第十一章 話せない男と、話せる相手
「では、これから先のことを考えましょう。男爵は、どんな人が好みなの?」
執務室の窓は開け放してあった。風が紙をめくるので、エレノアは文鎮を載せながら尋ねた。
グレゴールは、長いこと黙り込んだ。
「……分かりません。好みも何も、女性と話すこと自体ができませんので」
「まったく?」
「はい。頭が真っ白になって、言葉が出てこなくなります」
迷いのない答えだった。長年、そう思い込んできたのだろう。エレノアは紙に「女性と話せない」と書きかけて、途中でペンを止めた。
「でも、さっきから」
「はい?」
「あなた、私とは普通に話しているわよ」
グレゴールは、はっと自分の口元を押さえた。言われてみればその通りだった。王女だから緊張しないわけではない。むしろ最初は震えていた。それが、いつの間にか収まっていた。
「それは、殿下が話しやすくしてくださるので」
「ほかには? 普通に話せる女性は」
グレゴールは、しばらく考え込んでから、ぽつりと言った。
「……同じ部署の、マルタさんとは」
「あら」
「ですが、それは仕事の相手ですので。女性として意識しておりませんから」
エレノアは、ペンを置いた。
「意識していない相手とは話せて、意識している相手とは話せない。それは話せないのではなくて、緊張しているだけ、ということではないの?」
グレゴールが、口を開けたまま固まった。
エレノアは紙に、マルタという名前を書き足した。頭の中で、図がかちりと形を変えた音がした。
「そのマルタという方は、どんな方?」
「世話好きで、現実的で……あ、食べることが好きな人です。よく、市場で見つけた珍しい菓子を分けてくれます」
「一緒にいて、楽しい?」
「楽しい……です。気を張らずにいられます」
言ってから、グレゴールは自分の言葉に驚いたような顔をした。そんなふうに考えたことが、一度もなかったのだろう。
「今の、もう一度言ってみて」
「……気を張らずに、いられます」
「よく覚えておいて。それ、大事なことよ」
◇
王宮物資管理局の執務室は、天井まで届く棚に帳簿が詰まっていた。その谷間で、マルタ・フェルナーは書類の山と格闘していた。
「殿下が直々に、でございますか。何事でしょう」
「バシュレ男爵のことで、少し聞きたいの」
「ああ、バシュレさんのことでしたら。殿下のところへ伺ってみてはと勧めたのは、私でございます。アンナ様のことでしょう」
驚くほどあっさりと核心が出てきた。マルタはエレノアに椅子を勧め、自分は立ったまま答えた。
「あなた、男爵とは普通に話せる?」
「話せます。同じ部署で十年以上になりますので。困ったときは助け合いますし、お昼をご一緒することもございます」
「怖がられたり、緊張されたりは?」
「まったくございません。むしろ、あの人にしては珍しく、よく話すほうかと」
「一緒にいて、疲れない?」
「疲れません。むしろ落ち着きます。取り繕わなくてよい相手、と申しますか」
マルタは、自分が何を言っているか気づいていない顔で、次々と答えていく。エレノアは頬杖をつきそうになって、こらえた。ここには止めてくれる侍女がいない。
「あなた自身は、結婚についてはどう考えているの?」
「興味はございます。ただ、子供は正直、あまり欲しいと思わないのです。家督は甥が継ぐ予定ですし、私は仕事と、自分の時間を手放したくなくて」
「まあ、はっきりしているのね」
「はっきりしていないと、この歳まで独りではいられません」
マルタは笑った。笑うと、目が細くなって、思いがけず可愛らしい顔になる。
「では、聞くわ。一生を一緒に過ごすなら、どういう人がいい?」
「そうですね……。豪華な食事より、市場の焼き菓子を一緒に食べられる人がよいです。老後、向かい合って黙っていても気まずくない人」
「その条件に当てはまる人、身近にいない?」
「おりませんねえ」
即答だった。
そこへ、当のグレゴールが帳簿を抱えて入ってきた。エレノアの姿を見て固まりかけたが、マルタが先に口を開いた。
「バシュレさん、その綴じ、番号が逆です」
「え。……あ、本当だ」
「昨日もやってましたよ。貸してください」
マルタは帳簿を受け取り、手早く紐を掛け直した。グレゴールはその手元を覗き込みながら、ごく自然に言った。
「すまない。目が滑るんだ、この書式は」
「私も最初は滑りました。慣れですよ」
二言三言、そんなやり取りが続いた。頭が真っ白になる気配も、言葉に詰まる気配もない。ただの同僚が、ただの仕事の話をしている。
エレノアは、扇で口元を隠した。そうしないと、顔に出そうだった。当人たちだけが気づいていない。こういう案件がいちばん時間がかかって、いちばん面白い。
◇
執務室に戻ると、ユリウスが新しい書類を運んできたところだった。
「面白いことが分かったの。男爵とマルタ、もう何年も普通に話せる仲だったのよ」
「それは、良い発見ですね」
「二人とも、それを恋の話だとは思っていないの。ただの同僚だと」
「近すぎる相手は、案外見えないものです」
ユリウスは、書類から目を上げずに答えた。エレノアは、その横顔を見て首をかしげる。
「あなた、今日はやけにしみじみ言うのね」
「そう聞こえましたか」
「ええ。まるで、心当たりがあるみたい」
「……気のせいかと」
いつもの答えだった。ユリウスは書類を揃え直し、扉のほうへ向かう。
「殿下。ひとつ申し上げてもよろしいですか」
「何?」
「そのお二人に気づかせるのは、たぶん簡単ではございません。長く同じ場所にいた者ほど、今の形を壊したがらないものですから」
「壊すんじゃないわ。形を変えるだけよ。今のままでも悪くはないけれど、二人とも、それでは老後まで同じ棚の前に立っているだけでしょう」
ユリウスは足を止め、少しだけ振り返った。何か言いかけて、結局、一礼だけして出ていった。
扉が閉まったあと、エレノアは紙を見下ろした。グレゴールとマルタの名前の間に、まだ線は引いていない。それは二人が自分で引くものだ。人の紙に、勝手に線を引いてはいけない。相談を受け始めた頃から、それだけは決めている。
そう決めているのに、ペン先が少しだけ迷った。




