第十三章 市場の寄り道と、二人の老後
執務室から戻って二日のあいだ、グレゴールは棚の前で何度も、口を開きかけてはやめた。
三日目の夕方、帳簿を戻す手を止めて、ようやく声が出た。
「マルタさん。今度の休み、市場に行かないか」
「また値段調べですか?」
マルタは、綴じ紐を掛ける手を止めずに聞き返した。
「違う。……仕事じゃない。帳簿は、要らない」
綴じ紐が、途中で止まった。マルタは顔を上げ、丸眼鏡の奥で二度まばたきをした。
「……ああ。それで、この前も休みの日だったんですね」
グレゴールは、返事の代わりに、手の中の帳簿を棚に押し込んだ。押し込んだ拍子に、隣の一冊が落ちた。
ばさり。
二人でしゃがんで、拾った。先に立ち上がったのは、マルタだった。
「いいですね。ちょうど、新しい菓子が出たと聞いたところです」
拍子抜けするほど、あっさりとした返事だった。
◇
次の休みの昼過ぎ、市場の入口に現れたマルタは、何も抱えていなかった。帳簿も、ペンも、インク瓶も。
二人は新しい菓子を探して屋台を覗いて歩いたが、結局手に取ったのは、胡桃の入った焼き菓子だった。ひとつ買って、その場で半分ずつ食べた。今度は、どちらも値段を書き留めなかった。
特別な会話はなかった。仕事の愚痴。局長の口癖。明日の天気。いつもと変わらないやり取りが、場所を変えて続いただけだった。
「帳簿を持たずに歩くのは、初めてですね」
「……そうだな」
「悪くないです」
マルタがそう言って笑うと、グレゴールは何も言えなくなった。ただ、頭が真っ白になるあの感じとは、明らかに違っていた。
夕方、二人はこの前と同じ、市場の外れの角で別れた。マルタは北の下宿へ、グレゴールは東の官舎へ。角を曲がるまで、グレゴールはずっと考えていた。
今日、自分は一度も言葉に詰まらなかった。逃げ出したくもならなかった。ただ、隣を歩くのが心地よかっただけだ。
それが何を意味するのか、答えが出るまでには、もう少し時間がかかった。
◇
それから、二人は休みのたびに顔を合わせるようになった。
川沿いを歩く。安い食堂で昼をとる。帰りに市場へ寄る。何も特別なことはしていないのに、その時間が、いつの間にか互いにとって当たり前のものになっていた。
ある日の散歩の途中、二人は橋の欄干にもたれて、水かさの減った冬の川を見下ろしていた。吐く息が、白かった。
グレゴールが、ぽつりと言った。
「俺は、子供を持つのに向いていないと思う」
「そうですか?」
「自信がないんだ。自分ひとりの始末もつけられない男が、人を育てられるとは思えない」
マルタは、少し考えてから答えた。
「私も、正直あまり興味がないです。家督は甥が継ぎますし、今の仕事も手放したくないので」
「……そうか」
「ただ」
マルタは、川面を見たまま続けた。
「老後、一人でいるより、二人でいるほうが楽しそうだとは思います」
グレゴールは、欄干を握った。
「……俺も、同じことを考えていた」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。劇的な出来事も、燃え上がるような告白もなかった。ただ、同じ景色を見て、同じことを思っていたと分かっただけだった。
「マルタさん。私と、所帯を持っていただけませんか」
思わず、改まった言葉になっていた。声も震えていた。だが、今度は頭が真っ白にはならなかった。
「はい。よろしくお願いします」
あっさりとした返事だった。長いあいだ、誰にも想いを口にできなかった男が受け取るには、あまりに簡単な答えだった。それでも、グレゴールにとっては、生涯でいちばん長く待った言葉だった。
◇
婚礼は、アンナと同じ礼拝堂で行われた。
ただし、参列者は物資管理局の同僚が中心で、あの日の半分にも満たなかった。飾りも控えめで、鐘は一度きりだった。マルタは実用的な仕立ての式服を選び、グレゴールは、今度は肩幅の合った上着を着ていた。
式のあと、廊下でグレゴールを呼び止めた者がいた。
「バシュレ様。おめでとうございます」
アンナ・レイスだった。夫の近衛騎士と並んで、ひとつ会釈をする。グレゴールは一瞬固まり、それから、きちんと頭を下げた。
「……ありがとうございます。レイス様も、その節は、おめでとうございました」
「まあ。お祝いをいただいたのに、お名前がありませんでしたのよ。物資管理局の綴じ紐で結んであるお祝いは、あれきりでしたけれど」
「手違いです」
「そうですか」
アンナは笑って、それ以上は聞かなかった。グレゴールの声は震えていなかった。頭も真っ白にならなかった。
妻になったばかりの人が、少し離れたところで同僚に囲まれて笑っている。その笑い声のほうへ、グレゴールは戻っていった。
◇
婚姻の知らせが届いたとき、エレノアは報告書を二度読み返してから、そっと閉じた。
「これで三件目ね。二人とも、子供は望まないんですって」
「それも、二人で決めたことなら」
ユリウスが、静かに答える。
「良いことだと思います」
「地味な恋だったわ。市場に寄って、川沿いを歩いて」
「地味でも、本人たちが心地よいなら、それが一番でしょう。派手な縁ほど長く続くわけでもありません」
「あなた、そういうところは現実的よね」
「内務官ですので」
エレノアは窓辺に立ち、暮れかけた庭を眺めた。派手なものは何ひとつなかった。ただ、隣を歩くのが心地よい。それだけで人は一生を決められるのだと、今日初めて知った気がした。
仕事の合間に交わす短い言葉。頼む前に揃っている書類。振り返れば必ずそこにある、半歩後ろの足音。
そういうものが、誰かにとっては幸福の形になるのかもしれない。
「殿下。そろそろ、夕餉のお時間です」
「……今、いいところだったのに」
「何がでしょう」
「分からないわ。何か、思い出しそうだったのだけれど」
「思い出されたら、お聞かせください」
「そうね。思い出したら、いちばんに言うわ」
ユリウスは何も言わず、扉を開けて待っていた。エレノアはその横を通り過ぎ、思い出しそうだった何かを、そのまま置いてきてしまった。
◇
その日の夕餉の席で、国王アルベルトが杯を置いた。
「物資管理局の男爵が、所帯を持ったそうだな。今日、届けが回ってきた」
「はい、父上。これで三件目です」
「三件か。それで、お前自身の縁談はどうなった?」
「……今夜は、男爵たちのお祝いのお話をしているのです」
エレノアが澄まして答えると、アルベルトは額を押さえた。向かいの席で、兄のレオナルトが、魚を切り分けながら思い出したように言った。
「そういえば、ヴァイスにも縁談が来ているそうだ」
「ユリウスに?」
「今日、ヴァイス伯爵が嬉しそうに話していた。次男に、いい話が来たと」
エレノアは、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ。それなら、私がお世話しなくちゃ」
「……お前が、か」
「ええ。いつも助けてもらっているのですもの。今度は、私の番です」
レオナルトは、ナイフを持ったまま妹の顔を見た。それから、なぜか、ひどく気の毒そうな顔をした。
「お兄様。どうして、そんなお顔をなさるのですか」
「いや。ヴァイスも苦労するな、と思っただけだ」
「苦労なんて、させません」
王妃マリアンヌは何も言わなかった。張り切る娘の横顔と、気の毒そうな息子の顔とを静かに見比べて、それから、そっと杯を口へ運んだ。




