隣
アルゲンはそのまま宿へ向かった。
森に入ってから、二人は何も食べていなかった。街へ着くまで、空腹を覚える余裕すらなかった。
宿で部屋を取ると、二人は一階の食堂へ入った。
運ばれてきた食事を、リズはすぐに口へ運び始めた。アルゲンも手をつけた。
リズが自分の皿を空にした頃、アルゲンの皿にはまだ半分ほど残っていた。
リズはアルゲンの皿の端に置かれた手つかずのパンを見ていた。
「足りないなら食え」
「食べる」
リズはパンを取り、すぐにかじった。食べ終える頃には、アルゲンの皿も空になっていた。
二人は席を立ち、部屋へ戻った。
まだ日は沈んでいなかったが、アルゲンは床に横になり、リズも寝具の上で目を閉じた。その日、部屋の扉が再び開くことはなかった。
*
翌日の昼前、アルゲンはリズを連れて斡旋所へ向かった。
斡旋所は大通りに面した建物で、その前には大きな掲示板が立っていた。
城壁の守備兵、新兵の訓練役、軍需物資の護衛。貼り出された仕事の大半は、軍に関わるものだった。
アルゲンは一通り目を通したが、どの用紙にも手を伸ばさなかった。
建物の中は仕事を探す者たちで混み合っていた。アルゲンはリズを扉の内側の壁際に待たせ、受付横に置かれた小さな掲示板へ向かった。
鉄鉱石の採掘、荷物の運搬、オークの討伐。その中に、商人の護衛を募集する用紙が貼られていた。
アルゲンは用紙を剥がし、受付の列に並んだ。前の男の手続きが終わると、カウンターへ用紙を置いた。
「この仕事を受けたい」
受付の女は手元の書類を後ろの棚へ戻し、用紙へ目を落とした。
「商人の護衛ですね」
「行き先は」
「帝国の南西部にある都市までです。片道で六日ほどかかります。報酬は到着後に金貨二枚です」
「それでいい」
女はカウンター下の引き出しから一枚の書類を取り出した。
「依頼主との顔合わせは明日の昼、こちらで行います。その際に出発日時を決めてください」
「ああ」
女は書類へ書き込みながら尋ねた。
「お名前をお願いします」
「アルゲンだ」
女は書きつけた名前を見直し、右腕の腕甲へ目を移した。
「少々お待ちください」
奥へ下がった女は、別の用紙を手に戻ってきた。
「アルゲン様でしたら、こちらの仕事も――」
「断る」
女の手が止まった。
「まだ何も申し上げていませんが」
「軍か貴族だろう」
女は手にしていた用紙へ目を落とし、元の棚へ戻した。
「分かりました。では、明日の昼にお越しください」
「分かった」
アルゲンが入口へ戻ると、リズは壁に背を預け、開いた扉の向こうを行き交う人々や豪華な馬車を眺めていた。
「行くぞ」
「仕事、決まったのか」
「商人の護衛だ」
リズは壁から背を離し、アルゲンとともに斡旋所を出た。
*
翌日の昼、アルゲンはリズを伴って再び斡旋所を訪れた。
昨日の受付に名を告げると、二人は奥の小部屋へ通された。
部屋には小さな机を挟んで椅子が二脚置かれ、奥の椅子に小太りの男が座っていた。
アルゲンが入ると、男はすぐに立ち上がった。
「アルゲンだ。護衛の件で来た」
「メルクリウスと申します。よろしくお願いいたします」
差し出された手を、アルゲンは握った。
メルクリウスはその後ろに立つリズへ目を向けた。
「その子は?」
「ただのガキだ。邪魔にはならない」
リズがアルゲンの太腿を拳で叩いた。
アルゲンはリズを見ずに続けた。
「一緒に連れていく」
メルクリウスは二人を見比べたあと、頷いた。
「荷台にも空きがあります。構いません」
「出発はいつになる」
「荷物はほとんど整っています。明日の朝には出られます」
メルクリウスはアルゲンの顔を改めて見た。
「しかし、まさか護衛を引き受けてくださったのが、あのアルゲン殿とは」
「俺を知っているのか」
「私も北の生まれですので」
「そうか」
小部屋の外では、受付の声と行き交う人の足音が続いていた。
「では、日の出の頃に南門でよろしいですか」
「ああ」
二人はもう一度握手を交わした。
メルクリウスを見送って小部屋を出ると、アルゲンはリズへ言った。
「明日の朝、この街を出る」
「もう?」
「六日はかかる。必要なものを揃えるぞ」
アルゲンが歩き出すと、リズもそのあとに続いた。
その日のうちに旅の食料を買い足し、二人は早めに宿へ戻った。
*
翌朝、アルゲンとリズが南門へ向かうと、門の近くに荷を積んだ幌馬車が一台止まっていた。
メルクリウスは荷台にかけられた縄を確かめており、そのそばには、栗色の髪をした少女が小さな鞄を抱えて立っていた。
アルゲンに気づくと、メルクリウスは縄から手を離した。
「おはようございます。予定どおりですね」
「ああ」
アルゲンは馬車の周りを歩き始めた。
「荷は」
「布と香辛料、それから薬を少し。途中の街でも荷を積む予定です」
「御者は」
「私が務めます。何度も通っている道ですので」
アルゲンは話を聞きながら馬車を一周し、車輪と馬の脚、荷台の縄を確かめた。
「問題ない」
「こちらは娘のクレアです。今回も一緒に行きます」
少女は鞄を抱えたまま、アルゲンへ頭を下げた。
「クレアです。よろしくお願いします」
アルゲンが頷くと、クレアはその後ろに立っているリズへ目を向けた。
「その子も一緒に来るの?」
「ああ」
クレアはリズの頭巾へ目をやったが、すぐに荷台へ上がった。抱えていた鞄を端に置くと、その隣を手で叩いた。
「ここ、座れるよ」
リズは荷台とアルゲンを見比べた。
「乗れ」
「じじいは?」
「俺は護衛だ」
リズはしばらく動かなかったが、やがて荷台へ手をかけた。クレアから少し離れたところへ腰を下ろすと、頭巾の端を指で押さえた。
メルクリウスが御者台へ上がり、手綱を握った。
「それでは、出発します」
馬車がゆっくりと動き出し、南門を抜けていく。
アルゲンは馬車の少し前を歩き、リズは荷台からその背中を見ていた。
隣に座ったクレアが、リズへ顔を向ける。
「ねえ、名前は?」
リズはしばらくクレアを見たあと、前を向いた。
「リズ」
「リズ、私はクレア」
「聞いてない」
「でも、これで知ったでしょ」
リズは何も答えなかった。




