咲は早口でまくしたて『ハァ……ハァ……ハァ』と呼吸も荒く顔を紅潮させ、興奮のあまり汗ばんだ肌に赤みが射している。
(こ……こいつ、妙にエロいなぁ)
早口で専門用語をまくしたてる彼女からは、知的な悦びに当てられたような、危うい色気すら漂っていた
「はっきり言って、四本足があるならそれで歩けばいいんです。空を飛ぶなら、ワイバーンみたいに前足を翼にすればいい。なのに両方欲しがるなんて、進化の過程で絶対にありえない『贅沢』なんです!」
「うーん……ま、言われてみれば、確かに変な形だよな。四本足があるなら、普通に歩けよって話だし。あんな重そうなもん背負って飛ぶのも合理的じゃないっていうか」
「そう! 現実的ではないんです!」
ユーマは、愉悦に浸り時折「はぁはぁ」と荒い息をつく咲の表情から目が離せず、半分上の空で話を合わせた。
本来なら聞き流すはずの学術的な愚痴が、咲の異様な熱量によって、強烈な「真実」としてユーマの深層意識に刻み込まれてしまった。
(白い肌を真っ赤にさせて、妙にエロいんだけど。言ってることは正論……なのか?)
*
その日の午後──。
買い出しのために街の外へ出たユーマたちは、偶然にも、咲曰く「設計ミス」だと言ってはばからない、そのドラゴンに遭遇することとなる。
「ドラゴンだ! 上空に古龍が出現したぞ!」
悲鳴が上がり、一瞬のうちに巨大な影が街路を覆う。悠然と空を舞う巨大な体躯は、本来なら絶望の象徴だ。
だがユーマの脳裏には先ほどの咲の講釈が、まだ頭にこびりついて離れていなかった。
(確かに……あんな四本足の骨格してるのに、わざわざ背中に翼を生やすなんて、物理的に無理があるよな)
「現実的に考えて、あんなデタラメな構造で、空なんか飛べるわけねーよな? 重心どうなってんだよ」
ユーマが呆れて鼻で笑った、その瞬間だった。
「グオォッ!?」
ドラゴンの叫びが、悲鳴に変わった。
上空で、ドラゴンの背中から「何か」が剥がれ落ちた。霧のように翼が薄れて消え、数十メートルあった巨体が、まるで空気が抜けるように縮んでいく。
──ドスン。
凄まじい土煙と共に地面へ激突したのは、伝説の古龍ではなく、庭先を這いずる「トカゲ」のサイズまで矮小化した爬虫類だった。
「……古龍が、縮んだ……? 翼が、消えた……?」
ベテラン冒険者たちが、あり得ない光景に腰を抜かす中、咲だけは「待ってました!」と言わんばかりに、スカートの汚れも気にせず墜落現場へ猛ダッシュした。
「やっぱり! 見てくださいユーマさん! 翼のあった場所には傷跡すら無いのに、皮膚が完全に癒合していて、最初から『翼という器官が存在しなかった』ように、骨格が変わっています!」
「わ、馬鹿! 咲! 危ないぞ!!」
ユーマの言葉など気にもとめず、咲はカバンからメジャーとピンセット、さらにはどこで手に入れたのか聴診器まで取り出して、バタつくトカゲを押さえつけて狂ったように計測を始める。
「見てください! この大腿骨の太さは完全に地上歩行専用です。空を飛ぶための気嚢も退化……いえ、消失しています! 素晴らしいです! 今の、自分がやったって自覚はないんですか!?」
「自覚って何だよ。俺はただ『咲の言う通り、あんな無理な形は飛べねーだろ』って思っただけだ」
「……」
咲は小さく息を吐き、手帳に震える文字を書き記した。
『確信:私の「解剖学的指摘」が、彼の認識を誘導した。その結果、異世界の理を現実世界(現世)の常識へと強制収束させた』
そして、こう呟いた。
「……これ、論文に書いたら暗殺されるレベルですね」
咲は顔を上げると、頬を上気させたまま、興奮した表情でユーマを仰ぎ見た。
「ユーマさん! 帰ったら次は『ケンタウルスの内臓配置』について朝まで語り合いましょう! 人間の腹筋の下にすぐ馬の肺があるなんて、横隔膜の気密性が保てないはずなんです。そこを詳しく検証したいんです!」
「……頼むから、もう黙っててくれ。あとそのトカゲを俺の方に向けるな」
ユーマは少し疲れた顔でそう言った。その傍らで、地に落ちた古龍たちは、駆けつけた冒険者たちによって「稀少な肉」として、実に現実的な手際で解体・捕獲されていった。




