耳
街の城壁が見えなくなる頃には、クレアは荷台の上で何度もリズへ話しかけていた。
どこから来たのか。アルゲンとはいつから一緒にいるのか。これからどこへ行くのか。
リズはそのたびに、「知らない」と答えた。
「何にも知らないんだね」
「話したくない」
クレアは少し考え、小さな鞄から布袋を取り出した。中には干した果実が入っており、一つを自分の口へ入れてから、リズの前へ差し出す。
「食べる?」
「いらない」
「そう」
クレアは袋を閉じず、自分の膝に置いた。
馬車が轍を越えるたび、木箱を縛った縄が軋んだ。街道の両脇には畑が続き、その向こうに森が見える。
アルゲンは馬車の横を歩き、時折、後方や木立へ目を向けていた。
日が傾き始めると、アルゲンは街道から少し離れた場所へ馬車を入れさせた。森の手前に開けた草地があり、その脇を細い川が流れている。
メルクリウスとクレアが馬を馬車から外している間に、アルゲンは周囲を歩いて戻った。
「ここで休む」
荷台から降りたリズは、アルゲンが集めた枝を焚き火のそばへ運んだ。クレアも何本か抱えてきたが、途中で一本を落とし、拾おうとして残りも落とした。
リズが横を通り過ぎ、地面の枝を二本拾う。
「持ちすぎ」
「これくらい持てると思ったの」
二人は枝を焚き火のそばへ置いた。
食事を終える頃には辺りが暗くなり、川の流れる音だけが続いていた。
メルクリウスは馬車の脇へ敷物を広げ、クレアを呼んだ。
クレアは返事をして立ち上がった。
「おやすみ、リズ」
リズは焚き火を見たまま、返事をしなかった。
クレアは父親のもとへ戻っていった。
翌朝、一行は日が昇る前に出発した。
昼を過ぎた頃、街道は森の中へ入った。枝葉の隙間から光が落ち、荷台の上を流れていく。
クレアは道の途中で見えた村や畑について話した。以前、父親と立ち寄ったことがあるらしく、川を越えれば大きな風車が見えることや、その先の村では蜂蜜を塗った菓子を売っていることを知っていた。
リズは前を向いたまま聞いていたが、風車が見え始めると、荷台の端から身を乗り出した。
「落ちるよ」
馬車の片輪が街道の石を踏み、荷台が大きく揺れた。
リズは肩から荷台へ倒れ込み、頭巾が背へ落ちた。乱れた白い髪の間から、長い耳が現れる。
リズはすぐに身を起こして頭巾をかぶり直したが、クレアはその耳が隠れたあとも、しばらく何も言わなかった。
「それ……」
リズは答えなかった。
クレアはわずかに身を引き、御者台にいる父親へ目を向けた。メルクリウスは前を向いたまま、手綱を握っている。
リズもクレアの横顔を見ていた。
クレアは父親を呼ばなかった。
風車が森の向こうへ隠れるまで、二人は話さなかった。
二日目の夜は、街道沿いに残された古い野営地で過ごすことになった。
石を積んだ焚き火の跡があり、近くには馬をつなぐための杭も残っていた。アルゲンが周囲を確かめている間に、メルクリウスは火を起こした。
その夜、クレアは父親のそばを離れなかった。
メルクリウスが鍋を火にかけると、クレアは隣に座り、干し肉を小さくちぎって入れた。
やがて食事が椀へ分けられ、四人は焚き火を囲んだ。
「普段はこの子と二人で食べるだけですから、大したものではありませんが」
メルクリウスは椀を手にしたまま言った。
「妻はどうした」
メルクリウスは火へ目を向けた。
「妻は亡くなりました。北を出た年です」
「戦か」
「いいえ。家族で中央諸国へ向かう途中でした」
「森を抜ける街道で、エルフに襲われました」
リズが顔を上げた。
「うそだ」
メルクリウスとクレアが、同時にリズを見た。
「リズ」
クレアが名前を呼んだが、リズは立ち上がった。
「うそだ!」
頭巾が肩へ落ち、白い髪と長い耳が火の明かりの中に現れた。
アルゲンがリズの腕をつかむ。
「座れ」
リズは腕を振りほどこうとしたが、アルゲンの手は動かなかった。
「人間がエルフを殺すんだ!」
「座れと言っている」
リズの動きが止まった。
メルクリウスはリズの耳を見たまま、クレアの肩へ手を回し、自分の方へ引き寄せた。
「クレア」
父親に呼ばれ、クレアは顔を上げた。
「知っていたのか」
クレアはすぐには答えず、やがて小さく頷いた。
「なぜ黙っていた」
「言ったら、降ろすと思ったから」
メルクリウスはアルゲンへ顔を向けた。
「あなたは最初から知っていたんですね」
「ああ」
「なぜ黙っていたんです」
「護衛には関係ない」
「娘と一緒に乗せていたんですよ」
アルゲンは答えなかった。
リズは腕をつかまれたまま、メルクリウスへ身体を向けた。
「私がそいつを殺すと思ったのか」
メルクリウスはリズの耳から目を離さないまま、袖をまくった。腕には古い矢傷が残っていた。
「護衛が倒れたあと、森から出てきた。皆、長い耳をしていた」
リズは何も言わなかった。
「私も腕を射られ、馬車の脇に倒れた。連中は食料と薬を奪うと、すぐに森へ戻っていった」
メルクリウスは袖を戻した。
「妻はクレアを積荷の陰へ伏せさせた時、背中を射られた」
焚き火の中で、燃え残った枝が折れた。
クレアは父親の外套を握っていた。
リズはクレアを見た。口を開いたが、声は出なかった。
アルゲンが手を離すと、リズの腕が身体の横へ落ちた。
火が小さくなるまで、誰も動かなかった。
*
翌朝、クレアは荷台へ乗らず、メルクリウスの隣に座った。
リズは一人で木箱の間へ腰を下ろした。馬車が動き始めても、荷台の前から顔を出すことはなかった。
昼前になり、リズは馬車から降りた。
アルゲンに追いつき、その横を歩く。
しばらく街道を進んでから、リズが口を開いた。
「エルフも人間を殺すのか」
「ああ」
「でも、人間が先にエルフを殺した」
アルゲンは視線だけをリズへ向けた。
「前にした話を覚えているか」
リズは前を見たまま答えた。
「どっちが先かは分からないんだろ」
「そうだ」
リズは口を開きかけたが、閉じた。
「どっちが先でも、あの家族が始めたことじゃない」
リズは足を止めかけたが、アルゲンは歩き続けた。
前を行く馬車から、車輪の軋む音が聞こえる。
リズは少し遅れて、再びアルゲンの横へ並んだ。
その日の夕方、一行は小さな村へ着いた。
通りには家畜を囲う低い柵と、土壁の家が並んでいる。村の中央にある宿へ馬車を入れると、メルクリウスは馬を厩へ連れていった。
アルゲンは部屋を確かめるため、先に宿へ入る。
リズが荷台から荷物を下ろしていると、厩の前でクレアが馬に水を飲ませていた。
二人は互いを見たが、どちらも口を開かなかった。
リズは背負い袋を荷台の端へ置いた。
「昨日のこと」
クレアの手が止まった。
リズは荷台に手をかけたまま、クレアを見なかった。
「本当なのか」
クレアは桶の縁を握ったままだった。
「父さんは嘘をつかないよ」
「そう」
リズが背負い袋を持ち上げ、宿へ向かう。
後ろで桶が地面を擦る音がした。
宿の入口でリズが扉を開けると、クレアが桶を抱えてついてきていた。リズは扉を押さえたまま、クレアが中へ入るのを待った。
*
夜になると、宿の食堂には村の男たちが集まり、酒を飲みながら声を上げていた。
アルゲンとメルクリウスは壁際の卓に座り、クレアとリズは暖炉の前で、少し間を空けて毛布にくるまっていた。
外の街道を、幌をかけた荷車が何台も通り過ぎていく。
メルクリウスは窓の外を見た。
「兵糧を運んでいるそうです」
「どこへ」
「西の国境です。ここ数か月、穀物も薬も値が上がっています」
「戦の前触れだな」
アルゲンは卓の上の杯へ口をつけた。
「ここまで来れば、安全かと思っていました」
「軍が動けば、ここも同じだ」
メルクリウスは酒杯へ視線を落とした。
「私の荷にも、薬が入っています」
「ああ」
「やめろとは言わないんですね」
「言ってほしいのか」
メルクリウスは暖炉の前にいるクレアを見た。
「いいえ」
メルクリウスは酒杯を持ち上げた。
「娘がいますから」
アルゲンは何も答えなかった。
*
翌朝、村を出ると、クレアは再び荷台へ乗った。
以前と同じ場所には座らず、木箱を一つ挟んだ向こう側へ腰を下ろした。リズも何も言わず、反対側に座った。
昼を過ぎる頃、二人の間にある木箱の上には、クレアの布袋が置かれていた。
リズが中から果実を一つ取っても、クレアは何も言わなかった。
旅の残りの日々、クレアが御者台へ戻ることはなかった。
六日目の午後、街道の先に城壁が見えた。
門を抜けた馬車は、大通りから一本外れた倉庫の前で止まった。
荷を待っていた男たちが集まり、メルクリウスと言葉を交わしながら、木箱や布の束を運び始めた。
クレアは蓋の開いた小箱の前にしゃがみ、中に並んだ小物を見ていた。やがて一つを手に取って父親へ見せると、メルクリウスは荷を数えながら頷いた。
メルクリウスは腰の袋から金貨を二枚取り出し、アルゲンへ渡した。
「ここまで、ありがとうございました」
アルゲンは金貨を確かめ、袋へ入れた。
「行くぞ」
リズがそのあとを追おうとすると、クレアが外套をつかんだ。
「待って」
リズが振り返る。
クレアは小さな布包みを差し出した。
「これ」
リズが布を開くと、細い銅の輪が二つ入っていた。輪には小さな紫色の硝子玉が下がっている。
「なに」
「耳飾り。耳に挟むんだって」
「いらない」
クレアは手を引かなかった。
リズはしばらく耳飾りを見たあと、布ごと受け取った。
「この街には、しばらくいるから」
「聞いてない」
「でも、これで知ったでしょ」
リズは何も答えなかった。
倉庫の方からメルクリウスに呼ばれ、クレアは父親のもとへ戻っていった。
リズは耳飾りを外套の内側へ入れ、アルゲンのあとを追った。




