傷
アルゲンは錠から手を離した。
扉の脇へ短剣を差し込み、木枠との隙間を広げる。鉄具は動かなかったが、右腕の腕甲を二度打ちつけると、留めていた板が割れた。
扉を押すと、湿った空気が流れ出した。
小屋の中に窓はなく、壁際には長柄の道具や縄、木の楔が並んでいた。床の奥が開いており、石段が暗がりへ下りている。
水音は、その下から響いていた。
「通れそうだ。だが暗いな」
「ランプがあります。これを持っていきましょう」
メルクリウスが棚に置かれたランプを取り、残っていた油へ火を入れた。アルゲンは灯りを受け取らずに階段へ足をかけた。
石段は小屋の真下を下り、途中で城壁の方へ折れていた。壁から染み出した水が段の端を濡らし、その先へ細く流れている。
下りきったところで、ランプの光が地下の通路を照らした。
膝ほどの石の縁を挟み、通路の脇を太い水路が流れていた。通路は人が一人ずつ歩ける幅のまま、暗闇の奥へ続いている。
アルゲンは水が流れてくる方へ顔を向けた。
通路は緩やかに上っている。
アルゲンが歩き始めると、水は四人とすれ違い、街の方へ流れていった。
天井の低いところでは、アルゲンは兜を擦らないよう頭を傾けた。通路の石は濡れ、目地から落ちる雫がランプの光を横切っている。
アルゲンの後ろをリズとクレアが続き、メルクリウスが最後を歩いていた。
街の警鐘は、もう聞こえない。
水が石を擦る音と、四人の足音だけが地下に響いていたが、アルゲンが足を止めると、後ろの足音も途絶えた。
水音の中に、硬い靴底が石を踏む音と、金属の触れ合う音が混じっている。
まだ遠い。だが、一人ではなかった。
アルゲンが後ろへ手を伸ばすと、メルクリウスがランプの蓋を閉じた。
地下水路が暗闇へ沈む。
やがて通路の先に淡い光が現れた。揺れる光が石壁を照らし、その中から人影が近づいてくる。
アルゲンは三人を壁際へ下がらせ、自分はその前に立って剣を抜いた。
通路の奥から、松明を持った男が現れた。
胸当てには、この街の兵士とは違う紋章が刻まれていた。男はアルゲンに気づいて足を止め、その背後で何人もの影が重なった。
「誰だ」
アルゲンは答えず、距離を詰めて男の喉へ剣を突き入れた。
松明が石床へ落ちる。
倒れかけた男の後ろから別の剣が伸びた。アルゲンは腕甲で刃を外へ流し、相手の手首をつかんで引き寄せる。
男が前の死体につまずいたところで、アルゲンは剣を首の付け根へ入れた。
男は低く息を漏らし、その場へ崩れた。
奥で声が上がった。
「敵だ!」
狭い通路に兵士たちが詰まり、前にいる者だけが武器を構えた。
アルゲンは倒れた二人を踏み越える。
剣を突き出した男の懐へ入り、腕を腕甲で押し上げる。空いた脇腹へ刃を入れると、男は腹を押さえて通路へ崩れた。
「押し込め!」
後ろの兵士が盾を突き出し、倒れた男ごとアルゲンへ押しつけてくる。
アルゲンは水路の縁へ退き、盾をかわした。勢い余った男の身体が前へ流れる。
膝の裏を斬ると、男は片膝をついた。傾いた盾の上から、アルゲンは男の首へ剣を突き入れた。
盾が石床へ落ち、倒れた二人が通路を塞いだ。
「止まるな!越えろ!」
後ろの兵士が死体を踏み越えようとしたが、倒れた兵士たちが通路を塞ぎ、一人ずつしか前へ出られなかった。
アルゲンは伸びてくる剣を腕甲で外し、死体を越えてきた兵士を順に斬り伏せた。
その奥で、弦の軋む音がした。最後尾の兵士が弩を構えている。
アルゲンは手前に残った男をつかみ、自分の前へ引き寄せた。
弦が鳴り、矢が男の背へ突き立った。
男が声を上げ、身体を反らす。
アルゲンはその腹へ剣を突き入れ、身体ごと後ろへ押し込んだ。
男の背が後ろの兵士へぶつかり、二人の動きが止まる。
アルゲンは剣を引き抜き、崩れた男を脇へ押し退けると、後ろの兵士の胸へ突き入れた。
男が膝から崩れる。その向こうで、弩兵が弦を引き直し、矢を載せていた。
弩がアルゲンへ向く。
弦が鳴った。
矢はアルゲンの兜の脇を抜け、暗がりへ消えた。
アルゲンは倒れた男を踏み越えた。
弩兵が空になった弩を投げ捨て、片手を上げる。
「待ってくれ!」
アルゲンは足を止めず、男の喉へ剣を突き入れた。
剣を引き抜いたところで、背後からメルクリウスの声が響いた。
「アルゲンさん!」
アルゲンは振り返った。
ランプの蓋が開き、暗がりに三人の姿が浮かんでいた。
クレアは石床に座り込み、倒れたリズの身体を抱えていた。リズは片手を床についていたが、腕に力が入らず、ゆっくりと肘が曲がった。
左の脇腹に矢が刺さっていた。
アルゲンはリズのそばへ膝をつき、傷を確かめた。
クレアが腕甲をつかむ。
「リズが……私の前に出て……」
アルゲンはクレアへ視線を移したが、何も言わずに傷口へ戻した。
矢は背まで抜けていない。服の下では、傷口から流れた血が広がり続けていた。
「急いだ方がいい。この出血では……」
メルクリウスはクレアの肩へ手を置き、アルゲンを見た。
「近くに町はないか」
「川沿いを北へ進めばあります。薬師もいるはずです」
「どれほどだ」
「急げば、昼を過ぎる前には」
アルゲンは背負い袋から布を取り出し、矢の周りへ重ねた。柄が動かないよう腹へ巻きつけると、リズの指が石床を掻いた。
アルゲンは布の端を結び、剣を鞘へ戻した。
リズの背と膝へ腕を入れ、矢を動かさないよう身体を抱き上げる。
通路には、兵士たちが外から持ち込んだ泥が残っていた。濡れた足跡は、水の来る方から続いている。
メルクリウスがランプを持ち、クレアを前へ歩かせる。
アルゲンはリズを抱いたまま、緩やかな上りを進んだ。
水路の幅は次第に狭くなり、水の勢いが増していく。通路も細くなり、場所によっては壁へ身体を寄せなければ通れなかった。
リズの呼吸は浅かった。
石壁へ反響するたび、途切れそうになる。
やがて、暗闇の先が白くなった。
外から差し込む光だった。
湿った地下の空気に、川と草の匂いが混じり始める。水路の先には鉄格子があり、その向こうで川面が揺れていた。
格子の脇には、人が一人通れる幅の扉があり、わずかに開いていた。
アルゲンは石壁へ身を寄せ、リズを抱いたまま扉の隙間から外を見る。
川岸の少し開けた場所に、兵士たちが集まっていた。
五人が剣や槍を持ち、その後ろには弩を構えた者が二人いる。さらに離れた場所で、一人の男が周囲を見渡していた。
アルゲンは扉から離れ、メルクリウスへリズを差し出した。
「こいつを頼む」
メルクリウスは一瞬ためらったが、ランプをクレアへ渡し、リズを受け取った。
身体が動いた拍子に、リズの息が漏れる。
アルゲンは剣を抜いた。
「敵がいるのですか?」
「大した数ではない。ここにいろ」
アルゲンが歩き出すと、リズが薄く目を開いた。
「じじい……戻ろう」
アルゲンは振り返らず、足元の石を拾い上げた。
「ガキは黙ってろ」
それだけ言い残し、扉に向かう。
扉を押し開けると、川岸の兵士たちが一斉に振り返り、少し離れていた男が剣を抜いた。
「敵だ。殺せ」
隊長が腕を上げるより早く、アルゲンの手から石が離れた。
石は弩兵の顔へ当たり、構えていた弩が落ちる。もう一人が引き金を引いた。
アルゲンは身体を捻ったが、矢は左の上腕へ突き立った。衝撃で肩が後ろへ引かれ、左手の指から力が抜ける。
前にいた兵士たちが距離を詰めるより早く、アルゲンは踏み込んだ。
最初に伸びてきた槍を剣で弾き、開いた脇腹を深く斬った。男が身体を折ったところへ肩をぶつけ、そのまま後ろの兵士へ押し出した。
二人の足が止まる。
アルゲンは倒れかけた男を越え、剣を構え直そうとした兵士の胸へ刃を入れた。引き抜くと同時に身体を返し、横から振られた剣を受ける。
刃が重なった。
男は両手で剣を押し込み、アルゲンを後ろへ退かせようとする。その向こうでは、残る兵士たちが左右へ回ろうとしていたが、前に重なった兵士たちが射線を塞ぎ、弩兵は矢を載せたまま射てずにいた。
アルゲンは左手を男の肩へ伸ばしたが、腕は上がらず、指先が外套を掠めただけだった。
押し返せないまま、重なった刃が軋んだ時、男の身体が不意に前へ押し出され、男の胸から剣先が現れた。刃はそのままアルゲンの左胸へ入った。
息が詰まり、身体が後ろへ傾く。目の前の男は口を開いたまま、自分の胸から突き出た刃へ視線を落としていた。
その肩越しに、剣の柄を両手で握った隊長が見えた。
隊長は味方ごと、さらに刃を押し込んだ。
アルゲンは押し合っていた剣を外し、倒れかけた兵士の脇から、隊長の首へ刃を突き上げた。
隊長の身体が止まった。
柄を握っていた手が離れ、二人は重なるように地面へ崩れた。アルゲンの胸から刃が抜け、外套に血が滲み始めた。
倒れた二人の向こうで、残った四人は足を止めていた。
アルゲンが左腕を垂らしたまま倒れた二人を越えると、前にいた男が一歩退いた。
剣先から落ちた血が、石の上に点々と残った。
「報告に行くぞ!」
その声とともに男が背を向ける。もう一人の兵士も続き、弩兵たちも川沿いへ走り出した。
アルゲンは追わなかった。
四人の足音が遠ざかるまで立っていたが、やがて剣先を地面へつき、その場へ膝をついた。
左腕の矢には触れず、倒れた兵士の服を裂いて柄が動かないよう縛る。さらに服を裂き、胸へ押し当てて外套の上から身体へ巻きつけた。
立ち上がったところで咳が漏れた。
アルゲンは兜の下へ右手を入れ、口元を拭った。金属の指先に血が残った。
その手で剣の柄を握り直し、支えにして水路の扉へ戻った。
扉は内側から開き、メルクリウスがリズを抱えて立っていた。
クレアはアルゲンの左腕に刺さった矢を見たあと、胸に巻かれた布へ目を落とした。
「その傷……」
「行くぞ」
アルゲンは三人を外へ出し、川沿いへ顔を向けた。
メルクリウスの腕の中で、リズが薄く目を開く。紫色の瞳が、血に濡れた左腕から胸へ動いた。
「……くそじじい」
アルゲンは何も答えなかった。
リズの目は、再び閉じた。




