第十四章 内務官の縁談と、張り切る王女
翌朝、エレノアはいつもより早く執務室に入った。
机の上には、まだ何も載っていなかった。いつもなら、扉を開けたときにはもう、その日に目を通すべき書類が、読む順に揃えて置いてある。書類より先に自分が机に着くのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
エレノアは引き出しから新しい紙を一枚出して、いちばん上に名前を書いた。ユリウス・ヴァイス。
恋の相談の紙に、この名前を書くのは初めてだった。毎日顔を合わせて、毎日書類を受け取っている人の名前なのに、こうして紙の上に置くと、どこか見慣れない字に見えた。
ほどなくして、書類を抱えたユリウスが入ってきた。机の向こうに座っている王女を見て、足がわずかに止まった。
「……お早うございます。今朝は、お早いですね」
「待っていたのよ」
「何か、急ぎのご用でも」
「ユリウス。あなた、縁談が来たそうね」
書類を置きかけた手が、止まった。
「……どなたから、お聞きになりましたか」
「お兄様よ。昨夜の夕餉で。ヴァイス伯爵が、嬉しそうに話していたって」
ユリウスは書類を机に置き、角を揃えた。一度揃えて、もう一度揃えた。
「父が、先走りまして」
「先走り? 来ているのは、本当なのでしょう」
「……本当でございます」
「お相手は?」
エレノアは、もうペンを構えていた。
「ハーヴェイ子爵家の、リディア嬢と伺っております」
紙の上に、名前がもうひとつ増えた。リディア・ハーヴェイ。
「どんな方?」
「存じません」
「知らないの?」
「まだ、お会いしておりませんので」
「会っていなくても、あなたなら調べてあるでしょう。侯爵殿のときは、私が聞く前に全部揃っていたわ」
「……調べておりません」
エレノアのペンが止まった。この人の口から、その言葉を聞くのは初めてだった。
「どうして?」
「調べる気に、なれませんでしたので」
ユリウスは、それだけ言って目を伏せた。エレノアは、しばらくその顔を眺めてから、ふっと笑った。
「照れているのね」
「そういうわけでは」
「いいのよ。自分のこととなると、誰だって勝手が違うもの」
ユリウスは何か言い返しかけて、やめた。代わりに、事務的な声で続けた。
「先方から、父のところへお話がございました。父はもう、お会いするとお返事をしてしまいまして」
「なら、会うのは決まりね」
「……そうなります」
エレノアは、ペンを置いた。昨夜、夕餉の席で思いついてから、ひと晩かけて温めてきた言葉だった。
「決めたわ。この縁談、私が世話役をするわ」
ユリウスの手が、書類の角の上で止まった。
「……殿下が、でございますか」
「ええ。私の腕、知っているでしょう」
エレノアは、指を折って数えてみせた。
「ヴァレンティ侯爵とクララ嬢。ミレーヌとテオドール。バシュレ男爵とマルタ。三件よ」
「存じております。一件目は、殿下ご自身のお見合いでございましたが」
「結果的には、いい縁になったでしょう」
「結果的には」
父上にも、同じところを繰り返された気がする。エレノアは、聞こえなかったことにした。
「いつも助けてもらっているのだもの。今度は、私の番よ」
「……殿下のお手を、煩わせるわけにはまいりません」
「煩わせてちょうだい。私は毎日、あなたを煩わせているのだから」
「それは、よく存じております」
「でしょう?」
ユリウスは、長いこと黙っていた。口を開きかけて、閉じた。机の上の紙に目を落とす。いちばん上に自分の名前があり、その下に、まだ顔も知らない令嬢の名前が並んでいた。
「……お断りする言葉が、見つかりません」
「見つからないなら、決まりね」
エレノアは、満足してペンを取り直した。ユリウスが、小さく息を吐いた。溜め息と呼ぶには、ずいぶん長い息だった。
「顔合わせは、いつ?」
「父の話では、先方は年が明けてからを望んでおられると」
「どこで?」
「通例でしたら、どちらかの屋敷で」
エレノアは、眉を寄せた。
「それでは、私が行けないわ」
「さようでございますね」
ユリウスの声が、ほんの少しだけ軽くなった。
「なら、王宮の応接室にしましょう。南の応接室なら広いし、冬でも日がよく入るわ」
「……先方を、王宮へお呼びになるのですか」
「王女が世話役をする顔合わせよ。王女の客として招けば、どちらの家の顔も立つでしょう」
「子爵家は、お断りになれませんね」
「断る理由なんて、ないでしょう」
「断れない、と申し上げております」
「同じことよ」
「年明けは、殿下の謁見が立て込んでおりますが」
「なら、空いている日を探して。あなたの得意なことでしょう」
「……はい」
ユリウスは、観念したように答えた。エレノアは、紙の端に書きつけた。年明け。南の応接室。招待状は王宮から。
「ヴァイス伯爵には、私から手紙を書くわ。世話役を務めます、って」
「父が、泣いて喜びます」
「よかったじゃない」
「……はい」
ユリウスは書類の束から一枚を抜いて、机に置いた。今日の謁見の予定表だった。いつもと同じ筆跡で、いつもと同じ順に並んでいる。それから一礼して、扉へ向かった。
扉の前で、彼は眼鏡の眉間を指で押した。疲れているときの癖だ。
まだ朝なのに、とエレノアは思った。縁談というのは、当人をずいぶん疲れさせるものらしい。紙の端に、小さく書き足しておく。ユリウス、縁談の話になると疲れる。
◇
その日の午後、回廊で兄のレオナルトとすれ違った。
「聞いたぞ。ヴァイスの世話役を買って出たそうだな」
「ええ、お兄様。今朝、決めました」
「ヴァイスは、何と」
「お断りする言葉が見つからない、と」
レオナルトは、片手で顔を覆った。指の隙間から、長い息が漏れた。
「……そうか。見つからなかったか」
「また、そのお顔をなさるのですね」
「いや。ヴァイスは、本当に苦労するな、と思っただけだ」
「苦労なんて、させません。昨夜も、そう申し上げました」
兄はもう一度だけ長い息を吐いて、何も言わずに歩いていった。
その夕方、エレノアはヴァイス伯爵に宛てて手紙を書いた。世話役を務めること。顔合わせは年明けに、王宮の南の応接室で開くこと。ハーヴェイ家には、王宮から招待状を出すこと。用件だけを、なるべく丁寧な字で並べた。
封をしてから、朝の紙をもう一度広げた。
いちばん上に、ユリウス・ヴァイス。その下に、リディア・ハーヴェイ。二つの名前のあいだは、まだ空いている。
どんな方かしら、とエレノアは考えた。内務官の妻になる人なら、書類の山を嫌がらない人がいい。あの皮肉に、笑って言い返せる人ならもっといい。頼む前に書類を揃えてくるような人の、隣に立つのだから。
ペン先を名前のあいだに置きかけて、やめた。線は、本人たちが引くものだ。人の紙に、勝手に線を引いてはいけない。
代わりに、余白に大きく書いた。
四件目。
少し考えてから、その横に丸をつけた。まだ顔合わせの日取りも決まっていない縁談の、ずいぶん気の早い丸だった。




