第二十六話 怒られない距離
空気の層はきっとこの位置には最早ないだろう。
それでも、願えばこの塔の頂上でだけは空気は与えられる。
少なくとも、当主が生きるための空気だけなら確実に、与えられるのだろう。
小鳥が近寄る、それこそが空気のある良い例だ。
雀や燕が、塔の淵で羽根を休めている。渡り鳥たちの多くが、羽根を休めている。
動物にはどうにもできぬが、それでも鳥や人間以外には見える存在らしい、塔というやつは。
「どうした、泣いてる」
後ろを振り返らず、背中に羽根を模した白鴉が涙を浮かべ、塔の頂上に来ていた。
「皆、酷いのです。黒鳩にも、登らせる可能性が出てきました」
「ああ、――でも大丈夫。頂上に真っ先に登るのは、龍臣だよ。それ以外世界を救えないシステムになっているんだ。黒鳩じゃ何も救えない、だから龍臣が登るんだよ。君塚の代表であり、生まれ変わりであるあの人が」
「……刃鐘様、聞いても宜しいですか? 君塚様は本当に、死んでらっしゃるのでしょうか?」
「そうでなきゃおかしい年数だよ。やばいくらいの長寿になるだろ」
「ですが、同じく当主であった君塚様なら生きていてもおかしくはない……と、私は思います。もし生きてらっしゃったら、どうしますか?」
「もしもの話は嫌いだが――そうだな、生きていたら、どうして俺を当主にしたのか、生きながらえさせてこんな苦痛を与えたのかくらいは、聞きたいな。死ぬことより幸福があるのなら、生きて君塚と、もう一度話せることなんだろうな。だから、俺はよく似ていて君塚の血を持つ龍臣に固執するのかもしれない」
「――……君塚様と、どう知り合ったのですか?」
「簡単な出会いだよ。世界で特別運命的な出会いでもない。ただの、主治医だったんだよ。……妙な主治医だった。元気になるために畑や花壇を作れと言ってきて、植物の世話が大変だったよ。倒れた時もあった。……けど、楽しかった」
「好き、でしたか?」
「うん、俺はね。でもあの人には恋人がいた――千湖だ。千湖が恋人だったんだよ、よりによって、白上の分家からきた、養女。千湖がきたときから、婿養子を迎え入れるため、俺はお祓い箱だったんだよ、既に長男を殺す準備はできていたんだ。君塚は、だから俺を選んだ。俺を選んで、姓をくれた。より、可哀想な、俺を――」
刃鐘の肩は震え、傍にいた燕の一匹が肩に乗ってきた。
刃鐘は肩に乗った燕を手元に載せ、愛でて遠い眼をする。
「怒りを感じたよ、愛と同時に。大好きだけど、愛してたけど、惨めだった。俺は、あの人が何を考えているのかとうとう最後まで判らなかったんだ」
「どうして決めつけたのですか、可哀想だからと刃鐘様を選んだと――失礼、口が過ぎました」
「いや、いい。……あの人は、ついに最後まで俺を叱らなかったからだ。悪い行いをたとえしていても。それって対等ではないだろう?」
「――そんな、ことは」
「彦や黒鳩が、お前に何一つ怒らなかったら何を思う? 白鴉、お前は何を思う?」
「――……そ、れは」
「言葉に詰まったのなら、それが答だ、白鴉。寂しいと、思うだろ?」
刃鐘の笑みには哀愁が漂い、全ての空気を悲しみに変える力があった。
空気の中に纏われる涙こそが、真実の感情であるとでも言わんばかりの熱情を、白鴉は感じとり、ついぞ自分の悲しみも釣られるように打ち明けた。
「寂しいという感情について、よく判らないのです、刃鐘様」
「おかしな子だな、お前はよく寂しがって彦のもとに遊びに行っていたじゃないか」
「彦様は理想のととさまだから、傍にいてほしいなって。それが親子の自然な姿だから、って思っていたのです。でも、寂しさについては、これこそが寂しさ、というものを自覚したことが御座いません」
「自然な姿とはまたおかしな言葉を言うんだな、彦が本当の父親というわけでもあるまいに」
「理想の父親だから傍にいたい願いを受け入れた彦様の優しさに、感謝しておりますよ」
「白鴉、誤解だ、それはとんでもなく危うい誤解。あいつは優しいから甘受したんじゃない、あいつは――断るのが面倒だったのさ」
「面倒?」
「百パーセント純度の優しさがあるとするなら、それは狂気だ、白鴉。そんなもの存在しない」
白鴉には判らなかった、白鴉は赤ん坊も同然だから、醜い感情の遣り取りや、損得勘定の計算など自分ができても、相手にはできなかった。
優しさがある世界というのを疑え、と言ってるも同然であった、刃鐘の言葉は。
もし、純度百パーセントの優しさを狂気と呼ぶのなら。
「一番狂っているのは、龍臣様ですね」
「ああ、だから俺はあいつが大好きだよ、二番目に愛している。龍臣には、期待しているんだ。龍臣の優しさは、全て無償のものでお前同様百パーセント純度の優しさがあると、信じ切っている眼をしている。自分が与えるからな、その純度が損なわないよう守ってきた白上のお嬢ちゃんにはある種感謝かな。白上の血でないなら、あのお嬢ちゃんも割と好みだな」
「美衣様については嘘ですね、目が笑ってない。引き続き、忠臣様の塔による挑発を続けます、――それが一番黒鳩を止めるチャンスだわ。一つ聞いてもいいですか、刃鐘様」
「許す、何だ白鴉?」
「忠臣様がたとえば一番に辿り着いても宜しくて?」
「――そしたら、オレはその時こそあいつに詫びよう、行ってこい、清廉な魂よ」
白い鴉が飛び立つのを見届けた後に、刃鐘は独眼にてじっと虚空を見つめる。
「黒鳩は、最初に逃げなきゃあ良かったんだ。自分の水子だと判った瞬間に――そうでなけりゃ、今頃死ぬほど欲しがった娘の愛も手に入れられただろうに、難儀な奴だ」




