第九章 待つのをやめた日と、秋の日取り
ひと月が過ぎた。
ミレーヌとテオドールが西の庭園を歩いていたという話は、侍女たちの口伝えでエレノアの耳にも届いていた。青い花の前で長いこと立ち止まっていたとか、帰り道には決まって菓子屋へ寄って、紙袋を二つ提げて出てくるとか、そういう他愛のない話ばかりだった。エレノアはそれを聞くたび、机の紙の余白に、二人が会った回数の小さな点を、ひとつずつ足していた。
「殿下! 聞いてくださいませ!」
執務室の扉が勢いよく開いたのは、そんなある日の午後だった。取り次ぎの侍女が止める間もなかった。飛び込んできたミレーヌは、以前とは別人のように頬を紅潮させている。
「テオドール様から、正式にお申し込みをいただきました」
「まあ」
「あれから何度目かの、お菓子屋さんの帰り道でした。甘いのと、甘くないのと、紙袋を二つ提げたままで」
ミレーヌは、その時のことを思い出すように目を細めた。
「私、ずっと、分かってもらえるのを待っておりました。言えるようになってからは、今度は言うばかりで」
「そうだったわね」
「聞いてみたら、テオドール様にも、言えずにいたことがたくさんありましたの。お菓子のことだけではなくて」
言いながら、ミレーヌは自分の手を見下ろした。以前は胸の前で握りしめていた両手が、今日はゆるく開いている。
「言って、聞いて。両方しないと、だめなのですね」
「そうよ」
エレノアは、それ以上は言わずにうなずいた。こういうときは、本人が自分で言い終わるまで黙っているに限る。
「まだお返事はしておりません。でも、たぶん……お受けすると思います」
「たぶん?」
「……お受けします」
言い直したミレーヌに、エレノアは手を叩いて笑った。
◇
その数日後、エレノアは西の庭園を通りかかった。
用事があったのは温室のほうで、庭園は単なる近道だった。青い花の植え込みの向こうに見覚えのある二人組を見つけたのは、まったくの偶然である。
「殿下」
隣を歩いていたユリウスが、低く声をかけた。
「顔が、よくない顔になっております」
「いい顔よ。ちょっと見るだけ」
「覗きと申します」
「通りかかっただけでしょう」
言いながら、エレノアはしっかりと植え込みの陰に身を寄せた。ユリウスは天を仰いだが、結局、自分も同じ位置で足を止めた。
「この花、なんという名前でしょうか」
ミレーヌの声が届いてくる。
「存じません」
「お詳しいのかと思っておりました」
「花の名は、ひとつも覚えられないのです。書類の綴じ番号なら、何千でも覚えるのですが」
ミレーヌが笑うのが見えた。以前のように口元を隠す笑い方ではなく、はっきり声を出す笑い方だった。
「では、私が調べてまいります。次にいらしたときに、お教えします」
「お願いいたします」
たったそれだけのやり取りだった。エレノアは満足して、植え込みから身を離した。
「ね、いい感じでしょう」
「……そうですね」
ユリウスの返事は、いつもより素直だった。
◇
十日ほどのち、二人は揃ってエレノアの執務室を訪れた。
「殿下のお口添えのおかげで、婚約が調いました」
テオドールが深く頭を下げる。その隣で、ミレーヌも同じように頭を下げた。
「よかったわ。本当に。いつ結婚するの?」
「それなのですが……」
顔を上げたミレーヌが、一瞬言い淀んだ。エレノアは思わず身を乗り出す。
「婚礼の日取りは、仕事の忙しくない時期がありがたいです。財務部門は年明けがいちばん忙しいので、秋の終わりがよいと思っております」
迷いのない声だった。以前のミレーヌなら、自分の事情は最後まで飲み込んだはずだ。
「テオドール様のご都合は、いかがですか」
ミレーヌが隣を見上げる。テオドールは驚いた顔をして、それから笑った。
「秋の終わりなら、裁判所も落ち着いております。……聞いていただかなければ、私は自分の都合を言わずに、婚礼に人気と言われている春でと言っていたところでした」
「春は、裁判所がお忙しいのですか」
「いちばん忙しい季節です。危ないところでした」
二人が声を揃えて笑うのを、エレノアは椅子の背にもたれて眺めていた。扉の外では、ミレーヌの同僚らしき女官が二人、こっそり中を覗いては小突き合っている。
悪くない光景だった。
◇
二人が退出したあと、執務室には夕方の光だけが残った。
この日は、王妃付きの侍女アンナ・レイスの婚礼の日で、朝から礼拝堂の鐘が何度も鳴っていた。ミレーヌの同僚たちが浮き足立っていたのも、半分はそのせいだった。
「ミレーヌとテオドールで、これで二件目ね」
「おめでとうございます」
ユリウスが、祝いの言葉を実務連絡のような調子で口にする。エレノアは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「一件目は見合い相手を他の令嬢に取られて、二件目は無事にまとまって。私、他人の恋愛運のほうがよほど確かだわ」
「殿下の運が悪いわけではないと思いますが」
「じゃあ何なの」
「……縁というのは、順番が来なければ来ないものかと」
「ずいぶん年寄りみたいなことを言うのね」
ユリウスは答えず、書類の束を揃え直した。エレノアは、その手元を見るともなく見ていた。
「ミレーヌ、最初はあんなに怖がっていたのに。言葉にするだけで、あそこまで変わるものなのね」
「言葉とは、そういうものです」
「あなたもそう思う?」
「思います」
そこで、ユリウスは一度言葉を切った。何か続けようとして、やめたように見えた。
「どうしたの?」
「いえ。……殿下も、いつか同じことを思い出される日が来るだろうと」
「何の話?」
「何でもございません」
その答えは、いつもよりわずかに長い間のあとで返ってきた。エレノアは首をかしげたが、追及はしなかった。追及するだけの理由が、思いつかなかった。
「まあいいわ。ところで、次は誰かしら」
「案件は、まだ何も」
「そのうち来るわよ。こういうものって、不思議と続くの。ひとつ結ぶと、次の人が扉を叩くのよ」
「ずいぶん確信がおありですね」
「経験よ。侍女のときも、厨房の下働きのときもそうだったもの」
言った矢先、扉が控えめに叩かれた。取り次ぎの者が、物資管理局のバシュレ男爵から相談があると告げる。エレノアは、我が意を得たりという顔でユリウスを振り返った。
「ほら」
「……早いですね」
「でしょう?」
窓の外では、夕日が床に長い影を落としていた。書類をまとめながら、ユリウスはその光の中に立つエレノアを、いつもより少しだけ長く見ていた。見ていたことに気づかれないよう、彼が視線を落とすのも、いつもより少しだけ遅かった。
エレノアは、そのどちらにも気づかなかった。




