表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/15

王宮

 それからは慌ただしい日々が過ぎていった。

 王宮への連絡も、リィラらがそこへ向かうために必要な旅の支度も、全てエシュライナが抜かりなく整えてくれた。火神都から王宮のある主神都(かみのまち)までは一月近くの旅になる。馬を乗り継げば、本当はもっと早く着けるそうなのだが、目の見えないフィレーラの安全を最大限に考慮して旅程を組むと、どうしてもこれだけの時間がかかってしまうらしい。それでリィラはエシュライナが自分たちに同行して王宮まで赴いてくれることになった時、ふいに火神都の政のことが心配になった。領主が長期間、領地を離れるというのは非常に重大な問題だからだ。そのぶんだけ政が滞るという意味だけではない、そんな時に何か危機的な揉め事が起きれば対処が遅れることにもなりかねず、そうしたことがあれば後でそれが致命的な失策に繋がることもあるからだ。リィラはそれを懸念したのだが、そのことを口にするとエシュライナは笑った。火神都の役所には優秀な役人が揃っているから、私が少しくらい離れていても大丈夫なのだと、心底何の不安も感じていそうにない顔で答えてくる。エシュライナは自分の臣下をよほど厚く信頼しているらしく、エシュライナのいない間、彼女の代理を任されたという彼女の側近たちは、そのことに真実、誇りを感じているように見受けられた。逆に留守を任された臣下のほうが、長期に亘って領地を離れなければならない自分たちの主君を心から強く案じているように見える。国防軍の副将軍として、人を纏めることの難しさを痛感してきたリィラには、エシュライナは自らの臣下と驚異的なほどに強い信頼関係を築いているように見えた。リィラの父親が、他ならぬ自分の家臣に討たれて死んだことを思えば、何という違いだろう。リィラの父親がとうとう築けなかったものを、この幼い少女は立派に築き上げているのだ。

 旅は順調に進んだ。特に支障もなく主神都に到着し、すんなりと王宮にも入れた。エシュライナの報せが行き届いているのか、リィラたちは正式に国賓として招き入れられ、到着するなりそれを待っていたかのように、さっそく国王に面会を求められる。宮中の女官らしき女性たちに礼装に着替えさせられてから、リィラは彼女たちに先導されて公式の謁見の間に足を運んだ。そこでリィラは生まれて初めて、一国を治める国主と対面することになった。王女として公務をこなした経験のないリィラにとって、他国の王の御前に出るなどということは初めてのことだった。

「王女が母国に帰国して復位し、新王として即位することを望んでいるのならば、それを妨げている逆賊を討伐することに、我が国は些かの躊躇もするつもりはない。全面的に、王女に協力しても良いと、この場で宣言しておこう」

 国王はそのように明言してきた。明確な言葉からは、彼の意思がはっきりと伝わってくる。

「―ただし、そのためには条件がある」

「どのような条件でございましょうか?」 

 応じたのはフィレーラだった。フィレーラは天主神国では神王と同等の存在なのだから、この国の王が自ら言葉を発している今は、彼女が応じるのが礼儀なのだ。通常、こうした公的な会談の席上では、発言している人物よりも身分が低い人間は、直答を求められない限り口を挟まないのが常識だった。

「エリレーシャの平野を我が国に返還していただきたい」

 国王の言葉はまたしても明確で明瞭で、簡潔だった。意味も容易に理解できる。しかしフィレーラの表情は難問を聞いたかのように引き攣っていた。同席していたディルアもヒュレイリュも、息を呑んだのが伝わってくる。

 驚かなかったのはリィラだけのようだった。なるほど、そうきたかと、リィラは何となく冷ややかな気分で国王を見つめた。きっと国王は今を、国辱を雪ぐ絶好の機会だと思っているに違いない。

 エリレーシャの平野とは、天主神国とこの国の国境に位置している平野の名前だった。リィラが暮らしていた水神都に隣接して広がっており、天主神国では見た目の印象からか黄金(こがね)平野と呼ぶ者が多いが、この国の多くの人々はエリレーシャの平野と通称している。エリレーシャとはこの国の人々が信仰している大地の女神の名前で、その名を冠せられた通り、あの平野は昔から大地の女神に愛されたかのように穀物の実りが良かった。長年、天主神国の税収を支えてきた広大な平野だが、元々は天主神国の国土ではなくこの国の一部で、リィラの祖父が戦でこの国から奪い取り、天主神国の国土とした土地なのだ。もっとも祖父は、そもそも我が国のものだった土地を不当に奪われたのだから自分は単に取り返したにすぎないという主張をしていたのだが、リィラにはそんな主張などどうでもよいことだった。リィラにとっては、あの土地の領有権が昔から曖昧なままで、天主神国とこの国が、双方に自国の国土だと主張し続けていることのほうが、はるかに重大な問題だったのだ。領有権の所在がはっきりしていないということは、国境線が未だ明確にはなっていないということと同じことであり、そのためにあの平野では昔から揉め事が絶えなかった。国防軍にとっては、これほど厄介な土地は他にどこにもない。リィラはあの平野で小競り合いが起きて対処を命じられるたびにいつも思っていた。こんな平野、いっそどこの国のものでもなくなってしまえばいいのに、と。

「エリレーシャの平野を我が国に返還し、今後二度と、我が国から侵奪しないとこの場で確約するのであれば、私は国軍の全軍をそなたらに貸し与えても良いと考えている。戦費も全額、こちらで負担しよう。王女が即位して後、国土の復興のために援助が必要だというのならば、手を貸してやっても良い。しかしそうでないのなら・・」

「分かりました。その条件を呑みましょう」

 フィレーラがあっさりと断言して、リィラは驚いた。国王の言葉が全て終わってもいないうちから、彼女が条件を呑むなどと言い出すとは思わなかったのだ。ヒュレイリュもディルアも、同じ思いでいるのかもしれない。二人とも目を丸くしてフィレーラを見ている。

 国王も、フィレーラがこれほどあっさりと条件を承諾するとは思っていなかったようだ。驚きとともに、微かに何かを疑うような目でフィレーラを見ている。

「―随分、容易く承諾したものだな。後になって翻すつもりではなかろうな?」

 フィレーラは苦笑した。

「とんでもございません。そのようなことはいたしませんよ。お疑いになるのでしたら、私の言葉を書状をしたためて差し上げましょうか?私たちは何としてでも祖国に帰りたいだけです。今はそれ以上の望みなど抱いておりません。その私どもの望みを叶えてくださるのでしたら、あなたがたは私どもにとって恩人です。どうして私が、恩人に裏切りをもって応えるような真似などせねばならないのでしょうか。そのような卑しいことなどできるはずがありません。仮にできたとしても、そのようなことをすれば、あなたがたは私どものなした裏切りに対して、必ず報復しようとなさるでしょう。そうなれば、我が国は今度こそ滅んでしまいます。内政の混乱した我が国には、貴国のような大国に太刀打ちできる力などないのですから。あなたは天仕の私が、自ら国を滅ぼすようなことをするとでもお思いなのでしょうか?」

「そのようなことは思っておらぬ」

 国王はフィレーラに向かって断言した。リィラには彼が、その瞬間だけ不快そうに眉を顰めたように見えた。

「貴女は少々、私の言葉を大袈裟に解釈しているのではないかな?私は貴国の天仕ともあろう御方が、そこまで愚かであるとは思っていない。それとも、私の言葉が誤解を招くような表現だったかな?ならばお詫びを申し上げよう。私は今、――不敬な言い方ではあるかもしれぬが、貴国の先王を弑してくれた逆賊に感謝しているよ。もしもあのことがなかったなら、我が国はこうも容易く自国の領土を取り戻すことなどできなかっただろう。これでようやく、先祖が守り抜いてきた土地を、我々も自らの手で守ることができるのだ。貴国の逆賊によって我が国の悲願が叶えられてしまうとは、皮肉の極みかもしれないがね」

 完全に取り戻したわけではないだろう、リィラは冷ややかな気分でそう思っていた。返還は一時的なものにすぎないはずだ。一時、土地の所有権をこの国に貸与したにすぎないとフィレーラは考えているだろう。今までもさんざん、取り引きの材料に使われてきた土地なのだから、その可能性のほうが高いはずだ。フィレーラの死後、あるいは彼女が政治を退いた後の国主まで、この条件を呑み続けるとは思えない。必ずやいずれ、弱みにつけこんで領土を奪われたのだと言い出す者が現れるだろうし、そうなれば再び揉め出すはずだ。ひょっとしたら国王も、そんなことは承知しているのかもしれない。承知していて、今だけ良ければよいと考えているのではないか。今のうちだけでも、エリレーシャの平野がこの国に戻ってくれば、自分は敵国から交渉ひとつで領土を奪い返した名君であり、外交の名手ということになるのだから。

 しかし勿論、国王もフィレーラもそうした感情を表に出すようなことは決してしなかった。二人はリィラの目の前で淡々と、自分たちの発言内容を対外的に証明するための文書を作り始めている。

「―では、こちらの書面に、天仕さまと王女さま、王子さまのご署名をいただいても宜しいでしょうか?この書面が公的に有効なものとなりえるためには、天仕さまだけでなく、貴国の王族の方々の同意も得なければなりません。あなたがたのご帰国を支援するための軍勢をどのように整えるかは、その後で軍事を司る大臣が、詳細をお伝えになられます」

 国王の傍に控えた下官の言葉に、フィレーラは頷いた。彼女は自分の右手を振り返ると、傍に控えたリルを促す。リルは承諾の意を下官に伝えて、書面に向き直った。それからフィレーラの代わりにフィレーラの御名を署名する。フィレーラは全盲であるのだから文字を書くことができない。それで以前からずっと、こういう公的な文書を作成する時はリルがフィレーラの代わりにフィレーラの名前で代筆をし、その旨を文書の片隅に記しておくのが習慣になっているのだ。リルは慣れた手つきでフィレーラの御名と、代筆者として自分の名前を書き、自分が記載した内容をその場で読み上げる。フィレーラが頷いて、それで間違いないという意思を伝えると、リルは一礼してから再び傍らで静かに控えた。リルの衣擦れの音が絶えると、それを合図にしていたようにフィレーラは次にディルアを促す。ディルアが頷いて同じく静かに自身の名を署名した。リィラではなくディルアに先に署名をさせたのは、フィレーラなりの配慮だろう。本来、王位継承において優先されるべきはディルアのほうなのだから。実際に玉座に就くのはリィラであることなどこの場にいる誰もが承知していても、フィレーラとしては彼を軽んじているわけではないことを態度で示したかったのかもしれない。

 ディルアの署名が終わると、フィレーラは最後にリィラを促してきた。リィラの前に書面が整えられる。リィラはすでにフィレーラとディルアの名が記されたその書面を眺めた。たった一枚の紙切れ。自分の名前が書かれるべき場所だけが不自然なほど大きな空白となっている。リィラは思わず息を詰めた。この空白に自分が署名をすれば、それだけでこの紙切れは正式な外交文書としての価値を持つようになる。領土の返還に天主神国が同意したとみなされ、それをもってこの国の王は代償に軍備を整えるのだ。言い換えれば、この書面にリィラが自分の名前を書けば、たったそれだけで大勢の人々がリィラを祖国の玉座に据えるべく、動き始めることになる。そうなればもう、後戻りはできない。

 そのことを改めて認識すると、リィラの手は震えた。自分の名前がそこにあるか否かだけで、たった一枚の紙切れが持つ重みが変わってくる。そんな事態を経験するのは今が初めてだった。無論、リィラは国防軍の副将軍だったのだから、これまでにも軍務のあり方を根底から変えるような重要な決定に関わったことはある。しかし今回はこれまでとは事情が違った。リィラが最高責任者なのだ。この国の国王の言葉を受け入れるかどうか、最後に決定する権限がリィラに与えられているのである。もしもリィラがここで署名を拒めば、それだけでこの文書はただの紙切れとなり、フィレーラやディルアの意思さえも意味を持たなくなるのだ。今まではリィラの上には必ずヒュレイリュがいた。だからリィラが何かに対して最後に決定を下さなければならないことなどなかった。しかし今は、そういうこともない。ヒュレイリュは将軍で、リィラは王女だ。この場ではヒュレイリュはリィラの臣下にすぎず、臣下である以上、彼はこの決断には関われない。

 リィラは書面の文面に視線を移らせながら激しく動揺していた。この署名は拒否するべきなのだと、頭では理解できていても、本当にそんなことをしても良いのかどうか、判断に迷う。何度も自問してみた。自分の名前の持つ重みを思えば、いくらリィラが自分は玉座にふさわしくない、王位は継ぎたくないと思っていても、軽々しく拒否してはならないように思えてくる。自分のためにフィレーラやディルアが不利益を被ることなどあってはならないからだ。ならば、自分はいったいどうすればいいのだろう。フィレーラの意を重く見て、署名するべきなのだろうか。それともあくまでも自分自身のこれまでの行いを顧みて、署名は拒否するべきなのか。

 ふいにディルアが怪訝そうな表情で自分のほうを窺ってきた。いっこうに署名する様子をみせないリィラに気づいて、どうしたのかと思ったのだろう。リィラはディルアのそうした視線に気づいてはいたが、返答は返さなかった。返せなかったのだ。リィラの思考には付近に気を配れるような余裕などなく、ひたすらこの重大な問題に対してどういう決断を下すかということにしか考えが回っていなかった。

 自分はいったい、どちらを優先するべきなのだろう。フィレーラの意思か、それとも、自分自身の意思か。本来であれば勿論、優先するべきはフィレーラの意思のほうだ。しかし今は単なる日常の一事についての決断を迫られているのではない。リィラの決断如何によっては祖国の今後の有様が大きく変わってしまうのだ。リィラのような人間が祖国の神聖な玉座になど就くべきではない。それは正論で、ならば自分は署名などするべきではないことは明らかだろう。しかし今ここで自分が署名を拒めば、この国の援助が受けられなくなり、フィレーラまでもが生涯、祖国に戻ることができなくなることになりはしないか。

 リィラの心には、これまでに経験したことがないほどの大きな苦悩があった。どういう決断を下せばいいのか分からない。最良の道が見えない。フィレーラが生涯を亡命者として過ごさねばならなくなることも、自分が玉座に就くことも、リィラにとってはどちらも絶対に避けたいことだった。激しい焦燥がリィラの身内で渦巻く。何をどう考えていいのかすら分からず、心だけが徒に逸り、息が詰まった。何とか落ち着けと自分に言い聞かせながら深呼吸することを繰り返し、どうにかして自分の思考を取り纏めなければならないと努力していると、ふいに何かが自分の視界を遮ってきた。

「―失礼を。・・申し訳ありませんが、王女に、少し休息の時間を与えていただくわけには参りませんでしょうか?」

 視界を遮った何かが自分を抱き寄せるようにしてくる。耳元で誰かの声が響き渡ってきた。誰の声だと、認識できる余裕すらもなく、リィラはひたすら混乱した思考のなかで喘ぎ、そして思わず自分を抱き寄せてくれた誰かに縋ってしまった。その誰かはリィラに縋られても動じた気配を見せず、宥めるかのようにリィラの背をそっと撫でてくる。そのことがリィラに絶大な安心感をもたらした。このままこの誰かに何もかも任せてしまいたいとさえ思い、リィラの理性は安心感と焦燥感のあいだで激しく揺れ動く。意識が揺れるとリィラは自分の視界も揺れているように感じた。もはやリィラには目の前の現実を正確に認識することすらできなかった。


「―大丈夫か?」

 リィラが目を開けると、声が聞こえてきた。ヒュレイリュが自分を覗き込んでいる。

「まだ起きなくてもいい。無理はしなくていいんだ。国王との会談は散会になったが、国王もフィレーラさまもお前を見限ったわけではない。お二方とも、お前が慣れない場で緊張していたのだろうとお考えになられている。国王の意が翻ったりはしていないから、お前は安心して少し休んでいなさい」

 宥めるように言い聞かせてくる彼の言葉に、リィラはようやく自分がどこかに横になっていて、たったいま起き上がろうとしていたことに気がついた。会談から今に至るまでの記憶がなく、いま自分がどこにいるのか全く分からなかったが、あえて訊くことはしなかった。国王の意が翻ったわけではないとヒュレイリュが言っているのだから、王宮のなかであるのは間違いないからだ。ヒュレイリュが自分をどこか、休める場所まで運んだのかもしれない。そういえば、目覚める前、最後にヒュレイリュの言葉を聞いたような気がする。

「―お前でも緊張して気絶したりするんだな」

 ヒュレイリュが苦笑したような微笑を浮かべてきた。

「突然、お前が過呼吸か喘息の患者みたいになったから焦ったよ。フィレーラさまはたいそうご心配なさっておいでだ。もう平気か?まだ苦しかったりするか?」

 リィラは首を振ってみせた。

「―大丈夫よ。もう平気。国王は翻意したりしていないのね。良かった」

 思わずそう呟いてしまったが、リィラは自分で自分の言葉に疑問を抱いていた。本当に自分は、そのことを良かったと思っているのだろうか。むしろ国王が、リィラが署名しないことに怒り、全てが白紙に戻ってくれたほうが良かったと思っているのではないのかと。

 ―だってそれなら楽だった。自分が祖国の今後を左右するような決断をしなくても済むのだから。そうなっていれば、自分が祖国の国主になるような事態だって訪れないのだから。

 良かったなどとはリィラも本当は思っていないはずだ。リィラは国など必要としていないのだから。そんなものに拘る心などとうの昔に捨ててしまっている。特にリシェラの暮らしぶりを間近に見てからはいっそうその思いは強くなっていた。この世は、国籍のない流れ者だって、あれほどに立派に生きているのだ。自分も、国などなくったって生きていけるはずだ。

「ああ、それだけは本当に良かったと私も思っているよ。こういう国と国との直接的な外交交渉の場では、意外と些細なことが致命傷になったりするからな。私もお前ほどじゃないが、警備なんかで宮廷のことはよく見てきたから、少しはこうした場のことも分かるつもりでいる。国王のご厚情には感謝するべきだろう」

 ヒュレイリュの口調は心底安堵しているふうだった。それでリィラは思い切って訊ねてみようと思った。もしも自分が、ヒュレイリュの思いとは反する言葉を口にしたら、彼はどう反応するのか、なんとなくそれを知りたくなったのだ。

「―ねえ、もしも私が、あの文書には署名したくないって言ったら、ヒュレイリュはどうする?」

 ヒュレイリュはリィラがそう問うても、特に驚いた様子は見せなかった。深い意味を感じた素振りすら見せない。まるで日常の、他愛もない歓談に応じるような軽い口調で、彼は口を開いてくる。リィラの言葉は彼にとって、これまでの全てを覆しかねない驚愕のものであるだろうに、意に介していないように見えた。

「どうもしない。お前がそうするべきだと判断したのなら、私はその意思を尊重するだけだ。私はそもそもお前の臣下だ。お前のすることを妨げることができる権限など持ち得ていない。お前が副将軍として出した決断なら、私にはお前の判断を吟味したり監督したりする責任があるが、王女として下した決断なら、私に意見が言えるはずはないだろう。お前が自分自身を危険にさらそうとしているのなら話も別になるが、今はそういう事態が起きているわけではないからな」

 リィラは首を傾げた。

「―ヒュレイリュは、本心では私が署名はしないという判断をしたら、それに反対したいと思っている。けれどヒュレイリュのほうが私よりも身分が低いから、私がどういう判断をしても異議は唱えないということ?」

「そう捉えても構わない。私はお前にお前のあるべき場所まで戻ってほしい。けど、お前自身がそれはしたくないとか、そんなことはできないと判断するなら、それに反対するだけの言葉は私にはないということだ。私は異国で咎消し人を務め続けるのは、お前には合わないはずだと考えているが、もしもお前がどうしてもその務めを全うしたいというのなら、そのためにできる限りの支援もするつもりでいる。それを躊躇うつもりもない」

「どうして?」

 リィラは怪訝に思った。

「どうしてヒュレイリュは、私が咎消し人にはふさわしくないと思ったの?私、何かそう見えるようなことでもしてた?」

 そんな覚えは全くない。リィラは己に与えられた職務は常に忠実にこなしてきた。咎消し人の務めは、リィラには決して快いものではなかったが、それでも目立つ不祥事などは起こしたことがない。ディルアを刑場から逃亡させたことが、不祥事といえば不祥事になるのだろうが、まさかヒュレイリュはそのことを言っているのではないだろう。

「お前の目は死んでいたからな」

 呟くように言ったヒュレイリュの瞳には、いつもと異なる奇妙ないろがあった。彼の瞳に宿るものの正体も、彼の言葉の意味も、リィラはすぐには分からなかった。しばらくして、ヒュレイリュの瞳に宿る奇妙ないろの正体が、彼のリィラへの憐憫であることには気づいたが、そのことでいっそう、リィラは彼が何を考えているのか分からなくなった。そんな目でヒュレイリュに見つめられたことなど、リィラは今まで一度もなかったからだ。

「私は咎消し人に志願したお前をずっと間近で見てきた。だからお前の瞳が日を追うごとに輝きを失って、死んでいったのをよく知っている。私には、お前の瞳はただ周りを映しているだけの鏡のように見えた。周りを見る時に余計な感情を抱くと辛くなるから、あえて何も思わずに、鏡のように単に周囲を映すだけのものとして自分の瞳を使うことで、必死に自我を守ろうとしているように見えたんだよ。見ていて痛々しくなるほどだった。お前は自分では気づいていないかもしれないが、軍人だった頃からそんな鏡みたいな目をしていてね、それがよりいっそう酷くなったように見えたな。だから私はずっと思っていた。軍人も咎消し人もリィラに務まるような職務ではない、とね。自分で軍事を教えておいて、軍人には向いていないなどと言うのは酷いと思うかもしれない。だから私はお前が本当はどこにいるべきなのかを以前から真剣に考えていた。けど何度考えても、やはり私にはお前がいるべき場所は王宮としか思えない。王女が王女として在るにふさわしい場所なんて、あそこだけだ。だから私はお前が再び王宮で暮らしていけるためには、どんなことでもしてあげたかった。鏡の瞳が人間の瞳に戻ってくれるなら、お前がもっと生き生きと暮らしていけるようになるなら、何でもしてあげたかったんだ」

 では、それでヒュレイリュは必死で逆賊を倒そうとしていたのか。リィラは呆然としていた。ヒュレイリュがそれほどにも、自分のことをしっかりと見ていてくれているとは思っていなかったのだ。自分が周りからどう見られているかなど、リィラは今までほとんど意識したこともなかったから、リィラはずっと彼は自分のために祖国への帰国や復位を願っているのだと思っていた。しかし彼の心の内をこうして知ることができると、同時に疑問も生まれてくる。思わずリィラはヒュレイリュを問い質していた。

「軍人に向いていなかったのなら、どうしてヒュレイリュは私を副将軍なんかに任命したの?私よりもっと適任の軍人は大勢いたでしょ?向いてないなら、もっと早くにそう言えば良かったんじゃない?ヒュレイリュには私の面倒をみなければならない義務なんてなかったはずよ?軍人を志願したのは私の勝手な意思によるものだし、志願しても身体の事情なんかですぐに退役を命じられる軍人は大勢いるじゃない。この国に来て咎消し人に就いてからも、私の仕事がそんなに私に向いていないと思ったのなら、そう言えば良かったはず。どうして今までは何も言ってこなかったの?」

 もっとも彼がリィラの言葉どおり、早くに自分を軍から退かせていたら、自分は確実に王宮で逆賊の手にかかって死んでいただろうが。

「向いていないというのは、能力がないという意味ではないよ。お前は能力はあった。ひょっとしたら咎消し人としても優秀だったのかもしれない。そちらは私では判断できないが。軍人としての能力はお前がいちばん高かったんだ。だから私はお前を育てたし面倒をみたし、副将軍に任命して自分の補佐も頼んできた。けど、お前が本質的に軍務を厭うていることは分かっていた。だからずっと様子を見ていたんだ。もしもお前が軍務を、単に厭うという段階を通り越して耐え難いと感じ始めたら、その時は私はいつでも退役勧告を出すつもりでいたよ」

「なら、どうして、私は向いてなかったんだと思う?」

 リィラは訊いた。向いていなかった理由など自分にはよく分からない。リィラとしては軍人も咎消し人も、どちらの務めも精一杯にこなしてきたつもりだった。確かに自分でも、好きな仕事をしていたとは思っていないが、他者に明らかにそれと分かるほど向いてなかったのなら、そう判断された理由を知っておきたい。

 するとヒュレイリュは、リィラの問いに苦笑してみせた。彼は、向いてないのはお前が優しすぎるからだろう、と答えてくる。

「軍人も咎消し人も、共通してるのは国のために人を殺すことだ。そのせいかどうか、国防軍には自分を野蛮な人殺しで、人を殺して報酬を得ている罪人だと思い込む兵士が時々現れてくる。その考えは不合理だが異常なものではないから、私はそうした兵士をその考えだけを理由に軍から排除するようなことはしない。軍人の任務は何も戦に出ることだけが全てじゃないからな。そうした、前線に出すのに向かない兵士はできるだけ実戦とは直接関わらないような場所に配置すれば軍務に支障はないし、それでしばらく様子を見て、あまりに辛く感じているようなら退役勧告を出すことで対処していたんだ。そこまでの処置をしたことはほとんどなかったけどな。そうした、善良で優しいだけが取り得の、お人好しの見本のような兵士も軍には必要だから。お前もそうした兵士の一人に見えたんだよ。少なくとも私の目には」

 私が優しくて善良な人間。リィラは自分に出された評価が信じられなかった。軍人として咎消し人として、自分は多くの人間を殺してきたからだ。全身が流血にまみれて罪で穢れているような人間が善人。ありえない。そんなわけはない。自分は他人の血と殺戮の罪で穢れている人間だ。だからこそ玉座にはふさわしくなく、神聖な宮廷に、国主として戻るべきでもない。そんな人間のはずなのに。

「―じゃあヒュレイリュは、私は軍人にも咎消し人にも向いてないけど、玉座の主には向いていると考えてるのね?」

 ヒュレイリュは頷いた。

「ああ、向いているはずだ。お前が軍人として、咎消し人として殺めた生命を、職務上のやむをえない行為ではなく、自分がなした単なる野蛮な人殺しとして自責の念に駆られるほどの心の持ち主ならな。普通はお前みたいな考えなんか持たない。職務上、やむなくなした殺しなら、仕方ないといって割り切っていくものだ。私もそうだった。そうでないと自我が壊れてしまうからな。そうして誰もが人の死に徐々に慣れていくんだ。けど、そんなことを繰り返していれば、やがては人を殺しても何の感慨も抱けなくなってくる。なのにお前はそうはならなかった。職務上なしたやむをえない殺害行為さえも、まるで自分の罪であるかのように感じて、人の生命を絶った自分を責めている。それでも心を壊したりなんかしていない。そんなことができているのはお前が他人の生命も自分と同じくらい大切に考えているからだし、お前が私なんかよりも遥かに強い意思を持っているからだ。お前なら、必ず玉座の重責にも耐えられるだろう。いい君主にもなれるはずだ」

 そんなことはない、リィラは思わず反論しそうになった。しかし言葉は出てこなかった。ヒュレイリュに何を言ったらいいのか分からなかったからだ。それぐらい、リィラの思考は混乱していた。

 ヒュレイリュの今の言葉はリィラの価値観を根底から揺さぶるものだった。自分より年上の、将軍の彼の言うことだから正しいのだと、そう思えるほどにはリィラはもう幼くはないが、それでも彼の言葉には無視できないものがあった。ヒュレイリュはリィラが他者の殺戮によって穢れていることなど最初から承知している。承知していてなお、彼はリィラを玉座の主にふさわしい存在だと言ったのだ。むしろリィラがそのことを自覚しているからこそふさわしいかのような口振りで、彼の言葉を受け入れるのなら、リィラが己の穢れを理由に玉座を忌避しているのは、リィラの勝手な思い込みであり、自分は誤った考えに基づいた決断をしていたことになる。

 ならば、自分はいったいどうするのが最良なのだろう。リィラは自問した。自分は、自分の考えを誤ったものだったと認めるべきなのだろうか。そのうえで、ヒュレイリュの言葉のほうを正しい考えとして、正しい考えに基づいた決断に改めるべきなのか。そうするべきなのだろうか。

 答えはすでに判明しているようにリィラには思えた。たぶん、ヒュレイリュの考えのほうが正しいのだろう。そうでなければフィレーラがリィラとともに帰国しようとするはずがない。

 そして天主神国では、天仕と神王は同等の存在であり、王族には、天仕の言葉を尊重し、天仕のなすことには従わなければならない義務がある。

「―ヒュレイリュ・・」

 密かな決意を込めて、リィラが小さく呼びかけると、ヒュレイリュが顔を寄せてきた。軽く覗きこむようにしてくる彼に、リィラは静かに語りかける。

「―私は、あの文書に、署名するわ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ