第三十二話:今日は皆、めちゃくちゃ優しいんだが?
──ほんの少し時間を巻き戻して、水晶に映像が映し出された直後の、別室でのユーマとティアラの大喧嘩。
「……いい加減にしてよ、このバカ!!」
隣の部屋に引きずり込まれた瞬間、ティアラの怒鳴り声が狭い壁に跳ね返った。猫族特有の鋭い視線が、俺の顔面を真っ向から射抜いてくる。
「痛たた……。おいティアラ、離せよ! 服が伸びるだろ!」
「伸びればいいのよ、そんなバカな服! あんたはいつも、そう!! 私が王都から離れる時、一体どんな気持ちで付いてきたと思ってるのよ!」
「監視役だろ!?」
「そういうことを言ってるんじゃない……。私の気持ちの話をしてるのよ!」
気持ち?
俺は「う……ん」と無い知恵を絞って、必死に考えてみた。
「……住み慣れた王都から離れて。……不安だったとか、そういうことか?」
「……」
ティアラは黙り込んだ。
正直、今回のエロチラシ落下なんて、俺に言わせりゃいつものことだ。それがたまたまきっかけになっただけだ。きっとこいつ、最近なにかのストレスで爆発しちゃったのかもしれない。俺はそう思った。
「なあ。最近のお前、なんか怒りっぽくないか? 俺がエロいのなんて、今に始まったことじゃないだろ?」
重苦しい空気を変えてやろうと、あえていつも通りに明るく下世話な話を振ってやったのだが、これが裏目に出た。
「もう、なんなのよ! あんたときたら、いっつもそう! 隙あらばおっぱい! 隙あらば巨乳! 少しは真面目に考えなさいよ!」
「いやいやいや。現実的に考えて、おっぱいと、巨乳は、重複だろ」
俺がそう言って笑った瞬間だった。
いつもは勝気で生意気なティアラが、見たこともないような顔をしたんだ。
「どこが現実的よ! この、歩く性欲!!」
ティアラは、情けなく眉をハの字に波打たせていた。
「……もういいよ。もう、あんたになんか、何も期待しないから」
おいおい。そんな情けない顔すんなよ……。
だけど。俺にだって罪悪感がないわけじゃないけど、今さらキャラを変えるなんて無理な相談だ。
「だからなんだよ、さっきから、それ! その上から目線やめろよ。お前だって、何だかんだ言って、いつも俺についてきてるじゃねーか……」
「そ……それは」
ティアラの眉がまたハの字に歪む。目の下に溜まった今にも零れそうな涙を、唇を「ぎゅん」と波打たせて必死に堪えているのが分かる。
「それはそれ! これはこれ!! あんたなんか、そうやって一生おっぱいでも眺めてなさいよ!!」
ティアラは顔を隠すように俯くと、俺の顔面に『豊穣の女神(特大サイズ)』のチラシを力いっぱい叩きつけてきた。
そのままティアラは、拳を強く握りしめ、両腕を無我夢中に振って、どこかへ走り去っていった。
「なんなんだよ……もぉ」
まるで小学生の子供みたいな、変な走り方しやがって。
(こ……ど、も?)
まさかな。
◇
あの嵐のような喧嘩から数時間が経った。
リビングの食卓には、いつになく豪華な料理が並んでいる。そこにティアラの姿はなかった。
さっそく箸を伸ばそうとしたんだが、どうもさっきから居心地が悪い。
「……なんだよ、おっさん」
俺はフォークを止め、正面に座るクロムを睨み返した。
「さっきから、ずっと俺の顔ばっか見てないか?」
おっさんは答えない。腕を組んだまま、視線だけで俺をロックオンしている。料理じゃなく、俺の手元、食べ方、姿勢、口の動き……とにかく全部を監視している。
クロムのおっさんは「……ふん」と鼻を鳴らし、低い声で言った。
「小僧。口の周りが汚れている」
「は?」
「拭け。食べ方が乱れている」
それだけ言って、おっさんはまた黙り込んだ。でも視線は外さない。俺は舌打ちして、フォークを持ったまま肩をすくめた。
「うるせーな。飯くらい自由に食わせろよ。なあミラさん。おっさん、ちょっと変じゃないか? ずっと俺の動きを見てるぞ」
ミラさんは、おっさんの視線を確認してから、ほんの少しだけ身を乗り出してきた。そして俺の耳元でそっと囁く。
「……お気づきになりましたか?」
何事もなかったかのように、彼女はナプキンを差し出してきた。
「口元が汚れてますよ。……今は特に」
「今は、って何だよ」
「さあ。何でしょうね」
ミラさんは、それ以上の説明しなかった。
今度はシルフィさんが、おっさんに聞こえないような低い声で話しかけてくる。
「……ずっと、ああなのです。食事の姿勢、噛む回数、座り方」
「どういうこと?」
再びミラさんがおっさんの方をチラリと見て、苦笑した。
「ですから私たちは──」
ああ……なるほどな。
何となく分かった。多分おっさんは、俺の「教育係」にでもなったつもりなんだろう。
おっさんの真意はともかく、ようやく状況が見えてきた。
ミラさんもシルフィさんも言葉を選んでいるようだし、バッシュまでさっきから俺をジロジロ観察している。
……あ!
そうか、そういうことか!
(ティアラと喧嘩して凹んでる俺を、気まずくならないように、みんなで気を遣ってくれてるんだな?)
そう思った瞬間、さっきまでの居心地の悪さが「気遣われてる照れくささ」に変わった。
みんな、俺を全力で励まそうとしてくれてるんだ。なんていい奴らなんだ。
バッシュなんて、隣でニヤニヤ笑いながら、自分の皿にある特大の肉を俺の皿に放り込んできた。
「おいユーマ! もっと食え! 骨の髄まで太くして、鉄壁の体を作るんだ。いいか、これからは俺が毎日しごいてやるからな! 最高の盾になれよ!」
「盾? なんだそりゃ?」
まぁ、バッシュなりの激励だろう。
「バッシュ……お前、口は悪いけど、実は俺のこと一番心配してくれてんだな。友よーっ!」
「おう、友情だな!(最高の肉壁になれよ!)」
そのやり取りを、水晶を抱えたカガミが潤んだ瞳で見つめている。
「……まさに……風格……。……真理……」
「カガミまで、何言ってんだ?」
そこへ、ふらっと部屋から出てきたティアラが、この異様な光景を見て足を止めた。
教育パパと化したクロムのおっさん、完璧に給仕するミラさんとシルフィさん、肉を盛るバッシュ、そしてなぜかその光景を拝んでいるカガミ。
「……ちょっと。あんたたち、何やってんの?」
ティアラは気味悪そうに眉をひそめている。
「あ、ティアラ! お前も食えよ。今日のみんな、めちゃくちゃ優しいんだぜ。お前もそんなカリカリしてないで、現実的に考えてこの肉……」
「うるさい、このバカ! あんたたちもよ! なんなのよ、さっきから! 急にユーマを囲んで、気持ち悪いわね」
「……ティアラ。お前はまだ知らないだけだ。私は決めたのだ。この小僧を断じて『あのような存在』にはさせん。私が責任を持って、まともな男に叩き直してやる」
おっさんが重々しく宣言するが、俺には何のこっちゃさっぱりだ。
「はぁ? あんたたち、揃いも揃って頭おかしくなったんじゃないの?」
「……ティアラ、それ以上は、もう言わないで」
そう言ってミラさんがティアラに歩み寄り、耳元でボソッと何かを告げる。
「私たちだって、やりたくてやってるわけではないのです。あとで話すので今は……」
「どうしたミラ? 食事中に中座など──」
おっさんが怪訝な目で、声をかける。
「見たでしょ? 下手に口を出すと、私たちが『教育方針』について説教を食らってしまいます」
ミラさんが小声で補足する。
「……」
ティアラはそのまま無言で、再び自室へと戻っていった。
「ティアラが、少し体調が悪いみたいですので、自室まで送ります」
そう言い、ティアラの後を追うミラさん。
その際にミラさんは、何やらシルフィさんと目配せをしていた。
「なんだよあいつ、まだ怒ってんのか。女心ってのは現実的じゃねーな。なあ、おっさん」
「……黙って食え。次は姿勢の矯正だ。胸を張れ、マヌケ面に見えるぞ」
「へーい」
俺は久々の高級肉を、残さず全部平らげた。
カガミは相変わらず、水晶を抱えて潤んだ目で見つめてくる。
「……まさに……風格……。……真理……」
「ん……? ま、いっか。ごちそーさん! あぁもう食えねぇ……腹いっぱいだわ!」




