鐘
街に着いて五日後、アルゲンとリズは討伐の仕事で近くの森へ入っていた。
木々の間隔は広く、枝葉の隙間から日が差している。下草も浅く、見通しは悪くない。
アルゲンは足を止め、森の奥を見渡した。
腰から討伐手配書を取り出し、描かれた大熊へ目を落とす。
「でかいとは聞いたが、これだけじゃ居場所までは分からんな」
後ろからリズの声がした。
「じじい、あっち」
振り返ると、リズが森の奥を指していた。
「……行ってみるか」
アルゲンはリズが指した方へ歩き始めた。
しばらく進むと、空気に血の匂いが混じった。
アルゲンは足を止め、後ろへ手を上げた。リズの足音が止まる。
身を低くして木々の間を進み、大木の陰から先を覗いた。
倒れた鹿の腹に、大熊が頭を埋めていた。四つ足のままでもアルゲンの腰を越え、肩から背中にかけて黒い毛が盛り上がっている。立ち上がれば三メートル近いだろう。
アルゲンは肩越しに振り返り、リズが止めた場所にいるのを確かめると、腰の剣を抜いた。
鹿の骨が砕ける音に紛れ、刃が鞘を擦る音は熊まで届かなかった。
アルゲンは木の陰から出ると、剣を下げたまま距離を詰めていく。
十歩ほどのところで、熊が鹿から頭を上げた。
口の周りを血で濡らし、鼻を動かしている。やがてアルゲンを見つけると、太い前脚で鹿の腹を踏み越え、低く唸った。
アルゲンは足を止めた。
熊の肩が持ち上がり、黒い毛の塊が立ち上がる。見上げるほどの高さから前脚を広げ、森の木々を震わせるように吠えた。
それでもアルゲンが退かないと、熊は前脚を地面へ叩きつけ、そのまま駆けてきた。
アルゲンは剣を身体の横へ引きつけた。土を蹴る音が近づき、熊の頭が目の前まで迫ったところで、身体を半歩ずらす。
振り下ろされた前脚が外套を掠めた。
アルゲンは熊の脇へ入り、剣を振り上げた。刃が前脚の付け根を深く裂き、血が黒い毛の間から流れ出す。
熊は前へつんのめりながらも倒れず、身体を捻ってアルゲンへ爪を振るった。
アルゲンが右腕を上げると、爪が腕甲を叩き、金属の音が森に響いた。衝撃でアルゲンの身体が横へ押され、靴が土の上を滑った。
熊は傷ついた前脚を引きずりながら、再び身体を起こした。
アルゲンは熊を見据え、剣を握り直した。
熊が口を開けて飛びかかる。
今度は避けなかった。
アルゲンは熊の懐へ踏み込み、開いた顎の下から剣を突き上げた。刃が口の奥を貫くと、熊の前脚がアルゲンの背へ回りかけたまま力を失った。
アルゲンが剣を引き抜くと、巨体はその場で傾き、鹿の死骸を押し潰すように地面へ倒れた。
落ち葉が舞い上がり、しばらくして森に静けさが戻った。
アルゲンは動かなくなった熊を見下ろし、刃についた血を毛皮で拭った。
やがて木々の間からリズが歩いてきた。
倒れた熊を見て、それからアルゲンへ顔を向ける。
「仕事は終わりか?」
「まだだ。首を落として持ち帰る」
「肉も毛皮もあるのに」
「場所を伝えれば、あとで街の連中が取りに来る。それも報酬に入っている」
アルゲンは熊のそばへ腰を下ろし、短剣で首の毛皮を裂いた。筋を切って骨の継ぎ目を探り、最後は剣を使って頭を胴から離す。
持ってきた布で熊の頭を包み、縄を何重にも回して固く結んだ。
アルゲンは包みを肩へ担ぎ、立ち上がった。
「戻るぞ」
リズが頷き、二人は来た道を引き返した。
森を抜け、街の城壁が見え始めた頃、アルゲンが口を開いた。
「エルフは耳がいいのか」
「人間と変わらないよ。急になに」
アルゲンは肩越しにリズを見る。
「お前は妙に勘がいいだろう」
リズはそのまま見返した。
「気になるの?」
アルゲンは前へ向き直る。
「急にどうでもよくなった」
背後で、リズが頭巾の縁を口元へ寄せる。
アルゲンは振り返らず、そのまま歩き続けた。
街へ戻った二人は、斡旋所で報酬を受け取ってから宿へ向かった。
部屋に入ると、リズは寝台へ腰を下ろした。
「猪に狼、今日は熊。次は何を狩るの」
アルゲンは窓の外を見ていた。幌をかけた荷車が数台、槍を持った兵士たちに挟まれて西へ進んでいく。
「当分は働かなくても食える。だが、街は離れた方がいい」
「もう離れるのか」
「ああ。どうにもきな臭くなってきた」
リズは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
日が落ちると、通りの店は次々に戸を閉め、人の声も少なくなった。それでも、幌をかけた荷車は西へ向かい続けていた。
アルゲンは窓辺を離れ、椅子に腰を下ろすと本を開いた。
しばらくすると、また同じ方角から蹄の音が聞こえ始めた。その一隊が過ぎても静けさは戻らず、遠ざかる車輪の音に重なって、別の号令が近づいてきた。
アルゲンは開いたページに目を落としたまま、動かなかった。
*
翌朝、空が白み始める頃、アルゲンはリズを起こした。
「おい、ガキ。起きろ」
耳飾りを手にしたまま眠っていたリズが、うっすらと目を開けた。
「街を出るぞ」
リズが身体を起こすと、耳飾りが寝台へ落ちた。それを拾い上げ、アルゲンを見る。
「どこに行くの」
「東だ」
リズはしばらくアルゲンを見ていた。
「あの二人は?」
アルゲンは背負い袋を引き寄せ、中の食料を確かめ始めた。
「さあな」
リズは耳飾りを布包みへ戻し、寝台から降りた。
まだ通りに日が差す前に、二人は宿を出た。
アルゲンは背負い袋を担ぎ、リズは外套の頭巾を深くかぶっていた。
通りに人影はほとんどなく、東門へ向かう道で聞こえるのは二人の足音だけだった。
東門が見えてくると、見覚えのある馬車が道の脇に止められていた。御者台に座った男と、兵士が向かい合っている。
「徴発ではない。軍が買い上げる」
「勝手なことを言わないでもらいたい。この荷には、すでに買い手がいる」
聞こえてきたのは、メルクリウスの声だった。
「この領内にいる以上、命令には従ってもらう。今すぐ荷を下ろせ。拒むなら拘束する」
「私はこの国の民ではない」
「関係ない」
兵士たちが馬車を囲み、そのうち二人が荷台へ上がった。
メルクリウスは手綱を握ったまま動かなかったが、やがて御者台の隣にいるクレアを見た。
「……金は受け取れるんだろうな」
「会計所で受け取れ。証文は出す」
兵士が合図すると、荷台から木箱が一つ運び出された。
クレアは御者台の端を両手でつかみ、その箱が門の脇へ置かれるのを見ていた。
二つ目の箱が持ち上げられた時、街の西から鐘が鳴った。
箱を抱えた兵士が足を止める。
鐘の音は一度で終わらず、間を置かずにもう一度響いた。門の上にいた兵士たちが西へ顔を向け、やがて一人が石段を駆け下りてくる。
「閉門だ! 門を閉めろ!」
箱を持ち上げていた兵士はそれを荷台へ戻し、ほかの兵士たちと門扉へ走った。
メルクリウスが馬を進ませようとすると、槍を持った兵士が前へ立った。
「戻れ」
「待ってくれ。荷は置いていく。通してくれ」
「聞こえなかったのか。街へ戻れ」
メルクリウスは手綱を握ったまま、開かれた門の向こうを見た。街道には人影もなく、朝靄の中へ道だけが続いている。
重い門扉が動き始めた。
リズは御者台のクレアへ目を向けた。クレアもこちらに気づき、少し身を乗り出す。
「リズ」
その声にメルクリウスが振り返った。
アルゲンは閉じていく門を見たあと、鐘の鳴る西の方角へ顔を向けた。
「戻るぞ」
リズは動かなかった。
門の隙間から差す光が、石畳の上で細くなっていく。
「ガキ」
もう一度呼ばれ、リズはようやくアルゲンを見た。
「何があったの」
「まだ分からん」
門扉が合わさり、外の街道が見えなくなった。
太い閂が落とされると、門を閉めた兵士の何人かが槍を手に西へ走った。残った兵士たちは石段を上っていく。
門前にはメルクリウスの馬車と、最初に下ろされた木箱が残った。
メルクリウスが御者台から降りる。
「西門でしょうか」
「恐らくな」
アルゲンは門の上を見た。兵士たちは城壁の上から西へ目を向けていた。
「宿へ戻るのか」
リズが尋ねる。
「いや」
アルゲンは通りの先へ目を向けた。
西から鳴る鐘に応えるように、街の中央でも鐘が鳴り始めた。




