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名前

子供はしばらくして息を整え、土に手をついて立ち上がった。


両手で外套の前を合わせたところで、アルゲンは街へ向かって歩き始めた。


門前からは人だかりが消え、二人の門番も、今度は何も言わなかった。


「おい、ガキ。ひとまず酒場に行くぞ」


アルゲンは前を向いたまま言ったが、返事はなかった。


酒場へ戻ると、客たちの視線が一斉に二人へ集まった。


アルゲンはそれを気にする様子もなく、剣と兜を残した席へ戻った。声をかける者も、近づく者もいなかった。


アルゲンが腰を下ろしても、子供はその背後に立ったままだった。


「さっさと座れ」


子供はアルゲンの隣に座り、カウンターへ目を落とした。


店主はカウンターの向こうから二人を見比べ、アルゲンの前まで来た。


「旦那、そいつは……」


「俺が頼んだのと同じものを、こいつにも」


店主は口を閉じ、頭を掻いた。


「はあ、分かった。同じのでいいんだな」


それだけ言うと店主は奥へ引っ込んだ。


しばらくして、肉とパンとスープが子供の前に並んだ。


子供は目の前の皿を見つめたまま、手を出そうとしなかった。


アルゲンは自分の皿の肉を切りながら声をかけた。


「エルフは肉を食わないのか?」


「鹿も熊も食べる」


アルゲンの手が止まった。


「熊を……?」


「うん」


「そうか。なら早く食え」


子供はようやくフォークを手に取った。


一口食べると、あとはほとんど顔を上げなかった。アルゲンはその様子を横目に、自分の食事へ戻った。


ほどなく皿は空になった。それでも子供は、皿から目を離さなかった。


「腹八分目だ」


子供は首を傾げ、自分の腹へ目を落とした。


アルゲンは何も言わず、剣と兜を取り、立ち上がった。


「今日はもう遅い。宿へ行くぞ」


「……うん」


アルゲンはカウンターに銀貨を一枚置き、酒場を出た。子供もすぐ後を追った。


店主は銀貨を見てから、子供の皿へ目をやった。


「嬢ちゃん、また来な。次は少し多くしてやる」


子供は足を止めたが、何も返さず、小走りでアルゲンに追いついた。


通りからは人影が消えていた。静まり返った街に、土を踏む二人の足音だけが続いた。


しばらく歩くと、宿屋が見えてきた。


アルゲンが扉を開けると、受付の向こうで老婆が編み針を動かしていた。その先の食堂には、客の姿はなかった。


「おや、帰ってきたのかい」


「しばらく世話になる」


「構わないよ。前と同じ部屋でいいかい」


「ああ」


アルゲンが宿帳へ名前を書いていると、老婆はその後ろに立つ子供へ目を向けた。


「その子は?」


「エルフだ」


老婆の編み針が止まった。


「エルフ?なんだってそんな子を連れているのさ」


「成り行きでな」


「その子の名前は?」


「知らん」


老婆はアルゲンを見た。


「あんたねえ……」


老婆がため息をついて子供へ目を向けると、小さな声が返った。


「……リズ」


アルゲンは宿帳から顔を上げた。


「そうかい。今日はもう遅い。早く寝な」


それだけ言うと、老婆は再び編み針を動かし始めた。


アルゲンは階段を上り始め、リズもその後に続いた。


部屋に入ると、アルゲンは荷物を下ろし、右腕を覆う腕甲を外した。


それを見て、リズも外套の留め具に手をかけた。


留め具が外れると、白い髪が肩へ落ちた。


リズは脱いだ外套を丸めて床に置き、そのまま窓辺へ向かった。


アルゲンが部屋の隅の椅子に腰を下ろし、卓上ランプに火を灯す頃には、リズは街並みを眺めていた。


白い髪の間から、長い耳がのぞいていた。


月明かりを受けた肌は、髪よりわずかに色が濃いだけだった。


リズが振り返った。紫色の瞳が、アルゲンを見つめた。


「なに……?」


「なんでもない」


アルゲンは背もたれに身を預け、膝の上で本を開いた。


「ベッドはお前が使え」


リズはベッドを見てから、本を読むアルゲンへ目を移し、寝台の端へ腰を下ろした。


部屋にはページをめくる音だけが続いた。


*


翌朝、アルゲンが目を覚ますと、リズは毛布にくるまり、寝台の上で小さく丸まっていた。


アルゲンは大きくあくびをし、両腕を伸ばしてから立ち上がった。部屋の隅に置いた背負い袋から財布を取り出し、剣を腰に帯びた。


扉へ手をかけたところで、寝台の脇に置かれた子供の靴が目に入った。つま先は擦り切れ、土がこびりついていた。


アルゲンは扉から手を離し、寝台へ戻った。


「おい、ガキ。起きろ」


返事はなく、小さな寝息だけが続いた。


アルゲンは毛布を剥いだ。


リズは飛び起き、毛布を手にしたアルゲンを見上げた。


「行くぞ」


アルゲンは顎で扉を示した。


「どこ行くの」


「服と靴を買う」


「いらない」


「要る。お前の寸法が分からん。早く支度しろ」


リズは寝台から足を下ろし、床に置いた外套を拾った。


「耳を出すなよ」


外套を羽織りながら、リズは小さくうなずいた。


アルゲンは部屋の隅に置いていた背負い袋を肩に掛け、扉を開けた。


宿を出た二人は、露店の並ぶ通りへ向かった。


坂を上る途中、街を見下ろす広場に出た。リズは広場の端から見える街並みに目を向け、足を止めた。


「おい」


アルゲンに呼ばれ、リズは一度だけ街並みを振り返ってから歩き出した。


通りへ近づくにつれて人の数が増えていった。リズは外套の前を両手で押さえ、顔を伏せたままアルゲンの後ろを歩いた。


やがて衣服や靴を並べた露店の前で、アルゲンが足を止めた。


「こいつに合う服と靴が欲しい。外套も一枚頼む」


露店の男はリズを眺めてから立ち上がった。


男が近づくと、外套を握るリズの指に力が入り、肩が小さく震えた。男は一度足を止めたが、何も言わず、並べていた靴を一足手に取った。


「このくらいだろうな」


リズの足元へ靴を置いた。


「履いてみな」


リズは動かなかった。


男はしばらく待ったあと、アルゲンを見上げた。アルゲンはリズの履いている靴と、足元に置かれた靴を見比べた。


「それでいい。服と外套も頼む」


「合わなくても文句言うなよ」


男は肩をすくめ、リズの背丈に合いそうな服と外套を選んだ。


「この辺りなら着られるだろ」


「助かる。いくらだ」


「全部で銀貨三枚だな」


アルゲンは財布から銀貨を取り出し、男へ手渡した。


「まいど」


受け取った服と外套を、アルゲンはリズへ押しつけた。男も靴を拾い、その上へ重ねた。


リズは落とさないよう、両腕で荷物を抱え直した。


「着替えるなら、そこの裏を使いな」


男は店の奥に垂らした布の向こうを指した。


リズは動かなかった。


「行ってこい」


アルゲンに促され、リズは男の脇を通って布の向こうへ入った。


リズが布の向こうへ入ると、男はそちらに背を向けた。


しばらくして、新しい服と靴を身につけたリズが、布の隙間から顔を出した。新しい外套は腕に抱えたままで、長い耳がむき出しになっていた。


アルゲンはリズと目が合うと、自分の耳を指した。


リズは腕に抱えていた外套を素早く羽織り、フードを深くかぶった。白い髪と長い耳が布の中へ隠れた。


それから、脱いだ服と靴、それまで羽織っていたアルゲンの外套を拾い、胸に抱えた。


リズがアルゲンの隣へ戻ると、男が手を差し出した。


「古いものは処分しといてやるよ」


リズは身を引き、抱えていたものを胸へ引き寄せた。


「ま、好きにしな」


アルゲンはリズの腕から古い服と靴を取り上げ、黙って背負い袋へ押し込んだ。


それから、残った自分の外套を男へ差し出した。


男は外套を受け取り、土に擦れてほつれた裾を見た。


「使わないのか?」


「もう十分使った」


男が外套を畳むと、リズの目がその手を追った。


「次は食料だ」


アルゲンが歩き始めると、リズもあとを追った。新しい靴のつま先が何度か土に引っかかり、そのたびに歩幅が小さくなった。


アルゲンは露店を回り、干し肉や硬いパンを背負い袋へ詰めていった。


リズの目は、串に刺された焼き肉や、籠に山積みされた果物を追っていた。


必要な物を揃え終わると、アルゲンはリズに言った。


「宿に戻るぞ」


リズは店先に吊るされた肉の塊を見たまま、うなずいた。


そのとき、背後で金属の擦れる音がした。


リズが振り返った。


荷車の脇で、長い耳を持つ者たちが箱を降ろしていた。


リズはしばらく動けずにいたが、やがて一歩踏み出した。アルゲンが後ろから外套の襟元を掴んだ。


「行くな」


「仲間だ」


「奴隷のな」


リズの目が、彼らの首元へ落ちた。それぞれの首には鉄の輪がはめられ、そこから伸びた鎖で一列につながれていた。


リズはアルゲンへ向き直った。


「助けないのか」


「ああ」


「なんで」


「手を出せば、お前もあそこに並ぶ」


「強いんだろ」


「強ければ、何でもできると思うな」


リズは俯きかけたが、もう一度エルフたちを見た。


皆ひどく痩せ、身につけた服は擦り切れていた。


リズの肩が小さく揺れた。それでも顔を背けずにいると、一人のエルフがリズを見た。


エルフの視線が、外套の隙間からのぞくリズの耳へ移った。その目が、わずかに見開かれた。


だが、エルフはすぐに顔を伏せ、抱えていた箱を持ち直した。


背後からアルゲンの声がした。


「戻るぞ」


リズは返事をせず、アルゲンのあとを歩き出した。


帰り道、リズとアルゲンの間は、行きより少し開いていた。


二人が宿へ戻ると、受付の向こうで老婆が編み針を動かしていた。


老婆はリズの新しい外套と靴へ目をやった。


「市場へ行ってきたのかい」


「ああ」


アルゲンはそのまま階段へ向かった。


だが、後ろから足音は続かなかった。


老婆がもう一度目を向けると、リズは受付の前に立ったまま、床を見つめていた。


「リズ?」


リズは何も言わず、足早に階段を上がった。


部屋へ戻ると、アルゲンはすでに椅子に腰を下ろし、本を開いていた。


リズは外套を脱ぐと、寝台へ身を投げ出し、顔を伏せたまま動かなかった。


しばらくして、扉が軽く叩かれた。


老婆が木の盆を持って入ってきた。盆の上の木椀から、湯気が立っていた。


老婆は寝台に伏せたリズへ目をやり、盆を寝台の脇へ置いた。


「リズ。長耳のお友達のことは、放っておいてやんな」


それ以上は何も言わず、老婆は部屋を出ていった。


老婆が出ていったあとも、リズは顔を上げなかった。


アルゲンは何も言わず、本のページをめくった。


やがてスープの湯気が消えた頃、寝台が小さく軋んだ。


リズは盆から木椀を取り、両手で抱えた。


木椀に口をつけ、冷めかけたスープを少しずつ飲んだ。


*


窓の外が暗くなる頃には、アルゲンがページをめくる音も止んでいた。


アルゲンは床に横たわり、リズに背を向けていた。


寝台の上で目を開けていたリズは、しばらくその背中を見つめた。


やがて毛布をどけ、床へ足を下ろした。寝台の脇に置いた靴を履き、アルゲンが動かないことを確かめると、外套を羽織った。


音を立てないよう扉を開け、そのまま宿を抜け出した。


リズが向かったのは、昼間に足を止めた広場だった。


広場には人の姿がなかった。


リズはフードを下ろし、長椅子に腰を下ろした。


月が雲に隠れると、眼下の建物は闇に沈み、点々と残る灯りだけが夜空のように広がった。


「言ったはずだ。奴隷にされるか、殺されると」


背後から声がした。


リズは振り返らなかった。


「じじい、なんでエルフは殺される?」


「エルフだからだ」


「なんでだって聞いてるんだよ」


「エルフだからな」


「……くそじじい」


アルゲンはリズの頭にフードをかぶせると、長椅子の反対の端へ腰を下ろした。


それきり、二人は何も言わなかった。

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