第二十八話 自己の喪失
幼い頃、たった一度。
たった一度、忠臣に意志を伝えたことがある。
責任が存在する言葉を。
幼い頃、帰宅した初めての夜に、綺麗に整えられた子供部屋に案内された。
忠臣は嬉しげに部屋を見回し、龍臣はいつまでも父親の影に隠れていた。
影は母親の影でもよかった。兎に角、龍臣は、忠臣が怖かったんだ。
無邪気にはしゃぐ忠臣が、とても「人間の子供」らしくて、即座に羨ましくなった。
龍臣はどうやれば忠臣みたいになれるか判らず、忠臣の言葉や、動作を真似してしまった。
父親が微苦笑し、「今夜はこの部屋でたんと寝なさい」と、龍臣と忠臣を子供部屋に置いて、そのまま両親は寝室に行ってしまった。
龍臣は、忠臣を真っ直ぐ見られなくて、床を見ようと俯いていた。
それでも興味はあったから、忠臣の足下を見ていた、ばれないように。
だって、初めての、兄弟だ。
しかもこんなに、うり二つといっていいほど、似てる相手。
もう一度顔を一瞬だけ見ると、忠臣はじーっと龍臣を見つめていた。
「どうして僕の真似をするの?」
「……え、と」
「あ、人が怖いんだね! 大丈夫だよ、もう刃鐘さんがずっと見守っててくれるから!」
「……あ、の」
「? 言葉がうまく喋られないの?」
「……喋ろうと、すると、どうしても――嗤われる声が過ぎるんだ。人になれない鼠よ、って」
「……――鼠、ね。ええと、君は人間と鼠の違いって何だと思う?」
「判らないんだ、真剣に考えても、判らない。ごめん、なさい」
「そう、そっか」
忠臣は叱咤するわけでもなく、激励するわけでもない。
ただ、とんでもないことを提案してくれた。
「それなら、鼠と人間の違いが分かるまでは、僕が君の『言葉』になるよ」
「……どういうこと?」
「君が喋られないとき、僕が全部答えて、全部僕が君の責任を負う」
「どう、して」
「――僕だって、研究所にいた。だから、たった一人であの環境と闘ってたと思っていたんだ。初めて、同じ環境にいる人がいて、しかも兄だと聞いた時――嬉しかった。救われた。環境は最悪で、状況もまずかったけど、――兄がいると聞いたから、僕はここまで生き延びたし、生きる喜びを覚えた」
「……うん」
「日記をつけよう、君と僕の。日記で君の意志や性格を掴んでいく、そしたら僕は君の言葉として存在できる。僕が、生きる理由になれる。この家を継ぐのは、きっと貴方だから」
「……――でも、それ、は」
「代わりにさ、呼んでも良いかな。――兄さん、って」
忠臣が、「忠臣」であるという意志を、半分ほど捨てた瞬間だと、今は思う。
龍臣は嬉しかったし、有難かった。
言葉からの責任逃れを、徐々に覚えていったのは忠臣を裏切る行為だとも、心の何処かで自覚していた。
だからこそ、美衣の指摘が辛かったのも覚えているし、真っ直ぐに龍臣に言ってくれる美衣と友達になりたいと思ったのも本当だった。
「忠臣を殺したのは、研究所じゃない。オレが、一度、殺したのか」
睡眠から目覚めながら、呟けば、視界に千湖がひょこっと入ってくる。
千湖の間近な顔に驚くと、千湖を自分の傍に引き寄せた彦が不思議そうに問いかける。
「何か夢でも?」
「忠臣に責任全て投げた日の夢を、見たよ」
「それはまた、罪深い夢を」
「寒いな、この階層は」
龍臣は毛布をリュックに詰めながら、コートをきちんと着込み、寝ぼけ眼で階段を登り始める。
二度とこの階層には戻らないから、念入りに忘れ物がないかをチェックして。
「鼠と人間の違いって、彦や千湖には判る?」
「大きさが既に違うんじゃあないのかィ?」
「いえいえ、見目だけを問いたいんじゃないと思いますよ、主殿は。僕はそうですね、食欲、睡眠、性欲全て満たすのならいっそどの生物も同じじゃないかとも思いますね」
「――……オレは、どの生物も違いがあると思うんだ。生態とかの問題じゃなくて、な。……でも、いざ何が違うのかと言われたら判らない。猫や犬にだって、情はある。頭良い奴もいる。愛嬌がある奴だって」
らせん階段状になっている塔の階段を踏みしめながら、龍臣は登り、ふと窓から見える滅びの塔を見やり目を細める。
「あ。アタシは判ったよ」
「千湖は見つけたの?」
「うん、でもきっとこれは龍臣が見つけた方が納得する、人から教えて貰った答が嫌いそうだ、アンタ」
「参考までに教えてよ、気になる」
「そう? それなら。アタシはね、理性、だと思うよ。動物は本能のままだ、だけど人間には理性ってェやつがあるのさ!」
千湖の回答は至ってシンプルで、千湖らしい回答であり、とても理知的だと思った。
彦も頷き、納得はしたが、意地悪な笑みを浮かべたので嫌な予感がする。
きっと、この先は夫婦漫才なのだろう、と。
「無差別殺人する人間はそれなら、動物ではないんですか?」
「……そ、れは。それはそいつが悪いのさ!」
「でも人間という形をもって産まれてますから、人間ですよね? はい、論破」
「この馬鹿ッ! あったまきた! アンタなんか、禿げろ!」
「残念でした貴方好みの髪型のままですよ」
「嫌味な奴だよ、斉と似たような髪型しやがって」
夫婦漫才はほうっておいて、人間と鼠の違い、か。
正直今も戸惑うことは多い、鼠と言われることが怖くて、人間らしいと言われる信頼をどんなやつにでもし続けている。
でも、それはきっと、餌をくれる主人に懐くペットと変わりがない。
信頼出来る奴を選ぶのが、もしかしたら人間と鼠の違いなのかな、って思う。
少なくとも、現時点で人間は、誰を信じるかは選べるから。
選べる環境が、今の龍臣にはあるから。
今の龍臣が忠臣に伝える言葉があるとすれば。
もう、お前は「言葉」なんていう概念にならなくていい、って意志だ。
龍臣は、寒さに震え、手が悴むも、息を吐きかけ気合いを入れる。
塔を登ると決めた日から、やたらと彦の機嫌がいい。
何を考えているか判らない奴。
ただ、千湖への愛情は、美衣の言う通り信じてやってもいいかな、と思えてきてはいる。
瞳を見るだけで、ご馳走様って程に、千湖へ惚れ惚れしてるから。
暫く登っていると、驚くべき物があった。
龍臣が登る階段の途中で、食事をした形跡があったのだ。
正確には、寝泊まりをした痕跡が。
真面目な表情で、痕跡を調べようとも思ったが、先に誰かがいるのなら負けないようにさっさと登らないと。
調べる時間ですら惜しい。
龍臣は不審がりながら、千湖や彦に問い詰める。
「この塔は、今、オレしかいないよな?」
「その筈だよ、この塔はアンタのための塔だから……」
「――……言葉を、代理できるなら、存在も代理できそうですよね。塔から、言葉を代理し続けてきた忠臣様が、主殿だという認識はされてもおかしくはない」
「何だって?」
「僕もおかしいとは思いますよ、けれど、言葉を発さないというのは、存在を消すに近い意味でもあるのではないかと、過ぎったんです。唐突にですが」
「オレが、消える?」
「はい、だって見目そっくりでしょう? 意志を発さないで、主殿は、忠臣様に託し続けてきた。主殿の意志を、忠臣様が口にしてきた。塔が、誤認してもおかしくはないはずです。つまり、塔にとって主殿と忠臣様の声の見分けがつかない可能性も――忠臣様が、先にこの塔へ登っているのかもしれません」
こんなところで、改めて意志を持つ責任感を、感じるなんてな。
「急いで登るぞ、くそ、飛べる黒鳩なら偵察に向かわせられたのにな」
「先に見てきましょうか? ほんの少しだけなら、僕にでも様子を窺うことができるはずです、千湖は主殿と一緒に登ってきてください、緊急事態だ」




