頼む
アルゲンは剣を鞘へ戻し、メルクリウスの腕の中にいるリズへ右手を伸ばした。
「よこせ」
メルクリウスは、アルゲンの左腕に刺さった矢と、胸に巻かれた布を見た。
「ですが、その傷では――」
アルゲンは何も言わず、差し出した右手を下ろさなかった。
メルクリウスは口を閉じ、リズの左脇腹を外へ向けると、上体をアルゲンの右肩へ預けた。
アルゲンは腰を落とし、右腕をリズの膝の裏へ回した。そのまま胸へ引き寄せると、白い頭が肩へ落ちた。
左腕は、矢が刺さったまま垂れていた。
「行くぞ」
メルクリウスが川沿いを北へ歩き始め、クレアがその後に続いた。
川岸に道らしいものはなく、濡れた草の間へ細い踏み跡が伸びていた。石の多い場所では流れから離れ、木々の間を迂回しながら進む。
アルゲンはリズを右腕に抱え、二人の後ろを歩いた。
腕の中で、リズは動かなかった。歩くたびに白い髪が揺れ、兜の縁に触れては肩へ落ちる。
木々の切れ間へ出たところで、クレアが振り返った。
川下の空へ、黒い煙が上がっていた。
逃げてきた街の方角だった。煙は一筋ではなく、幾つもの黒い柱が風に押され、空の低いところで重なっている。
遠くで角笛が鳴った。
一度途切れ、少し間を置いて、また聞こえた。
メルクリウスが煙を見たまま足を止める。
「まだ戦っているのでしょうか」
アルゲンは川下から目を離した。
「急げ」
メルクリウスは前を向き、クレアの背へ手を添えて歩き出した。
黒い煙は木々の向こうへ隠れたが、川が曲がるたびに、枝の隙間から姿を現した。
リズの踵が草を擦った。
アルゲンは足を止め、右脚を前へ出して腰を落とした。腿へリズの身体を預け、沈んだ右腕を押し上げるように抱え直した。
抱え直した拍子に、胸へ巻いた布の下から血が滲み、外套へ広がった。
メルクリウスが戻ってきた。
「代わります」
アルゲンは答えずに歩き出した。
「町まではまだあります。せめて少しだけでも――」
「先を見ろ」
メルクリウスはアルゲンの左腕へ目を落としたが、それ以上は言わず、再び先へ立った。
クレアだけが、その場に残っていた。
アルゲンが横を通り過ぎると、隣へ並んで歩き始める。腕の中のリズを見上げたまま、垂れている手を両手で包んだ。
「リズ」
返事はなかった。
クレアはしばらく手を握っていたが、リズの頭巾が肩へずれ落ちているのに気づき、長い耳が隠れるよう白い髪の上へ戻した。
「もうすぐだから」
クレアは再びリズの手を取った。
濡れた土を踏む足音が川の音に重なるなか、前を行くメルクリウスの背は少しずつ遠ざかり、アルゲンのつま先が石に掛かった。
身体が傾くと、アルゲンは右腕を胸へ引きつけ、リズを抱えたまま踏みとどまった。左腕の矢が揺れ、肩から指先までが遅れて動いた。
胸の奥から咳が込み上げる。
顔を背けたが、止めることはできなかった。兜の下で押し殺した咳が二度続き、口元から流れた血が顎を伝った。
クレアが足を止める。
アルゲンは血を拭わず、歩き出した。
「前へ行け」
クレアは動かなかった。
もう一度言われる前に、アルゲンの横へ戻り、歩調を合わせた。
しばらく進むと、川岸の踏み跡が荷車の轍へ合流した。
轍は川から離れ、低い丘の間を北へ続いている。木々も疎らになり、遠くまで見通せるようになった。
低い丘の間を進むうち、背後の黒い煙は見えなくなった。
やがて前方の丘を越えると、灰色の屋根が見えた。
川に沿って家々が並び、その間から炊事の白い煙が細く上がっている。町を囲う高い壁はなく、入口には低い木の柵と、荷車が二台すれ違えるほどの道があるだけだった。
「あそこです」
メルクリウスが歩調を速めた。
町へ入ると、通りを歩いていた者たちが足を止めた。
血に濡れたアルゲンと、その腕に抱かれた子供へ視線が集まる。リズの耳は頭巾に隠れていたが、外套の脇から矢の柄が突き出していた。
道端で荷を下ろしていた男が、それを見て後ろへ退いた。
メルクリウスが男へ近づく。
「医者はどこです」
男は外套から突き出た矢を見たまま、通りの奥を指した。
「石橋の手前だ。戸口に古い杖が掛けてある」
メルクリウスは礼もそこそこに走り出した。
クレアもリズの手を放し、その後を追う。
アルゲンはリズを抱えたまま、二人の後を歩いた。
右腕は次第に下がり、リズの身体も少しずつずり落ちていた。白い頭が肩から胸へずれ、歩くたびに頬が外套へ触れる。
アルゲンは立ち止まり、右脚を前へ出して腰を落とした。腿へリズの身体を預けて抱え直したが、今度はすぐに歩き出せなかった。
胸に巻いた布へ、さらに血が広がっていた。
通りの先で、クレアが扉を叩く音がした。
「開けて!けが人がいるの!」
アルゲンは息を整え、足を前へ出した。
石橋の手前に、白い壁の家があった。戸口の脇には使い込まれた杖が掛けられ、開いた窓から薬草の匂いが流れている。
扉が開いた。
出てきた男はクレアを見たあと、その向こうから近づいてくるアルゲンへ顔を向けた。
視線がリズの脇腹に刺さった矢へ止まる。
「中へ運べ」
アルゲンは何も答えず、開いた扉をくぐった。
家の中には広い台が置かれ、その周りに水桶や畳んだ布、刃物の入った木箱が並んでいた。壁際には寝台が二つあった。
医者は台の上を空けた。
「ここへ寝かせろ。矢を動かすな」
アルゲンが台へ近づくと、医者がリズの肩と背を支えた。アルゲンは膝の裏を抱えたまま、二人でリズを台へ横たえた。
右腕から重みが消えても、アルゲンはしばらくその場を離れなかった。
クレアが台のそばへ駆け寄った。
「助かる?」
医者は答えず、リズの瞼を開いて目を確かめ、首筋へ指を当てた。
「血を失いすぎている。奥で湯を沸かせ。布もあるだけ持ってこい」
メルクリウスはすぐに奥へ向かった。
アルゲンは台から離れた。
医者がアルゲンに言った。
「お前も座れ」
アルゲンは顔だけ向けると答えた。
「構わなくていい」
医者はしばらくアルゲンを見ていたが、やがてリズの傷へ戻った。
アルゲンは壁に沿って部屋の隅の椅子へ向かったが、二歩目で膝が折れ、その場へ腰を落とした。背を壁へ預け、垂れた左腕を床へ置く。
医者の手元で、血に濡れた布が脇へ置かれた。
「そいつを頼む」
医者は傷口から目を離さなかった。
「任せておけ」
新しい布が、リズの傷口へ重ねられた。
アルゲンの右手から力が抜け、金属の指先が床を擦った。




