エシュライナ
年嵩の男はリィラが屋根を駆け抜けていた家屋の、住人だった。
彼はリィラが高札の人相書きに酷似した人物であることに気づいていた。リィラが兵士に追いかけられているところを偶然、自宅の窓越しに見て、その際にリィラが高札に掲げられた人相書きの女によく似ていること、リィラを捕まえれば領主から謝礼金が貰えることを思い出したらしい。それで彼は最初、リィラを追跡する兵士を応援しようと家を出ようとしたが、しかしその前に当のリィラのほうから彼の自宅の屋根の上に登ってきたために家を出るのを止めたのだということだった。彼は窓を開けて身を乗り出し、リィラを待ち構えていた。そんなこととは知らずにリィラが彼の期待どおりに屋根を飛び移ろうとしたために、リィラは呆気なく彼の手中に落ちることになったのだ。彼は自宅にあった縄を投げてリィラの足首を捕らえ、窓の外に張り出した屋根なしの物干し台の上に引き摺り下ろしたのだが、造作もないことだったという。
リィラは彼の手によって街路で自分を見つけた、あの若い兵士に引き渡された。兵士は駆けつけてきた同輩と、左右から自分の両腕を摑む。兵士たちはリィラを縄で縛るなどの拘束はしてこなかった。そこまでの必要はないと、判断しているのかもしれない。実際、左右からしっかりと腕をとられていたのでは、リィラに逃げることはできなかった。
リィラは兵士に歩くよう指示され、近くの役所に向かった。そこでしばし待たされ、慌ただしく用意された馬車に乗せられる。どこへ向かわせられるのかと思ったが、到着したのは市井からは少し離れた閑静なところにある、立派な邸宅だった。誰の邸だろう、とリィラは怪訝に思う。兵士に訊ねようかとも思ったが、口を開くよりも前に兵士のほうから言葉を添えてきた。ここは火神都の領主の別邸のひとつだと。領主は今、公務の都合でこの邸に滞在しているらしい。
なるほど、領主の別邸か。リィラはそれを知ると納得した。目の前の邸宅は、たしかに領主以上の身分の者でないと所有できないのではないかと思われるほど、大きくて立派な造りをしている。純白に近い石をふんだんに使って建てられた邸宅は湖のすぐ傍にあり、遠くに見える山々の緑と、湖面に映る空の青が映えて、陽光に美しく輝いていた。
リィラは兵士に馬車を降りるよう指示されると、抵抗することなく素直に下車した。そのせいかどうか、兵士たちはリィラに対して手荒な扱いはいっさい、してこなかった。それどころか、まるで賓客に対するような丁寧な態度でリィラを邸宅へと先導し、邸内に入るとこの別邸の下人と思しき女性に丁重に引き渡した。リィラは彼女にひとつの部屋に案内されると、そこでしばし待つように命じられる。きちんと内装が整い手入れも行き届いた部屋だった。室内の調度も豪華で、明らかに身分の高い来客を迎え、もてなすために用意された部屋だと分かる。自分は領主の客人扱いになっているのだろうか。リィラはそう思った。ならば、やはり火神都の領主が自分を捜しているのは、キュリスから連絡を受けたからなのだろう。ひょっとしたらもう、リィラの出自も知っているのかもしれない。他国の王女なら無下に扱うわけにはいかないと判断されているのではないか。実際、下人の女性の態度も丁重そのものだった。茶器を整えると、リィラに茶の給仕までしている。
女性は給仕を終えると、いったん部屋を退出していった。リィラはおとなしく彼女の言葉に従って、室内に設けられた座り心地のいい長椅子に腰かけていたが、しばらく一人で放置されていると、リィラの心には、今なら逃げられるのではないか、という思いが芽生えてきた。この部屋には窓があり、窓には格子も何も入っていない。部屋自体も一階にあり、逃げようと思えば容易く逃げられるような気がする。
リィラは僅かに逡巡すると、立ち上がって窓辺に歩み寄った。窓の外を眺め、外の警備がどうなっているのかを確認する。どういう手段でどういう経路を辿れば確実に逃げられるか思考を巡らせていると、扉が開く音がした。反射的にリィラが振り返ると、立派な衣装を身につけた数人の男性が部屋に入ってくるところだった。リィラは内心で舌打ちする。一人でいられた時間は思いのほか短かった。彼らが来るのがあともう少し遅ければ、この部屋から脱出できていただろう。
彼らの一人、最も年長に見える男が丁寧な言葉遣いで、領主がリィラとの面会を求めているということを述べた。お会いくださいますか、と訊ねられ、リィラは頷く。領主の面会の要請を、拒む理由などはリィラにはなかった。もっとも、仮に理由があったところで、拒否することは難しかったかもしれないが。
リィラは男たちの後に続いて部屋を出ると、廊下を歩き出した。歩を進めているあいだ、男たちは特にリィラに話しかけてきたりはしなかったし、リィラも特に彼らに言葉をかけたりはしなかったから、自然、誰もが無言のままでいることになった。いちど建物の外に出て、渡り廊下のような場所を歩いて別の建物に入ると、すぐに領主のいる部屋に着いたらしい。ひとつの扉の前で先頭の男がようやく口を開いた。扉に向かってリィラを連れてきたことを告げる。
彼の呼びかけには室内から若い女性の声で応答があった。リィラの入室を許可するとの言葉が聞こえてくる。男はそれを受けてリィラを振り返った。
「領主様はこちらのお部屋で貴女様をお待ちになっておいでです。入室の許可が頂けました。お入りになられてください」
リィラは頷いた。彼が開けた扉の内側に足を踏み入れる。室内に完全に入ってしまうと、男たちは扉を外から閉ざした。彼らが立ち去る気配は感じられない。リィラが室内にいるあいだ、廊下で待機しているつもりなのだろう。
室内にいたのは一人だけだった。リィラと正対する位置に立派な書き物机が据えられており、そこに向かってまだ子供といっていいほどに若い女性が腰かけている。一見しただけでリィラよりも年下と分かる少女だ。年の頃は十か十一か、そのくらいにしか見えない。室内には他に誰の姿も見えないから、先ほど、リィラの入室を許可する言葉を発したのは彼女だろう。つまり、彼女が領主なのだ。女性の、それも子供の領主とはずいぶん珍しいなとリィラは思う。領主ならば彼女がこの火神都を代々治めることを任されている貴族の当主ということになるはずだが、この国の貴族は概ね、成人している男性にしか家督を継がせず、当主にも任じないものだからだ。
少女はリィラに視線を向けると、にこりと微笑みかけてきた。まだあどけない感じの、可愛らしい微笑み方だった。
「初めてお目にかかりますね。私は領主としてこの火神都を治めることを任されている者です。エシュライナと申します。貴女が、天主神国の第五十八王女、リィラさまですよね。お会いすることができて光栄でございます。どうぞ、お好きなところにおかけになられてください」
エシュライナと名乗った少女は室内に据えられたいくつかの長椅子を指した。リィラは彼女の指示に従って近くの長椅子に腰かける。エシュライナの口調は滑らかだった。言葉遣いに迷う素振りが全く見られない。礼節に則った発言をすることに、かなり慣れているようだった。彼女は若くても、領主としてそれなりの経験を積んでいるのだろう。そもそもは名家の姫君でもあるはずだから、幼い頃からしっかりと躾けられてもいるのかもしれないが。
「貴女が私の治める、この火神都に向かわれていることは、伝達屋の方が届けてくださった御文で存じ上げておりました。これから天主神国の王女さまが私の下に参られるから、そうしたら亡命者として保護してあげてほしいという御文をくださった方がいらしたのです。御文には、貴女の容貌について簡単に描いた絵も添えられておりました。それで私はその絵を基に絵師に人相書きを描かせて、各地の役所に送ったのです。この人相書きを高札に掲げて、容貌の特徴が一致する女性がいたら、すぐに保護するようにと命じました。同時に警邏の兵士にも通達を出して報せを行き渡らせ、貴女が火神都に入られたら、いつでも保護できるようにしていたのです。このことは、御文をくださった方の頼みでもありました。貴女は自分が私の下まで連れて行くつもりだけれど、今の自分は流れ者だから、途中で何が起こるか分からない。ひょっとしたら、突然の変事が起きてはぐれてしまうこともありえるから、もしもそうなっても大丈夫なように、とのことだったのです」
流れ者が文を出していた。リィラはエシュライナの言葉で、その文を出したのが誰なのか容易に推測がついた。
「―失礼いたします。お言葉の途中で口を挟む無礼をお許しください。お訊ねしても宜しいですか?私が火神都に向かっていることを、ご領主さまに御文でご連絡さしあげましたのは、どこのどなたでございましょうか?」
念のために訊いてみると、エシュライナはくすりと微笑んだ。
「そのように畏まる必要などございませんよ。貴女は王女さまで、私などよりも気高いお生まれなのでございますから。―私に連絡をくださったのは、リシェラという方です。天主神国で医官を務めておられた方だそうですよ。第二十八王女の主治医でいらっしゃったそうです」
やはりリシェラか。リィラは思わず息を呑んだ。彼女が故国で医官をしていたという話は初耳だった。けど、それならば彼女が女医でありながら流れ者の芸人をしている理由も分かる。第二十八王女は夭折しているのだ。そして、リィラはその夭折の原因が、王女が風邪を召した際の治療を主治医が誤ったためだと聞いている。リィラは自らの異母姉でもあるその王女と面識はないのだが、この話は有名で、何度も聞いたことがあった。処置を誤った主治医は、神王の恩赦もあって国外追放処分に留まり、国を出されただけで済んだということだったが、リシェラはそれで医術者として活動することができなくなって、流れ者の芸人などしているのだろう。リィラは彼女の顔に見覚えがあるような気がしていたが、リシェラが元々王宮の医官だったのならば、それは当然のことだったかもしれなかった。ひょっとしたら、小さい頃のリィラに奇術を教えてくれた女官が、彼女だったのかもしれないし、たとえそうではなかったとしても、王宮に務めていた者ならリィラの素性など顔を見ただけで理解できたはずだ。リシェラは最初からリィラが王女であることなど承知していたのだろう。それでも彼女がそのことに気づいていないふりなどしていたのは、リィラに出自を問い質すことで、リィラがリシェラを警戒して逃げ出してしまうかもしれないと考えたからかもしれない。リィラをエシュライナの下に連れて行こうとしていたリシェラにとっては、それは避けたいことだったのだろう。知らないふりを貫いておけば、リィラはリシェラを、自分のことなど何も知らない赤の他人とみなして安心するのではないかと判断したのではないのか。何のためにリシェラがリィラをエシュライナの下に連れて行こうとしていたのかは分からない。王女は然るべき機関が保護するべきと考えていたのかもしれないし、単に謝礼金が目当てだったのかもしれない。リィラが露店の客の言葉に焦ってリシェラの下を逃げ出したのは、彼女にとって想定外の事態だったのだろうか。たぶんそうではないだろう。おそらくリシェラはリィラが彼女の下を逃げ出してしまうことなどある程度は予測していたのではないか。だからこそ、彼女は文をしたためて伝達屋に託したのだろう。リィラがリシェラと離れても、火神都で確実にエシュライナがリィラを保護できるようにするために。リィラは今になって初めて、リシェラがなぜあれほどに不安感のない、確信に満ちた発言をすることができたのか理解した。彼女はリィラに不安など抱きようがなかったはずだ。リィラはリシェラのことはほとんど知らなくても、リシェラのほうはリィラのことをよく知っていたのだから。その状況で、リシェラの心に不安が生まれるはずがない。
エシュライナは穏やかに言葉を続けていた。
「王女さまを保護することができて、私はとても嬉しく思っております。お隣の天主神国は、逆賊が跋扈していてたいそう荒れていると聞き及んでおりますから、正当なお血筋の王女さまがご無事であられたと知れば、きっと貴国の臣民は誰もが喜ばれることでございましょう。これで再び平穏が甦るに違いないと、皆がそう思われるはずです。私はその、貴国の臣民のご期待を裏切らないためにも、王女さまがお国にお帰りになられるためのご支援には最大限の手を尽くすつもりでおりますよ」
「有り難いお言葉ですが、それは過大評価というものでございます」
リィラはエシュライナの言いたいことを悟って、断言した。
「―失礼ながらお訊ねさせてください。ご領主さまは私の父がどのような君主であったのか、そして私がこの国でどのような立場にいたのか、そのことは御存知でいらっしゃるのでしょうか?」
存じておりますよ、エシュライナは頷いた。
「貴女はこの国にいらしてからずっと、水神都で咎消し人を務めてこられたのでしょう?伺っておりますよ」
エシュライナは不思議なことを訊かれたような顔をしていた。まるでそれがどうしたのだと言わんばかりの表情だった。
「ではご領主さまは何もかもお分かりになっていらっしゃるのではないのですか。私が祖国に、それも神聖な宮廷に戻るのにふさわしいかどうか。私の父がどういう君主であったのか。そしてああいう君主の血を引く王女を、果たして我が国の臣民が、君主として仰ぎたいと思うのかどうか」
リィラがそう訊ねると、エシュライナはいっそう不思議なものを見るような顔をして、首を傾げた。
「―貴女は、ご自分が王位を継ぐ者として、ふさわしい者ではないとお考えなのですか?」
「当然ではないですか。それほどまでに深いご理解をお持ちでいらっしゃって、なぜご領主さまは、私が玉座を継ぐべきであるかのような発言をなさるのでしょう?私は神聖な王宮に在るにふさわしい人間ではありません。それは何も、私が咎消し人として、罪人の血で穢れているからというだけが理由ではありませんよ。たとえそんなものがなくても、いったいあの国の誰が、私欲が過ぎて臣下に討たれたような王の娘を次の王に仰ぎたいと思うでしょうか?あの国にはすでに王者の血筋など存在しません。ご領主さまは今、私の祖国は逆賊が跋扈していて荒れていると申されましたけれど、それはおそらく、王者のいないあの国で、誰が次の王者になるかで力のある者たちが互いに争っているからだと思います。統治する王朝の存在しない国には、誰にでも王者となる機会があるのですから、争いが起こるのは必至でございましょう。武力で、知力で、財力で各々の力のある者同士が争い、最後に勝ち残った者の家系が、あの国の新たな王統となるはずです。それが歴史の定めでございますし、そうした争いの結果に王朝を開いた者なら、国を治める意欲も能力もあるのではないですか?ならばその者が国を統治したほうが、長い目で見れば臣民にとっても良いことです」
リィラの言ったことは嘘偽りない本音だった。リィラは王女でありたくないし、宮廷にも戻りたくない。戦を起こしてまでも国に帰りたいとも思えない。ヒュレイリュはあくまでも逆賊を討伐し、リィラを王女として復位させ、先王の王統の下に国土を復興するつもりでいるが、リィラにはそこまでの意思はないのだ。本当は、ヒュレイリュにも自分と同じ気持ちになってもらいたいと思っている。ヒュレイリュの意思は固いから、リィラはもう彼の翻意は諦めているが、それでも望みとしては、リィラはヒュレイリュも復位など諦めて新しい人生を歩んでほしいと思っていた。彼を諦めさせるためにも自分など自害してしまったほうがいいのではないかと、いったい何度思っただろうか。しかしリィラが死んでもあまり意味はないだろう。リィラが死んでしまえば、おそらくかえってヒュレイリュは逆賊に対して報復する意思を強くしてしまうはずだ。彼のなかでは異国の地で生涯を閉じた哀れな王女としての自分の存在が、どんどん美化されていくことだろうし、そうなればリィラがいなくても、彼はリィラのために同志を集めて故国に報復のための戦を仕掛けようとするに違いない。それはリィラにとって最悪の事態だった。それでリィラは自ら死ぬのを諦め、あえて玉座にはふさわしくないと誰もが考えるであろう肩書きを得ようとしたのだ。咎消し人に志願したのはそのためだ。自らを罪人の血で穢す道を選んだ王女など、玉座にはふさわしくないと誰もが判断するだろうと考えてのことだった。他に理由は何もない。リィラが玉座にふさわしい存在でなくなれば、たとえヒュレイリュでも報復のための同志を集めるのは難しくなるだろう。そうなれば自分の存在が、故国に戦禍をもたらすことはなくなるはずだ。
しかしエシュライナはリィラの本心を聞いてもなお、納得した表情は浮かべなかった。なんとなく、当惑しているようにも見える。リィラに自分が想定していなかったことを言われて、咄嗟にどう言葉を返したらよいか分からない、というふうに。
「・・私は貴女以外に、貴国の玉座に在るにふさわしい方はおられないのだと、天仕さまに伺っているのですけれど」
「―フィレーラさまに、ですか?」
「はい。天仕さまは確かにそのように仰っておられました。自分を律することのできる貴女なら、王権を託しても安心できると仰っておられたのです。ヒュレイリュさま、――貴国の国防軍の将軍であらせられたヒュレイリュさまも、同じように仰られておりましたよ。副将軍は集団を統率する能力に長けている、自分がいなくても一人で全軍を率いていけるほどの人物なのだから、玉座に就いても宮廷を率いていけるはずだ、と」
意外な名前が飛び出して、リィラは思わず訊き返してしまった。
「ヒュレイリュが?ご領主さまは、ヒュレイリュに、将軍にお会いになられたのですか?」
エシュライナは頷いた。
「はい。お会いいたしました。将軍のほうから私の許にお越しになられましたよ。貴女が突然、失踪したので捜してほしと要請されたのです。その後でリシェラさまからの御文をお受け取りいたしましたので、私は貴女が水神都からこちらに向かっている旨を、将軍にお伝えいたしました。将軍や天仕さまは、もう間もなくこちらにご到着になられると思います。貴女がここに着いたことが知らされた時、私はすぐに天仕さまの許へ、下人を使いに出しましたから」
その言葉どおり、それからしばらく時が過ぎると、扉の外から客の来訪を告げる声が聞こえてきた。リィラをここまで連れてきた、あの男の声だとすぐに分かった。エシュライナは座ったままで、扉に向かって客の身元を訊ねる。訪ねてきた客はフィレーラだった。その名前にリィラの心は思わず逸ったが、エシュライナは冷静に、ではこれから自分が彼女の許を訪ねるから、それまで客人は丁重にもてなしておきなさいというと、それには及ばないという返答が返ってくる。ご領主さまを煩わせたくはないから、自分から足を運ぶと当の客人が言っていると返され、エシュライナは、ならば客人はこの部屋に通すようにと命じた。それと同時に扉の外で人が立ち去っていく気配がする。
室外にあった気配が遠ざかると、エシュライナは再びリィラに向かって口を開いてきた。
「私は将軍にお伺いしましたけれど、貴女のお兄さまは、―ディルアさまは、水神都で大変なご災難に遭われたそうですね。私は将軍にそのお話をお聞きして、それで念のために王宮にいる法治府の長官に向けて報せを送っておくことにしました。もしも将軍のご懸念どおり、水神都の役所が、組織ぐるみで無実の人間を殺人犯に仕立て上げていたのだとしたら、大変なことですからね。水神都の役所のことは、私では調べられませんが、法治府の長官であれば、疑いだけでも監察の者を送れます。水神都の役所でいったい何が起きていたのか、すぐに確かめてくださるでしょう」
それを聞いてリィラは思わず安堵の息を吐いてしまった。法治府はこの国の法令を司る最高位の役所だ。キュリスやエシュライナのような地方領主の行状を監督するのは、法治府の務めのうちに入る。もしも法治府が水神都に向けて監察を送れば、それは水神都の、判事や咎消し人を含む法務官の職務に重大な問題がある可能性があると国がみなしているということだ。そして、もしもそうなったならディルアが無実であることなど、リィラが何もせずとも明らかになる可能性がある。そうなってほしいと、リィラは切に願った。
扉の外から再び声が聞こえてくるまでには、かなりの時間がかかった。ひょっとしたらさほどのことでもなかったのかもしれないが、リィラの主観では長い時が経ったように思え、果たして全盲のフィレーラにここまで無事に来ることなどできるのだろうかと心配になってきた頃に、先ほどと同じ男の声が聞こえてきた。どうやら無事に来ることができたらしいことにリィラは安堵し、エシュライナが外の声に応じる。
「―どうぞ、入室を許可します」
彼女が許可を出すと、静かに扉が開かれた。あの男たちが一人の若い女の手を捧げ持つようにして室内に足を踏み入れてくる。間違っても女性が転倒したりしないよう、かなりの気を遣いながら慎重に先導しているのが分かった。
フィレーラはリィラが別れた時と、それほど変わった様子を見せていなかった。着ているものが違うだけだ。全盲の彼女はゆっくりとした足取りで、一歩ずつ踏みしめるようにして室内に入ってくる。リィラは長椅子から立ち上がってフィレーラに声をかけようとしたが、その前に、リィラのほうが声をかけられて、思わずそちらを振り返ってしまった。
「―リィラ」
声のしたほうを見ると、ヒュレイリュとディルアの二人が、フィレーラの後から室内に入ってくるところだった。彼らの背後には、リルの姿も見える。
「―ヒュレ・・」
リィラは三人に呼びかけようとした声を途中で途切れさせた。真っ先に駆け寄ってきたヒュレイリュに抱き寄せられたからだ。しっかりと抱きしめられ、リィラの口許はヒュレイリュの胸元に押しつけられていたから、巧く言葉を発することができない。
「―無事だったんだな、よかった・・」
心の底から安堵しているようなヒュレイリュの声が、リィラの耳に届いた。
「ヒュレイリュ、リィラがそこにいるのですか?」
ふいにフィレーラの声が聞こえてきた。その声でリィラは咄嗟に、自分の不在によってフィレーラにかけたであろう迷惑を詫びなければと思い、ヒュレイリュから離れて彼女のほうに向き直ろうとした。しかし彼はリィラを離そうとはせず、リィラが口を開くよりも先に、ヒュレイリュのほうがフィレーラに話しかけている。彼の言葉が、自分の頭上で響いた。
「―はい。ここにおります。無事ですよ。見たところ、大きな怪我をした様子はありません」
「それならば幸いでした」
フィレーラが微笑む気配が伝わってきた。
「リィラが無事でいるのでしたら、それだけでとても喜ばしいことです。リィラは我が国にとってかけがえのない人なのですからね」
かけがえのない人。リィラはその言葉で自分の未来を見通せたように思った。フィレーラの本意は今の言葉で明らかであり、彼女の意思とエシュライナの意思が一致しているらしい様子を見れば、これから事態がどのように進んでいくのかはリィラにも容易に予測ができる。リィラがフィレーラにとってかけがえのない人であるということは、すなわち彼女がヒュレイリュ同様にリィラの復位を望んでいるということを意味しているからだ。そうでないのなら、今のリィラはフィレーラにとって単なる一人の女にすぎず、かけがえのない存在でなどあるはずがない。リィラはフィレーラの血縁でもなんでもないのだ。彼女が先王の王朝の復興を望んでいればこそ、リィラの存在は彼女にとって価値あるものとなりえる。リィラだけが、今やあの国で先王の王位を継げる唯一の人間なのだから。
「そう、かけがえのない方ですよね」
エシュライナの声も聞こえてきた。
「貴国の国益のために、なくてはならない方です。彼女が失われるようなことだけは、決してあってはなりません。それで、私からあなたがたにご提案したいことがございます。王女さまと、王宮に移られませんか?」
「王宮、でございますか?」
フィレーラが訊ね返した。
「はい。実は私が天仕さまの亡命を正式に受け入れたのは、私の意思ではございません。私が王宮に報せを送り、その報せに対して国王が出されたご決断なのです。国王は、天仕さまは大切なお客様であるのだから丁重におもてなしせよと私に命じられました。貴国の将軍から王女さまのことを伝えられた時も、私は同様に急ぎの報せを出しましたが、国王は同じように仰られましたよ。国王は、必要があればあなたがたを王宮にお招きするからお連れするようにとも仰っておられます。それで私は今、その国王のお言葉に従おうと考えております。天仕さまと王女さまのお二方を絶対に安全な場所で保護しながら、お二方のご帰国のために必要なご支援を差し上げるなど、とても私一人の力でできることではありませんから。これは国王にご尽力をお願いするべき問題でございます。国王には、私からお報せしておきますから、あなたがたはどうぞ王宮までお移りになられてください。その後は国王が、必ずや貴国にとってもあなたがたにとっても良いように取り計らってくださいますでしょう」
ああ、やはりそうなるのか。リィラは密かに溜息をついた。予測したとおりの成り行きに、皮肉な思いを感じずにはいられない。キュリスの許から必死で逃げ出したら、彼と同じ思いを抱く者に保護されただなんて、まるで冗談みたいだ。




