湖畔
メルクリウスたちが町を出る朝、治療院の前には荷を積んだ馬車が止まっていた。
リズは戸口の脇に手をつき、クレアが外套の紐を結び直すのを見ていた。左脇腹にはまだ布が巻かれ、立っているうちに戸口へ預ける体重が少しずつ増えていった。
メルクリウスが荷台の紐を確かめてから、アルゲンへ頭を下げた。アルゲンは右手をわずかに上げただけだった。
クレアがリズの前へ立った。
「もう行くね」
リズは答えなかった。
「またね」
クレアが馬車へ向き直る。
「……またな」
クレアは振り返り、一度うなずいた。
やがて車輪が動き出し、荷台の上からクレアが手を振った。リズは戸口に立ったまま、馬車が通りの向こうへ消えるまで見送った。
「戻るぞ」
アルゲンが治療院の中へ入っていく。
リズは馬車の消えた通りをもう一度見てから、戸口を離れた。
それから数日の間、アルゲンは朝になると治療院を出た。夕方に戻ってしばらくすると、スープとパンを載せた木の盆を右手に部屋へ入ってくる。
リズも一人で窓まで歩けるようになり、日が傾くころには通りを眺めていた。
荷車や仕事帰りの人間たちが行き交う中にアルゲンの姿を見つけると、窓を離れて寝台へ戻った。
※
その日、荷車が通りから消え、仕事帰りの人間たちも少なくなっていったが、アルゲンの姿は見えなかった。
通りの店が一軒ずつ戸を閉め、家々の窓に灯りがついていく。リズは窓辺を離れなかった。
扉が開いたのは、部屋の中まで暗くなってからだった。
アルゲンがスープとパンを載せた木の盆を右手に持って入ってきた。
「遅い」
アルゲンは盆を小卓へ置き、椅子の背に右手をかけて腰を下ろした。
リズは窓を離れた。
「今日はなに」
「豆のスープだ」
「昨日も食べた」
「食わなくていい」
リズは小卓の前まで歩き、木の匙を取った。
アルゲンは本を開いたが、しばらく頁をめくらなかった。
それから数日後、医者はリズの脇腹に巻かれた布を外した。
傷口は塞がり、周りの腫れも引いていた。医者は傷の縁を確かめると、新しい布を以前より薄く巻き直した。
「歩くのは構わん。だが、まだ走るな。重い物も持つな」
リズはうなずいた。
医者は布の端を結び終えると、壁際のアルゲンへ目を向けた。
「この子はもう連れていっていい」
医者の目が、アルゲンの胸元へ移った。
「傷口が塞がっても、前に話したことは変わらんぞ」
アルゲンは何も答えず、椅子の背に掛けられていたリズの外套を取った。
「いくぞ」
「もう出ていいのか?」
「今聞いただろう」
リズはアルゲンから外套を奪い、頭巾をかぶった。
治療院を出ると、アルゲンは町の中を歩き始めた。
土と砂利の混じった道の両側には、板壁や土壁の家が並んでいる。軒先には薪や農具が置かれ、道の端では鶏が地面をつついていた。家並みの向こうには畑が見えた。
アルゲンは町外れの店に立ち寄った。開け放たれた戸の奥には、麻袋や木箱が積まれている。
硬いパンと干し肉、豆を買うと、店の男が一つの布袋へまとめた。アルゲンは代金を置き、右手に袋を下げて店を出た。
「どこ行くんだ」
後ろから尋ねると、アルゲンは足を止めずに答えた。
「半刻ほどだ」
最後の家を過ぎると、道の両側は畑に変わった。リズは少し離れてその後を歩いた。左脇腹は歩くたびに鈍く痛んだが、前を行くアルゲンの歩調も以前より遅い。布で吊られた左腕は動かず、外套の下には胸の包帯がまだ厚く残っていた。
畑を抜けた道は、やがて森の縁へ沿って延びていく。
しばらく進んだところで、アルゲンは道を外れ、木々の間へ入った。道と呼べるほどではないが、落ち葉の上には、細い踏み跡が森の奥へ続いている。
「こっちに道ないぞ」
「見ればわかる」
リズは足元の枝を避けながら、アルゲンの背を追った。
森の奥へ進むにつれ、町の物音は聞こえなくなった。枝の擦れる音と、二人が落ち葉を踏む音だけが続いている。
やがて、木々の間を抜ける風に水の匂いが混じり始めた。さらに進むと、枝の向こうに陽の光を映した湖が見えた。
アルゲンは湖岸に沿って、森の中を歩いていく。
木々が途切れた先に、古い小屋が立っていた。
屋根は片側へ傾き、壁の板は色を失っている。だが、崩れていたらしい壁の一部には新しい板が打たれ、軒下には切りそろえられた材木が積まれていた。窓には、まだ板が打ち付けられたままになっている。
リズは足を止めた。
「なに、あれ」
アルゲンは小屋へ向かいながら答えた。
「居場所が欲しいんだろう」




