↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/20

耳

街の城壁が見えなくなる頃には、クレアは荷台の上で何度もリズへ話しかけていた。


どこから来たのか。アルゲンとはいつから一緒にいるのか。これからどこへ行くのか。


リズはそのたびに、「知らない」と答えた。


「何にも知らないんだね」


「話したくない」


クレアは少し考え、小さな鞄から布袋を取り出した。中には干した果実が入っており、一つを自分の口へ入れてから、リズの前へ差し出す。


「食べる?」


「いらない」


「そう」


クレアは袋を閉じず、自分の膝に置いた。


馬車が轍を越えるたび、木箱を縛った縄が軋んだ。街道の両脇には畑が続き、その向こうに森が見える。


アルゲンは馬車の横を歩き、時折、後方や木立へ目を向けていた。


日が傾き始めると、アルゲンは街道から少し離れた場所へ馬車を入れさせた。森の手前に開けた草地があり、その脇を細い川が流れている。


メルクリウスとクレアが馬を馬車から外している間に、アルゲンは周囲を歩いて戻った。


「ここで休む」


荷台から降りたリズは、アルゲンが集めた枝を焚き火のそばへ運んだ。クレアも何本か抱えてきたが、途中で一本を落とし、拾おうとして残りも落とした。


リズが横を通り過ぎ、地面の枝を二本拾う。


「持ちすぎ」


「これくらい持てると思ったの」


二人は枝を焚き火のそばへ置いた。


食事を終える頃には辺りが暗くなり、川の流れる音だけが続いていた。


メルクリウスは馬車の脇へ敷物を広げ、クレアを呼んだ。


クレアは返事をして立ち上がった。


「おやすみ、リズ」


リズは焚き火を見たまま、返事をしなかった。


クレアは父親のもとへ戻っていった。


翌朝、一行は日が昇る前に出発した。


昼を過ぎた頃、街道は森の中へ入った。枝葉の隙間から光が落ち、荷台の上を流れていく。


クレアは道の途中で見えた村や畑について話した。以前、父親と立ち寄ったことがあるらしく、川を越えれば大きな風車が見えることや、その先の村では蜂蜜を塗った菓子を売っていることを知っていた。


リズは前を向いたまま聞いていたが、風車が見え始めると、荷台の端から身を乗り出した。


「落ちるよ」


馬車の片輪が街道の石を踏み、荷台が大きく揺れた。


リズは肩から荷台へ倒れ込み、頭巾が背へ落ちた。乱れた白い髪の間から、長い耳が現れる。


リズはすぐに身を起こして頭巾をかぶり直したが、クレアはその耳が隠れたあとも、しばらく何も言わなかった。


「それ……」


リズは答えなかった。


クレアはわずかに身を引き、御者台にいる父親へ目を向けた。メルクリウスは前を向いたまま、手綱を握っている。


リズもクレアの横顔を見ていた。


クレアは父親を呼ばなかった。


風車が森の向こうへ隠れるまで、二人は話さなかった。


二日目の夜は、街道沿いに残された古い野営地で過ごすことになった。


石を積んだ焚き火の跡があり、近くには馬をつなぐための杭も残っていた。アルゲンが周囲を確かめている間に、メルクリウスは火を起こした。


その夜、クレアは父親のそばを離れなかった。


メルクリウスが鍋を火にかけると、クレアは隣に座り、干し肉を小さくちぎって入れた。


やがて食事が椀へ分けられ、四人は焚き火を囲んだ。


「普段はこの子と二人で食べるだけですから、大したものではありませんが」


メルクリウスは椀を手にしたまま言った。


「妻はどうした」


メルクリウスは火へ目を向けた。


「妻は亡くなりました。北を出た年です」


「戦か」


「いいえ。家族で中央諸国へ向かう途中でした」


「森を抜ける街道で、エルフに襲われました」


リズが顔を上げた。


「うそだ」


メルクリウスとクレアが、同時にリズを見た。


「リズ」


クレアが名前を呼んだが、リズは立ち上がった。


「うそだ!」


頭巾が肩へ落ち、白い髪と長い耳が火の明かりの中に現れた。


アルゲンがリズの腕をつかむ。


「座れ」


リズは腕を振りほどこうとしたが、アルゲンの手は動かなかった。


「人間がエルフを殺すんだ!」


「座れと言っている」


リズの動きが止まった。


メルクリウスはリズの耳を見たまま、クレアの肩へ手を回し、自分の方へ引き寄せた。


「クレア」


父親に呼ばれ、クレアは顔を上げた。


「知っていたのか」


クレアはすぐには答えず、やがて小さく頷いた。


「なぜ黙っていた」


「言ったら、降ろすと思ったから」


メルクリウスはアルゲンへ顔を向けた。


「あなたは最初から知っていたんですね」


「ああ」


「なぜ黙っていたんです」


「護衛には関係ない」


「娘と一緒に乗せていたんですよ」


アルゲンは答えなかった。


リズは腕をつかまれたまま、メルクリウスへ身体を向けた。


「私がそいつを殺すと思ったのか」


メルクリウスはリズの耳から目を離さないまま、袖をまくった。腕には古い矢傷が残っていた。


「護衛が倒れたあと、森から出てきた。皆、長い耳をしていた」


リズは何も言わなかった。


「私も腕を射られ、馬車の脇に倒れた。連中は食料と薬を奪うと、すぐに森へ戻っていった」


メルクリウスは袖を戻した。


「妻はクレアを積荷の陰へ伏せさせた時、背中を射られた」


焚き火の中で、燃え残った枝が折れた。


クレアは父親の外套を握っていた。


リズはクレアを見た。口を開いたが、声は出なかった。


アルゲンが手を離すと、リズの腕が身体の横へ落ちた。


火が小さくなるまで、誰も動かなかった。


*


翌朝、クレアは荷台へ乗らず、メルクリウスの隣に座った。


リズは一人で木箱の間へ腰を下ろした。馬車が動き始めても、荷台の前から顔を出すことはなかった。


昼前になり、リズは馬車から降りた。


アルゲンに追いつき、その横を歩く。


しばらく街道を進んでから、リズが口を開いた。


「エルフも人間を殺すのか」


「ああ」


「でも、人間が先にエルフを殺した」


アルゲンは視線だけをリズへ向けた。


「前にした話を覚えているか」


リズは前を見たまま答えた。


「どっちが先かは分からないんだろ」


「そうだ」


リズは口を開きかけたが、閉じた。


「どっちが先でも、あの家族が始めたことじゃない」


リズは足を止めかけたが、アルゲンは歩き続けた。


前を行く馬車から、車輪の軋む音が聞こえる。


リズは少し遅れて、再びアルゲンの横へ並んだ。


その日の夕方、一行は小さな村へ着いた。


通りには家畜を囲う低い柵と、土壁の家が並んでいる。村の中央にある宿へ馬車を入れると、メルクリウスは馬を厩へ連れていった。


アルゲンは部屋を確かめるため、先に宿へ入る。


リズが荷台から荷物を下ろしていると、厩の前でクレアが馬に水を飲ませていた。


二人は互いを見たが、どちらも口を開かなかった。


リズは背負い袋を荷台の端へ置いた。


「昨日のこと」


クレアの手が止まった。


リズは荷台に手をかけたまま、クレアを見なかった。


「本当なのか」


クレアは桶の縁を握ったままだった。


「父さんは嘘をつかないよ」


「そう」


リズが背負い袋を持ち上げ、宿へ向かう。


後ろで桶が地面を擦る音がした。


宿の入口でリズが扉を開けると、クレアが桶を抱えてついてきていた。リズは扉を押さえたまま、クレアが中へ入るのを待った。


*


夜になると、宿の食堂には村の男たちが集まり、酒を飲みながら声を上げていた。


アルゲンとメルクリウスは壁際の卓に座り、クレアとリズは暖炉の前で、少し間を空けて毛布にくるまっていた。


外の街道を、幌をかけた荷車が何台も通り過ぎていく。


メルクリウスは窓の外を見た。


「兵糧を運んでいるそうです」


「どこへ」


「西の国境です。ここ数か月、穀物も薬も値が上がっています」


「戦の前触れだな」


アルゲンは卓の上の杯へ口をつけた。


「ここまで来れば、安全かと思っていました」


「軍が動けば、ここも同じだ」


メルクリウスは酒杯へ視線を落とした。


「私の荷にも、薬が入っています」


「ああ」


「やめろとは言わないんですね」


「言ってほしいのか」


メルクリウスは暖炉の前にいるクレアを見た。


「いいえ」


メルクリウスは酒杯を持ち上げた。


「娘がいますから」


アルゲンは何も答えなかった。


*


翌朝、村を出ると、クレアは再び荷台へ乗った。


以前と同じ場所には座らず、木箱を一つ挟んだ向こう側へ腰を下ろした。リズも何も言わず、反対側に座った。


昼を過ぎる頃、二人の間にある木箱の上には、クレアの布袋が置かれていた。


リズが中から果実を一つ取っても、クレアは何も言わなかった。


旅の残りの日々、クレアが御者台へ戻ることはなかった。


六日目の午後、街道の先に城壁が見えた。


門を抜けた馬車は、大通りから一本外れた倉庫の前で止まった。


荷を待っていた男たちが集まり、メルクリウスと言葉を交わしながら、木箱や布の束を運び始めた。


クレアは蓋の開いた小箱の前にしゃがみ、中に並んだ小物を見ていた。やがて一つを手に取って父親へ見せると、メルクリウスは荷を数えながら頷いた。


メルクリウスは腰の袋から金貨を二枚取り出し、アルゲンへ渡した。


「ここまで、ありがとうございました」


アルゲンは金貨を確かめ、袋へ入れた。


「行くぞ」


リズがそのあとを追おうとすると、クレアが外套をつかんだ。


「待って」


リズが振り返る。


クレアは小さな布包みを差し出した。


「これ」


リズが布を開くと、細い銅の輪が二つ入っていた。輪には小さな紫色の硝子玉が下がっている。


「なに」


「耳飾り。耳に挟むんだって」


「いらない」


クレアは手を引かなかった。


リズはしばらく耳飾りを見たあと、布ごと受け取った。


「この街には、しばらくいるから」


「聞いてない」


「でも、これで知ったでしょ」


リズは何も答えなかった。


倉庫の方からメルクリウスに呼ばれ、クレアは父親のもとへ戻っていった。


リズは耳飾りを外套の内側へ入れ、アルゲンのあとを追った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。