第五十三話:「要するに息が熱いだけだろ?」火を噴く巨龍さえ、無自覚に再定義する力
魔王城の外庭では、快音が響いていた。
”カキィィン”
ノアが投げた魔果実を、チート勇者が木の棒で打ち返していた。果実は弧を描いて、空へ消えた。
本来ならその「魔果実」は、強い衝撃を受ければ爆発を起こす性質を持つ危険物だ。
しかし────爆ぜなかった。
「よし。今のいいぞノア!」
「えへへ!」
テラスでその様子を眺めていたゼノンは、思わず息を飲んだ。打たれた瞬間、確かにあった魔力の張りが消えたからだ。
ゼノンは視線を手元に落とす。開いていた手帳に、ペンを走らせる。数字を並べる。計算を始める。
──そして途中で止まる。
「また難しい顔をして」
背後からルージュの声がした。
「また、あなの兄上クロムの、あの迷子事件を思い出しては、笑いを堪えているのかしら?」
ルージュが茶化すように、そう言った。
「違いますぞ! 私は今、非常に重要なことを…………いや、なんでもありません」
「あ……そっ」
ルージュはそう短く返したあと、庭に視線を移した。ゼノンも視線を庭に戻す。そこではチート勇者が「次は魔球だ!」と、今度はさらに強力な雷属性の魔果実を手に取っていた。
本来なら、触れれば焼ける。恐ろしい魔果実のはずだが……。
「今度はそれだ。思いっきり投げてみろ!」
ノアが頷く。
そして魔果実を全力で投げる。
「まるで……ただのボールだな」
ゼノンが呟く。
”カキィィン”
チート勇者に打たれた魔果実が、飛んでいく。
だが、何も起きない。
(まただ)
ゼノンはペンを置き、手帳を閉じた。
さっきと全く同じだった。条件も、結果も。
「先生は変わった、お人だ」
「どうしたの、急に?」
「普通は、子供に打たせるものでしょう……」
少し沈黙したあと、ルージュは言った。
「そうかしら?」
ゼノンは、まじまじとルージュの顔を覗き込んだ。そしてこう思った。(これだけの気品だ。龍種の中でも、きっと高名な方なんだろう)と。
「あなたは……先生を恨んでいないのですか?」
ゼノンの問いに、ルージュは何も答えない。
「もう気づいてるんでしょう? ノア殿を擬人化した張本人を」
やはりルージュは無言だった。
庭に視線を戻すと、二人の楽し気な笑い声が続いていた。
ゼノンは窓から離れ、一度ルージュを一瞥した。そして庭に視線を向けることなく、そのまま静かに部屋の中へと戻って行った。
手帳は、机の上に置いたまま──。
◇
数日後の午後。
魔王城の談話室(兼、図書室)には、柔らかな陽光が差し込んでいた。
ノアはソファに深く腰掛け、重厚な装丁の図鑑を膝に乗せていた。
「ねえ、おじさん。このドラゴンかっこいいけど、やっぱりちょっと怖いね」
ノアが指し示したのは、古くから伝わる『終焉の巨龍』の写実画だ。ページいっぱいに描かれたその姿は、禍々しい角と、空を覆わんばかりの漆黒の翼を備え、見る者を圧倒する威厳を放っていた。
背後から覗き込んだチート勇者は、鼻を鳴らして図鑑を一瞥した。
「ああ、これか? なんだ、こんなもん『ただの大型のトカゲ』じゃねーか」
ノアが再びページに視線を落とす。
そこに描かれていたのは、確かに『ドラゴン』だったはずだ。
だが、今はどうだろう。
天を突くようだった角はなく、滑らかな頭部をしている。力強く張っていたはずの翼膜はどこか頼りなく、その眼光に宿っていたはずの凶悪さも、滑稽なほどに薄れている。
「……あれれ?」
ノアはパチパチと瞬きをする。
だが横に立つチート勇者は、そんな変化など露ほども気にせず、言葉を続けた。
「ほら、よく見ろ。火を噴くとか大層なことが書いてあるけどな、要するに息が熱いだけの生き物だろ? 冬場に吐く息が白いのと同じだよ。それが、ちょっと派手になった程度だよ」
その瞬間だった。
『灼熱の業火を吐き、一夜にして王城を焼き払う』
そのように、勇壮な飾り文字で記されていたはずの説明文の一行が、幻灯のように、わずかに揺らぎ──変化した。
『高温の吐息を持つ、好戦的な大型爬虫類』と。
ノアは胸の奥に、言葉にできない奇妙な違和感を覚える。しかしその正体は掴めない。
「……おじさん。この絵、さっきもっと怖くなかった?」
「気のせいだろ。ほら、トカゲの仲間だと思えば可愛げがあるじゃないか」
「……う、うん。そうだね」
*
一方、その様子をロフトから見下ろし、メモを取っていたゼノンのペンが、羊皮紙の上でピタリと止まっていた。
窓越しに見える、日常の一コマ。その場所からは、本の中身までは見えない。図鑑に魔力の反応があるわけでもない。何らかの改変術式が発動した痕跡も、一切感知できなかった。
だが、魔王家の正当な血筋であり現魔王にして、魔術師としての才能豊かなゼノンの『感覚』だけが、異常を掴んでいた。
魔族の持つ特殊な図鑑。その本の中に封じ込められていた「神秘の重圧」が消えてしまったのではないか……?
(いや分類が、変わったのか?)
その場にある存在の定義が、先生の言葉一つで、より卑近な、より「現実的」なものへと強制的に引きずり降ろされた。そんなあり得ない確信がゼノンの脳裏を掠める。
ゼノンは何も言わず、ただ席を立った。
資料棚へ向かい、ノアが読んでいるものと同じ版の図鑑を、無言で引き抜く。
版を確認する。同じだ。初版発行の日付も、監修者の名前も、一文字の狂いもない。
ゼノンは震える指で、ドラゴンのページを開いた。
そこに描かれていたのは、先生が言った通り「少し息の熱い、大型のトカゲ」の絵だった。
(……いや、まさかな)
ゼノンは静かに、本を閉じた。
それ以上は、考えないことにした。これ以上踏み込めば、自分が信じてきた魔術の理そのものが、足元から崩れ去る予感がしたからだ。
「……ゼノン様、お茶が入りましたが」
メイドの声に、彼は努めて平然を装いこう返答した。
「ああ、今行く。……ただ、少し目が疲れているようだ」
彼は自分の感覚を「疲れ」という、最も現実的な理由で塗り潰した。
その場にいる誰一人として、世界の形が歪んだことに気づく者はいない。ただ静かな昼下がりが過ぎていくのみ──。
そう結論した。




