足音
「おろせ」
アルゲンの肩に担がれたまま、リズが言った。
アルゲンは来た道を振り返り、もう街が見えないところまで来ているのを確かめると、リズを下ろした。
地面に足をつけても、リズは歩き出さず、街のある方を見ていた。
アルゲンはその背に声をかけた。
「いくぞ」
リズの返事を待つことはなく、アルゲンは街道を歩き始めた。すぐには足音が続かなかったが、少しすると、後ろから聞こえ始めた。
それからしばらく歩くと、道標の立つ分かれ道が見えてきた。
アルゲンは二本の道を見比べたが、やがてどちらにも進まず、先に見える森へ向かった。
「どこにいくの」
少し離れて後ろを歩いていたリズが尋ねた。
アルゲンは立ち止まることなく返した。
「この国をでる」
「人を殺したから?」
「そうだな」
「エルフを殺してもでないのに?」
アルゲンは立ち止まると肩越しに振り返り、俯きながら歩いているリズを見た。
リズはアルゲンの足音が聞こえなくなると、顔を上げた。
「そうだ」
リズはアルゲンから目を逸らさなかった。しかし何かを返すこともなかった。
アルゲンが再び歩き始めようと振り返ると、リズが言った。
「馬だ」
アルゲンは振り返りかけた身体を戻し、街道を見た。
だが、街道にはまだ何も見えなかった。
リズに目を向けると、リズは街のあった方角をじっと見つめていた。
「なぜわかる」
「わかるから」
リズは街道を見たまま答えた。
アルゲンはそれ以上聞かず、森へ向き直った。
「先を急ぐぞ」
リズは黙って後に続いた。
*
森の獣道を歩いているあいだ、二人の間に会話はなかった。
森の奥へ入る頃には、辺りはすでに暗くなっていた。進むにつれ、月明かりも木々に遮られていく。
後ろで大きな音がし、続いて小さな声が聞こえた。
アルゲンが振り返ると、リズが木の根に足を取られ、地面にうつ伏せに倒れていた。
アルゲンは来た方へ耳を澄ませたあと、足元から枯れ枝を拾い、束ねて火をつけた。
「立てるか」
「いたい」
リズはそれだけ言うと、ゆっくり立ち上がり、外套についた土を払った。
「もう少し奥まで行って休む」
アルゲンは先ほどより歩調を落とし、森の奥へ進んだ。
しばらくすると、水の流れる音が聞こえてきた。
アルゲンはその音を頼りに進み、やがて細い沢へ出た。木々の隙間から月明かりが差し込み、辺りは森の中よりわずかに明るかった。
「ここで休む」
リズは覚束ない足取りで沢へ近づき、その場にしゃがみ込んだ。
アルゲンは兜と腕甲を外し、腰から剣を鞘ごと外した。
リズより下流へ移ると、剣を抜き、腕甲と刃についた血を洗い始めた。
リズも沢へ手を入れた。
土の落ちた手には、細かな傷がいくつも残っていた。
「あの子はどうなるんだ」
アルゲンは兜についた血を洗いながら答えた。
「奴隷になるだろうな」
リズは沢から引き上げた手を見つめた。
「助けたかった」
兜を洗っていた手が止まった。
「あの子の顔が忘れられないんだ」
アルゲンはリズへ顔を向けた。
「助けに行きたいのか」
リズは手から目を離し、地面を見た。
アルゲンの問いには答えなかった。
「助けたあと、どうするつもりだ」
「森に帰せばいい」
「誰が守る」
リズは顔を上げ、アルゲンを見た。
口を開きかけたが、そのまま閉じた。
アルゲンは洗い終えた兜を置くと、血を流した場所より上流へ移り、沢の水を手ですくって飲んだ。
それから布を取り出し、リズのそばへ投げた。
「巻いておけ」
リズは地面に落ちた布を拾い、雑に手へ巻き始めた。
布を巻いていたリズが、森の奥へ顔を向けた。
「近づいてる」
アルゲンも耳を澄ませたが、水音の向こうには何も聞こえなかった。
「沢を上るぞ」
アルゲンは火のついた枝を沢へ沈めた。腕甲を着け、剣を鞘へ納めて腰に戻すと、兜を手に持って沢を上り始めた。
リズも立ち上がり、少し離れてその後に続いた。
沢を上るにつれ、足元には大きな石が増えていった。
アルゲンは水の中から突き出た岩を踏みながら進み、リズも遅れながらついてきた。
しばらく沢を上ったところで、リズが足を止めた。
「馬の音が止まった」
アルゲンも足を止め、下流へ顔を向けた。
耳を澄ませても、水の流れる音しか聞こえない。
「森の手前か」
リズは答えず、来た方を見ていた。
やがて遠くで人の声がし、枝を踏む音が聞こえ始めた。
アルゲンは振り返らず、沢を上り続けた。
やがて両岸が狭まり、倒れた木が沢へ覆いかぶさっている場所へ出た。
アルゲンは岩の上を伝って水から上がり、兜をかぶった。倒木の根元にできた窪みへリズを入れると、そこを隠すように身体を寄せ、沢の下流を見た。
水の流れる音に混じり、枝を踏む音が近づいてきた。
やがて木々の間に、揺れる明かりが見えた。
一つではなかった。
沢の中を歩く音が近づき、甲冑の擦れる音も聞こえ始めた。
アルゲンは腰の短剣へ手を置いた。
その背後で、リズの指が外套をつかんだ。
松明の明かりが沢の水へ映り、揺れながら近づいてくる。
「足跡はここで消えている」
男の声がした。
「沢へ入ったか」
「上と下に分かれるぞ」
水を踏む音の一つが近づいてきた。
倒木のすぐ向こうで、枝が折れた。
リズの指に力が入った。
アルゲンは動かなかった。
松明の光が倒木の向こうを横切り、濡れた岩を照らした。
しばらくその場に留まっていたが、やがて光は沢の反対側へ動き始めた。
足音も少しずつ遠ざかっていく。
それでもアルゲンは短剣から手を離さなかった。
どれほど時間が経ったのか。やがてリズが外套から手を放した。
「もういない」
アルゲンは沢の下流を見たまま耳を澄ませたが、水の音しか聞こえなかった。
「そうか」
短剣から手を離し、倒木の陰から出た。
リズも立ち上がった。
アルゲンは何も尋ねず、再び沢を上り始めた。
少し遅れて、水を踏む音が後ろから続いた。
沢は進むほど浅くなり、やがて水の流れよりも岩の方が多くなった。
アルゲンは水から上がると、石の多い斜面へ足を向けた。しばらく進んだところで、後ろから聞こえていた足音が途切れた。
振り返ると、リズが岩に手をつき、俯いていた。
「どうした」
「なんでもない」
リズは身体を起こし、再び歩き出そうとしたが、足を置いた途端に膝が崩れた。
アルゲンはその様子を見たあと、森の中へ目を向けた。
少し先に、地面から大きく張り出した岩があった。その下には人が二人入れるほどの隙間ができている。
「ここで休む」
リズは何も言わなかった。
アルゲンは岩の下へ入り、積もっていた枯れ葉を剣の鞘で端へ寄せた。湿っていないものだけを集めて地面へ敷く。
リズはその上に腰を下ろすと、岩へ背を預けた。
アルゲンは入口に座り、兜を膝元へ置いた。剣は鞘から抜かず、すぐ手が届く場所に置いた。
リズは膝を抱えたまま、森を見ていた。
「じじい」
背後で呼ばれ、アルゲンは小さく息を吐いた。
「早く寝ろ」
「なんでエルフは殺される?」
アルゲンはしばらく森を見ていた。
「明確な理由はない」
「前はエルフだからって言っただろ」
「始まりだと言われている話ならある」
リズは黙って続きを待った。
「三百年ほど前、南のエルゲアで、戦から戻る王が森に迷った。王を襲い、荷を奪って殺したのがエルフだったとされている」
「それで?」
「王の息子は兵を集め、その森にいたエルフを殺した。それからエルゲアでは、エルフは人を襲う邪な者だと語られるようになった」
「それが、ほかの国にも広がったの?」
「そう言われている」
「本当にエルフがやったの?」
アルゲンは兜へ目を落とした。
「おとぎ話だ。信じる者もいれば、信じない者もいる」
「じじいはどっちなんだ」
「昔は信じていた」
「今は?」
アルゲンは一度息を吐いた。
「どちらでもなくなった」
「どういう意味?」
「その話は長い。もう寝ろ」
リズはしばらく起きていたが、やがて膝に伏せた頭が動かなくなった。
*
目を覚ましたとき、森の中は薄く明るくなっていた。
アルゲンは昨夜と同じ場所に座り、岩の外を見ていた。そばには兜が置かれ、剣を膝に載せ、その柄に手を添えていた。
リズが身体を起こすと、アルゲンは立ち上がった。
「行くぞ」
リズは地面へ手をつき、ゆっくり立ち上がった。
アルゲンはすぐには歩き出さず、リズが外套についた枯れ葉を払うのを待っていた。
二人は再び森の中を進んだ。
「国を出たら、どこに行くんだ」
後ろから聞こえた声に、アルゲンは歩きながら答えた。
「まだ決めていない」
「決めてないのに歩いてるのか」
「追われているからな」
リズは何も言わなかった。
アルゲンが斜面を下り始めると、今度はすぐ後ろから足音が続いた。




