第十章 祝いの鐘と、初めての失恋
王妃付き侍女アンナ・レイスの婚礼の日、王宮の礼拝堂の鐘は、朝から何度も鳴った。
相手は近衛騎士だった。長く続いた交際で、王宮の誰もが知っていて、誰もが祝福していた。式には大勢が詰めかけ、廊下にまで人があふれた。
物資管理局のグレゴール・バシュレ男爵は、そのいちばん後ろにいた。男爵とは名ばかりで、親戚の推薦で入った、目立たない局員である。
壁際の柱の陰で、猫背をさらに丸めて立っている。式服だけは新調してきたのだが、肩幅が合っておらず、袖が長い。誰も彼を見ていなかった。
参列者たちは口々に、よい縁だ、長かったな、と言い合っていた。物資管理局の同僚たちも前のほうに固まって、身を乗り出して新婦を見ている。誰かが、次は誰の番だと笑い、別の誰かが名前を挙げて、笑い声がひとしきり広がった。その輪の中に、グレゴールの名は出てこなかった。出てこないことに、本人も驚かなかった。
鐘が三度目に鳴ったとき、グレゴールは礼拝堂を出た。祝いの列に並ぶことも、新婦に声をかけることもしなかった。
思い出すのは、ずいぶん前の廊下のことだ。抱えていた帳簿を全部ぶちまけて、床に這いつくばって拾っていたら、通りかかった侍女が一緒に拾ってくれた。笑わずに、当たり前の顔で。
それだけのことを、十年以上、何度も思い出してきた。
声をかける機会なら、いくらでもあった。すれ違うたびに、今日こそはと思った。そのたびに足がすくみ、結局は会釈だけで通り過ぎた。そうしているうちに、彼女の隣にはいつも同じ近衛騎士が立つようになっていた。
物資管理局の書庫に戻ると、埃の匂いがした。ここには誰も来ない。グレゴールは帳簿の山の前に座り込んで、しばらく立ち上がらなかった。
◇
「バシュレさん。ここにいたんですか」
書類の束を抱えたマルタ・フェルナーが、書庫の奥まで入ってきた。丸眼鏡の奥の目が、まっすぐこちらを見ている。
「探しましたよ。局長が呼んでました」
「……すぐ行く」
「顔色が悪いです。式に出たんでしょう」
グレゴールは答えなかった。答えなかったことが答えだと、マルタには分かったらしい。彼女は書類を棚に置き、その隣に自分も腰を下ろした。
「アンナ様のこと、長かったですものね」
「……何の話だ」
「隠さなくていいです。この部署で十年以上一緒にいて、気づかないほうが難しいですよ」
あっさりと言われて、グレゴールはかえって力が抜けた。誰にも言ったことのない話だった。言ったことがないのに、知られていた。
「情けない男だと思っているだろう」
「思いませんよ。十年も想い続けられるのは、それだけで大したものです」
「一度も話しかけられなかった男がか」
「話しかけられなくても、ずっと大事にしてたんでしょう。それを情けないと言うなら、世の中の大半が情けないです」
マルタは持っていた紙袋を開け、中の菓子をひとつ差し出した。市場で見つけたのだという、胡桃の入った焼き菓子だった。グレゴールは黙って受け取り、黙って食べた。甘すぎず、硬すぎず、悪くなかった。
「バシュレさん。王女殿下のところ、行ってみたらどうです」
「王女殿下?」
「恋のご相談を聞いてくださるそうですよ。財務のフォスターさんも、あれで婚約が決まったとか」
「俺なんかが行っても」
「行っても、じゃないです。行かないと始まりません」
マルタは自分の分の菓子を口に放り込みながら、平然と続けた。
「バシュレさんは、いつも先に諦めすぎなんですよ」
反論の言葉が、ひとつも出てこなかった。
◇
その日の夕方、取り次ぎに通されて王女の執務室に入ってきたグレゴールは、扉の前で三度、頭を下げ直した。
「あの、その、お忙しいところ……失礼いたします」
「どうぞ、男爵。座って」
「は、はい。失礼いたします」
椅子に腰かけてからも、視線は定まらず、両手は膝の上で組んだり離れたりを繰り返していた。エレノアは急かさず、机の上の紙を一枚引き寄せて、ただ待った。
「何があったの? ゆっくりでいいわ」
「……その、お慕いしていた方が、ご結婚なさいまして」
絞り出すような声だった。
「長い間お慕いしていたのですが。一度も、まともに声をおかけできませんでした」
「話しかけようとは、したの?」
「何度も。ですが、いざ近くに行くと頭が真っ白になりまして。気づけば、何も申し上げられないまま通り過ぎております」
卑屈さも、自嘲もない。ただ事実を並べる声だった。エレノアは紙に名を書きつけた。グレゴール・バシュレ。まだ何も分からないが、悪い人ではなさそうだと、直感が告げていた。
「その方の名前は?」
「アンナ・レイス様です」
「……あら」
王妃付きの、あの侍女だった。エレノアは扇を持つ指を止めたが、顔には出さなかった。
「祝いは贈ったの?」
「贈り物だけ、名を伏せて届けました。ご本人の前には、とても出られません」
「ずいぶん遠回りな祝い方ね」
「それが、精一杯でございました」
グレゴールは膝の上の手を強く握った。それが彼にできる唯一のけじめだったのだろう。
エレノアは、しばらく黙ってその手を見ていた。十年以上、誰にも言わずに抱えて、最後は名前も伏せて祝いを贈る。そういう人が、この王宮の片隅にいたのだ。
「ひとつ聞くわ。これから、どうしたいの?」
「どう、と申されますと」
「もう一度誰かを想いたいのか、それとも、このまま一人でいたいのか」
グレゴールは長いこと黙っていた。窓の外で、庭師が箒を使う音がしている。
「……分かりません。ただ、この歳になって、ようやく一度目の失恋をしたわけです。二度目が来るとも思えません」
「一度目、と自分で言うのね」
「はい」
「なら、二度目もあるわ」
あまりに軽く言われたので、グレゴールは思わず顔を上げた。エレノアは笑っていなかった。
「一度目があった人には、二度目があるものよ。一度もない人のほうが、よほど難しいの」
「……そういうものでしょうか」
「そういうものよ」
エレノアは紙をめくり、新しい一枚を出した。
「分かったわ。まずは、その方がどんな方だったか、聞かせて」
グレゴールは、驚いた顔をした。話を最後まで聞いてもらえると思っていなかった顔だった。
「……よろしいのですか」
「聞くために、ここにいるのよ」
窓の外から、遠くの鐘の音が届いた。婚礼の最後の鐘だった。グレゴールは一度だけそちらを見て、それから、ゆっくりと話し始めた。




