エピローグ
生徒会の選挙が行われてから約一ヶ月が経過した木曜日。季節は六月という、春の終わりでもあり梅雨の始まりでもある時期になっていた。
数えきれないほど多くの思い出が生まれた放課後、俺は生徒会長として生徒会室の鍵を開ける。まだ誰もいない生徒会室の自席に腰を下ろして、ゆっくりと長い息を吐いた。
昨年は山南先輩が座っていた誕生日席から部屋を眺める。違和感はあるが、慣れるのに時間はかからないだろう。だが、慣れるというのは少し寂しい。少し前まで生徒会役員だった先輩たちはまだ卒業していないというのに、この寂しさはどこから来るんだろう。
先輩たちの私物も先々週辺りに全部返したせいで、残り香さえない。そんな部屋に一人でいると、春日との会話が脳裏を過ぎった。
今でも時々、思い出す。その度になんとも言えない想いを抱いて、忘れようと努力する。
「…………なんでできねーんだよ」
呟いて心臓の辺りを鷲掴んだ。本当に、びっくりするくらいに忘れることなんてできなかった。
初恋は失恋に終わったが、自分の中ではまだ終わっていないような気がして諦めの悪さを思い知る。今は友達として接しているが、こんな気持ちのままではすべての関係性を壊してしまいそうで怖くなる。脆くて儚い関係だ。そんなに春日のことが好きだったのか俺。実感してももうどうにもならないのに。
情けないと自分でも思うが、急に目頭が熱くなった。そんな時に限って扉が開いてしまうわけで、顔を出した副会長の天月と目が合った。
「やっほーつっきー!」
俺の渾名を呼んだ天月は、ぎょっと大袈裟に驚いて後退る。
「つ、つっきー?! え……な、泣いて……?!」
天月の台詞に驚いて、つい目元を擦ってしまった。手の甲には、生暖かい自分の涙が乗っている。
「泣いてない」
自分でも無理があるなとは思った。だが、無理をしなければならなかった。俺は天月に涙を見せるほど強くも弱くもない。
「嘘! 絶対泣いてるよ!」
時々感心するほどの強引さを持つ天月は、あろうことか俺の方へと近づいてきた。鞄を自分の机上に置いて、すぐ傍にある俺の机を何故か叩く。
「ほら、やっぱり泣いてる」
「これは……」
「あたしには嘘つかないでよ。あたし言ったよね? 何かあったら頼ってって。あたし、副会長だよ? 生徒会長──つっきーの役に立ちたいよ。それがプライベートなことでも、あたしは全然構わないから」
天月が身を乗り出してそう訴えた。そんなまっすぐな瞳に耐えられなくて、視線を逸らす。
「悪い」
「なんで謝るの?」
「話せない」
「……どうして?」
悲しそうに天月が尋ねた。どうしても何も、話したくないのだから仕方ない。天月に天月の親友の春日に振られたと言って、一体何になるのだろう。天月だからこそ話せないと言っても過言ではないのに。
俺の無言を拒絶ととったのか、天月は酷く悲しそうな──それでいて悔しそうな表情をした。
「あ、天月……」
傷つけた。すぐに悟った。
「……悪い。傷つけるつもりはなかったんだ」
咄嗟に謝るが、天月は無言で首を横に振る。
「……こっちこそごめん。これ、あたしのただの自己満足だから。気にしないで。ね?」
懇願するような瞳に変化した。そんな瞳で俺を見下ろして、何かを伝えようとしている。
見つめ合ったまま時間が過ぎて、やがて、天月が唇を噛んだ。
「嫌わないで」
天月の口から出てきた台詞は、あまりにも天月に相応しくない台詞だった。
「き、嫌う? 俺が……天月を?」
再び無言になった天月が頷いた。どうやら天月は、本気で俺に嫌われたと思ったらしい。
「俺が天月を嫌うわけないだろ」
「えっ、本当に?」
驚いた天月を安心させるように「本当だ」と確かに告げる。天月は「ありがとう」と口に出して、身を乗り出すことを止めた。そのまま扉の方へと歩いていくから、俺は慌てて呼び止める。
「ちょっと顔洗ってくるね」
天月は俺の方を見もせずにそう告げた。俺はかける言葉を見つけることができず、「わかった」なんてつまらない台詞を口にする。
ぎこちない笑みを浮かべて部屋から出ていった天月の足音が遠ざかっていった。だが、鞄はここにある。帰ってくるとは思うがそれでも何故か不安だった。
置き去りにされた天月の鞄を眺める。会話をするように、視線を離さず、ただじっと。
「どうすればいいんだよ……」
鞄に聞いても答えは返ってこない。当たり前だ。常識はちゃんとあったはずなのに、当たり前のこともできなくなっていた。
どうすればいいのか、本気でわからなくなっていた。
*
新緑が美しかった季節は過ぎて、六月になった。
一ヶ月前に行った《Vivace》のコンサートは今でもファンの間で話題になっている。そのメンバーの一人である悠は、ダンス組だとかボーカル組だとかで呼ばれなくなったのだと言っていた。
今までダンスしかやらなかったせいか、口には出さないけれど嬉しそうで。私の隣で鼻歌を歌う度に、愛しいと思うようになっていた。
放課後になってクラスメイトが教室から出ていくと、悠は私の前の席に座って頭を傾けてくる。これは撫でろという意味だ。一ヶ月前はこんなこと恥ずかしくて互いにやらなかったけれど、今は甘やかしたいと思ってしまう。
「美月」
瞬間、あまりにも静かに名前を呼ばれた。たいして驚かなかったのは、声で六花だとわかったからだ。
「……どうしたの六花」
今日は木曜日だから生徒会に行ったはずなのに、どうして戻ってきたのだろう。そんな疑問を言外に込めた。
「あのね、あたし、つっきーに嫌われたかもしれない」
今にも泣きそうな声で、六花が私の両肩を掴む。私は時間をかけて六花の台詞を理解して──
「えっ? つっきーが六花を?」
──思わず聞き返してしまった。
六花は力が抜けたようで、床に膝をつけて項垂れる。こんな六花は今まで一度も見たことがない。
「ど、どういうこと? 六花、つっきーと何があったのか教えてくれる?」
六花はすぐに口を開いた。六花から紡がれる言葉は私を驚かせ、そして、苦しめる。
「泣いてた、の? つっきー……」
「うん。つっきー、どうしてなのか全然教えてくれなくてさ……」
思い当たる節がないと言えば嘘になった。
生徒会室、つっきー、涙。約一ヶ月前につっきーを振った瞬間が思い浮かぶ。
「……だからあたし、つっきーに嫌われ」
「んなわけねぇだろ」
そう言ったのは、六花が来た瞬間に机に突っ伏した悠だった。ぼりぼりと髪を掻いて六花を睨んでいる。
「お、起きてたの悠?!」
六花は悠が寝ていると思っていたらしい。びくっと肩を震わせていた。
「寝てねぇし」
悠は唇を尖らせて今度は何故か私を睨む。頭を撫でなかったのがそんなにも不満だったのか。
「ごめんって」
一応耳元で謝るけれど、悠は「怒ってねぇよ」とそっぽを向いた。
「……ねぇ悠。そんなことはないってどういうこと? 本当に?」
六花は不安そうな瞳で悠に詰め寄る。なのに悠は面倒臭そうに六花を一瞥し、盛大に溜息を吐いた。
「なんで俺の言うこと疑うんだよ。つっきーはそんな奴じゃねぇだろ…………一応」
照れ隠しなのか最後の最後にそうつけ足した悠は、私に助けを求めるかのように視線を送った。
「そうだよ。つっきーはそんな人じゃない。それに、それは多分六花のせいじゃなくて……」
「美月」
瞬間、悠に腕を掴まれた。
「先に言っとくけど、お前は悪くねぇからな」
断言した悠は、六花に視線を戻して思い切り眉を顰める。
「つかお前なんなんだよ。つっきーに嫌われたってなんも問題ねぇだろ」
「悠!」
今度は私が悠の腕を掴んだ。互いが互いの腕を掴み合う奇妙な光景になっているのに、六花は何故か突っ込んでくれない。
「問題、大有りだよ」
それよりも大事な感情が六花の中にあるようだった。
「なんで」
「だってあたしは──」
六花は私に視線を移してから、息を吸い込んだ。
「──つっきーが好きだから」
ぴくっと悠の眉が上がった。私はあからさまに息を呑んで、六花を落ち込ませてしまう。
「ま、マジで?」
「だからヤなの! つっきーに嫌われたくない!」
ぶんぶんと首を横に振って、六花はぼろぼろと涙を流した。悠は腕の力を強くさせて六花の話を聞いていた。
「痛いよ悠」
「わ、悪い」
手を離した悠は小さく舌打ちをして足を組む。悠なりに何か思うことがあるのだろう。私も思わずにはいられない。
「だからあたし、つっきーの役に立ちたいんだ。けど、あんなことがあって……」
私は六花に救われていたのに、私は六花に悲しい顔をさせることしかできないのだろうか。私はなんて声をかけたらいいのかわからなくて、自分の無力さを思い知った。
「らしくねぇな、今日の天月は。なんでそんなにうじうじしてんだよ」
「らしくないのはわかってるよ。それくらいつっきーに嫌われたくないんだもん」
「じゃあそれを本人に言えばいーだろ」
「……は? っはぁ?! な、何言ってんのよ悠! そんなのできるわけ……」
「言わなきゃお前の気持ちなんて一生相手に伝わんねぇんだよ」
あの悠が相談に乗っているなんて珍しいと思ったけれど、その理由が今わかった。悠は、自分と六花を重ねて見ているんだろう。
悠が大真面目にその台詞を言ったことに気づいた六花は、真摯に受け止めていた。
「……そうだね。悠の言う通りだ。ありがと、なんか元気出たよ」
六花は立ち上がってスカートについたゴミを払う。
「あたし、つっきー待たせてるからもう行くね。美月もありがと! 行ってくる!」
軽く手を上げて、六花はすぐに駆けていった。足音が聞こえなくなる前に悠も立ち上がり、私の名前を呼ぶ。
「俺、ちょっと行ってくるわ」
「行くってどこに?」
「生徒会室」
「えっ? 今行っちゃ駄目でしょ!」
私は悠のシャツを掴んで、六花の後を追わせないようにする。そんな私をバカにするように一瞥した。
「入るわけねぇだろ。盗み聞きだ」
「最低!」
「しょうがねぇだろ」
私は反論しようとした。けれど、悠の表情が好奇心を一切含んでいないことに気づいて何も言えなくなってしまった。
しょうがねぇだろ。悠の台詞を繰り返して気づく。悠は多分、二人を気にかけているんだろう。
「なら、私も行く」
「お前は帰れよ」
「あの二人には上手くいってほしいから」
「そうじゃねぇと自分が困るから?」
「違う。六花が本気でつっきーのことが好きなら、応援したいって思う」
「冗談だ。マジで答えんなよ」
悠はシャツを掴んでいた私の手を握り締めて走り出した。時々出る悠なりの不器用な優しさが、私はやっぱり嬉しかった。
私は悠とつっきーに告白されて、悠を選んだ。その選択は間違いではないと──つっきーには悪いけれどそう思っている。
私は悠が好きだ。そして、六花もつっきーも好きだから、どうか、どうか、私のせいで傷つかないでほしい。
綺麗事だと笑われてもいい。人と人との繋がりは何よりも温かい、そんな小さな幸せを知った今だからこそ私はそう願っている。
*
美月は俺に手を引かれたまま黙ってついてきた。美月は美月で天月のことが心配なんだろう。
そんな天月の話は、俺に少なからずの衝撃を与えていた。あのつっきーが泣いていたことではない。まだ美月が好きだということに衝撃を受けたのだ。それくらい本気だったのだと知りたくなかった。
天月に勝ち目はないと思う。天月もそれを理解していたから一瞬だけ美月を見たのだろう。それでもつっきーが好きだと言った天月は、つっきーと同じくらい相手にかなり惚れているらしい。
足を止めると美月が背中にぶつかってきた。そうしたのは生徒会室が近づいていたからで、美月もそれがわかったのか文句の一つも言わない。忍び足でさらに近づくと、話し声が聞こえてきた。……つっきーと天月だ。
『さっきはごめん』
『なんで天月が謝るんだよ、悪いのは……』
『ううん。あたし、つっきーの気持ちを考えないで自分のことばっかり考えてたから』
美月が目を見開いた。確かに今の発言は驚きモンだ。
『だから、ごめんついでにもっと言いたいことを言わせて』
『…………もうなんでも言えばいいよ』
つっきーが呟いた瞬間、美月が慌てて俺のシャツを引っ張った。振り向くと、一年らしき女と目が合う。
女は限界まで目を見開いていて、ぱくぱくと魚みたいに口を開けたり閉めたりを繰り返していた。
「な、なんで悠く……」
「ッ?!」
察した美月が女の口を思い切り塞ぐ。そして何か耳打ちをして、女の背中を生徒会室とは逆方向に押していった。だが、女は途中で自主的に立ち去っており──何が起きたのか美月に確認する。
(あいつ誰。お前何言ったんだよ)
(生徒会の書記の子。サインあげるから帰ってって言っちゃったからサインよろしく)
(お前ふざけんなよ! サインも握手もしねーっていつも言ってるだろ!)
(仕方ないでしょ)
美月と小声で喧嘩をしながら、生徒会役員が来たら追い返すことに決める。役員の顔は美月が覚えているし、そうじゃない奴が来ても絶対に追い返す。
ここまでしてやってんだ。天月、進展するなりなんか奢るなりしろよな。
*
「…………もうなんでも言えばいいよ」
つっきーが諦めたようにそう言った。その言い方はまったく嬉しくなかったけれど、聞いてくれる許可をもらえたのは有難い。あたしは深呼吸をして、一番言いたい言葉を思い浮かべた。
つっきーが美月に恋をしていたことは、始業式の日から気づいていた。敵わないって思ったけれど、やっぱり自分の気持ちに嘘を吐くことはできない。
「──あたしは、つっきーが好き」
ねぇつっきー。あたしの気持ちに気づいて。そして、少しでも意識して。
「去年つっきーがたった一人で生徒会の仕事を頑張ってたの、あたしは知ってる。あたしね、生徒会って見えないところでこんなに頑張ってるんだなって思って感動したんだ」
一気に言ってつっきーの表情を伺う。つっきーはまばたき一つせずにあたしを見ていて、閉ざしていた口を開いた。
「……天月、サンキューな」
そのありがとうの本当の意味を知りたい。
つっきーはそんなあたしの気持ちに答えた。
「誰も見てないと思ってたけど、鈴宮先輩の言う通りだったな」
鈴宮先輩は前生徒会役員の一人だ。そして、女の人。話に出されるとちょっと妬いちゃう。
「見ててくれて、好きになってくれて……ありがとう」
けれどすぐに吹き飛んでしまう。つっきーの言葉が温かくて、あたしはまた涙を流していた。こんなに好きなのに報われないなんて辛い。辛すぎる。だけど。
「だからつっきーの役に立ちたいの。わかる?」
さっきから何度も言っている台詞だ。役に立ちたい、あたしの中にはもうそれだけしかない。
「天月、俺な、春日に告白したんだ」
その告白はあまりにも唐突だった。
何それ、あたしは聞いてないよ。聞いてないけど、つっきーが何を言いたいのか悟った。
「それでここで振られた」
美月はあたしの大事な親友だけど、あたしは初めて美月に怒った。怒ったはまだ優しい方だと思う。下手をしたら憎んでさえいたかもしれない。
「それを思い出してたら天月が入ってきてさ」
つっきーは言えなかったんだ。美月に振られたって、あたしに言いたくなかったんだ。
「ご、ごめん……」
「だから謝んなって」
つっきーは苦笑してあたしの方へと歩いてくる。そして優しく、あたしの涙を拭ってくれた。
「ありがとう」
何度も何度も言葉にしてくれた。
「俺、まだ天月の気持ちには答えられない」
「……うん。って、え?」
あたしは顔を上げてつっきーを見つめた。今、まだって言った? 期待してしまう言い方だったけれど、あたしは期待してもいいの?
「こんな俺だけど、これからもよろしく」
「ちょ、ちょっと! つっきー! なんなの?! そんなこと言われたらあたし、期待しちゃ……」
つっきーの指があたしの口を閉ざす。心臓がどくんどくんとうるさくて、また好きになっていく。
「俺も期待してる」
「……ッ?!」
つっきーの台詞の意味がわからないほど、あたしは鈍感ではなかった。
あたしはまだつっきーのことを好きでいていいんだ。希望が見える。報われるかもしれないと気持ちが弾む。だったらあたしは、弾ける笑顔でこう言おう。
「うん! 期待してて!」
つっきーの男の人らしい手を両手でとった。つっきーは光なんてどこにもないのに眩しそうに目を細めて、あたしのことをじっと見つめる。
片想いで終わってしまう恋ならたくさんある。けれどあたしは、片想いなんかでは終わらせない。
こんなに好きになる人はきっと後にも先にも現れないから、あたしは全力で恋をしよう。
「絶対に振り向かせるからっ!」
だから待っててね、つっきー。
──想い続ければいつかは報われる。
信じていれば真実になるなら。
あたしは全力で人を好きになろう。




