第十二章 備品の値段と、仕事ではない誘い
マルタに話を聞いてから三日後、エレノアは物資管理局へ使いを出し、相談の続きとしてグレゴールを執務室に呼んだ。
グレゴールは扉の前で二度頭を下げ、椅子の端に浅く腰かけた。
「あれから、マルタとは話した?」
「はい。毎日、棚の前で」
「何の話を?」
「……帳簿の話です」
「仕事の話ね」
「仕事の話です」
エレノアはうなずいて、紙を一枚引き寄せた。
「男爵。マルタを一度だけでいいから、仕事の外で誘ってみて」
グレゴールの顔から、すっと血の気が引いた。
「そんな、急に……何と申し上げれば」
「難しく考えなくていいの。帰り道に、少し市場へ寄りませんか。それだけで十分よ」
「帰り道は、その……局の者が皆、同じ門から帰りますので」
「見られるのが困るのね」
「……はい」
「なら、お休みの日でもいいわ。大袈裟に誘うと、あなたも相手も身構えるでしょう。いつも通りの延長でいいの」
「もし、断られたら」
「そのときは、また次を考えればいいだけよ。今のままだと、始まりもしないでしょう」
グレゴールは何度も深呼吸を繰り返し、ようやく小さくうなずいた。
「やってみます」
「その意気よ」
猫背の背中が扉の向こうへ消えると、エレノアは椅子から腰を浮かせた。
「ユリウス。私、ついて行ってはだめかしら」
「どちらへでございますか」
「市場よ。遠くから、様子を見るだけ」
「市場は、王宮の外でございます」
窓際で書類を仕分けていたユリウスは、顔も上げずに答えた。
「西の庭園のときみたいに、植え込みの陰からでいいの」
「あれは王宮の中でございましたし、植え込みもございました。それでも、覗きと申し上げたはずです」
「……馬車の窓からなら」
「王家の紋章の入った馬車が市場の角に停まっておりましたら、男爵はその場で固まって、二度と市場へは参りません」
エレノアは、浮かせた腰を椅子に戻した。
王宮の門の外で起きることは、いつも、あとから人の口で聞くしかなかった。
◇
その日の夕方、物資管理局の棚の前で、グレゴールは帳簿を一冊、戻せずにいた。
「マルタさん」
「はい?」
隣で綴じ紐を掛けていたマルタが、顔を上げた。丸眼鏡に、窓の夕日が映っている。
「今度の休みに、市場の……」
そこで、声が止まった。仕事の外で。いつも通りの延長で。王女の言葉が、喉の奥で絡まった。
「……様子を、見に行かないか」
「ああ、値段調べですね」
マルタは、ぽんと手を打った。
「局長が、冬の支度の前に相場を見ておけと言ってましたもんね」
「いや、その」
「いいですよ。帳簿、持っていきます」
グレゴールは口を開けて、閉じた。手の中の帳簿を棚に差し込み、また抜いて、別の段に差し込んだ。去年の分の段だった。
◇
四日後の休みの朝、市場の入口に現れたマルタは、帳簿を二冊抱えていた。脇には、ペンと、布でくるんだインク瓶。
「おはようございます。蝋燭の屋台から回りましょうか」
「……ああ」
グレゴールは、手ぶらだった。空いた両手を、どこへやればいいのか分からなかった。
蝋燭の屋台の前で、マルタはインク瓶の蓋を開けた。
「蜜蝋が一本で銅貨六枚。獣脂のほうは三枚。……どちらも、去年より一枚ずつ上がってますね」
「マルタさん。今日のは、その」
「はい」
「……蝋燭は、もっと早くに買っておくべきだったな」
「本当に。来年は、局長に言っておきましょう」
ペンが、帳簿の上を走る。薪の束。毛布の布地。封蝋。マルタは屋台を一軒ずつ回って値札を読み、店主に尋ね、書き留めていった。
封蝋の屋台で、グレゴールはもう一度口を開いた。
「本当は、その」
「はい?」
「……封蝋は、赤より茶のほうが安いんだな」
「茶のほうが、局ではよく使いますから」
言いかけた言葉は、そのたびに値段の話にすり替わった。
昼を過ぎたころ、どこかで鉄板が鳴った。
じゅう。
甘い匂いが流れてくる。屋台の鉄板の上に、胡桃の入った焼き菓子が並んでいた。書庫でマルタが分けてくれた、あの菓子だった。
マルタのペンが、すらすらと動いた。胡桃の焼き菓子、ひとつ銅貨二枚。
書き終えてから、マルタは自分の字をじっと見た。
「……これは、備品じゃないですね」
ペン先で、横に一本、線を引く。グレゴールは笑いかけて、あわてて咳払いに変えた。
「買わないのか」
「今日は、仕事ですから」
マルタは帳簿を閉じて、次の屋台へ歩き出した。グレゴールは、鉄板の上の菓子を、二度振り返った。
日が傾くころには、二冊目の帳簿も半分まで埋まっていた。
市場の外れの角で、二人は足を止めた。マルタの下宿は北の通りに、グレゴールの官舎は東の通りにある。
帰りかけたマルタが、ふと振り返った。
「でも、バシュレさん。どうして休みの日にしたんです? 局の仕事なら、勤務の日でよかったのに」
グレゴールは、答えを探した。どの値札にも、書いていなかった。
「……なんとなく、だ」
「なんとなく、ですか」
マルタは少し首をかしげた。それから帳簿を胸に抱え直して、北の通りへ帰っていった。
◇
翌日の昼、グレゴールは自分から執務室を訪ねてきた。扉の前で頭を下げる回数が、初めて来た日と同じ三度に戻っていた。
「座って。市場へは、行けたの?」
「はい。昨日、一日」
「一日も。疲れたでしょう」
「いえ。……はい、少し」
「何があったの?」
グレゴールは、市場での一日を順に話した。蝋燭、薪、毛布の布地、封蝋。値段まで、ひとつ残らず覚えていた。胡桃の焼き菓子の値段まで出てきたところで、エレノアはペンを置いた。
「待って。あなた、何と言って誘ったの? 言った通りに言ってみて」
「……今度の休みに、市場の様子を、見に行かないか、と」
「様子を」
「様子を、です」
窓際で、ユリウスが書類から目を上げた。
「物資管理局の者が『市場の様子を見に』と申せば、値段調べでございます」
「……はい。そのように、受け取られました」
エレノアは、額に指を当てた。
「いつも通りの延長で、とは言ったけれど」
グレゴールが、膝の上で両手を握る。
「仕事の延長、とは言っていないわ」
「……申し訳ございません」
「謝らなくていいの。聞かせて、男爵。本当は、どうしたかったの?」
グレゴールは、長いこと黙っていた。窓の外で、枯れ葉が石畳を転がっていく音がした。
「……値段は、どうでもよかったのです」
「ええ」
「朝、マルタさんが帳簿を二冊抱えて来たのを見て、それで……」
声が途切れた。エレノアは、急かさずに待った。
「……帳簿を持たずに、歩きたかったのです。一度でいいから」
言ってしまってから、グレゴールは耳まで赤くなった。
「それなら、用件のない誘いだと、先に言いなさい。仕事ではない、と。それだけでいいわ」
「今さら、でしょうか。一度、値段調べにしてしまいましたのに」
グレゴールは、うつむいたまま続けた。
「それに、別れ際に、マルタさんに聞かれました。どうして休みの日にしたのか、局の仕事なら勤務の日でよかったのに、と」
「何と答えたの?」
「……なんとなく、と」
「でも、マルタは不思議に思ったのね」
エレノアは、少し身を乗り出した。
「ただの値段調べだと思っていたら、休みの日かどうかなんて、気にしないものよ。不思議に思ったのなら、脈がないわけではないわ」
グレゴールは、膝の上の手を見下ろした。何か言いかけて、やめて、また見下ろした。
「……少し、考えさせてください」
「ええ。急がなくていいわ」
グレゴールは立ち上がり、扉の前で頭を下げた。来たときより、一度少なかった。
扉が閉まると、エレノアは椅子の背にもたれた。
「ねえ、ユリウス。あなたなら、どう誘う?」
「私は、用件のない誘いをしたことがございません」
「一度も?」
「用件なら、いつもございましたので」
ユリウスは、手元の書類の端を揃えた。今朝、頼まれてもいないのに運んできた書類だった。昨日の朝も、その前の朝も、そうだった。
本当に、仕事熱心な人だわ。
エレノアは感心して、紙に目を戻した。




