第十五章 子爵令嬢リディアと、部屋の隅の視線
年が明けて十日ほどたった日の昼過ぎ、エレノアは南の応接室の椅子の位置を、三度直させた。
向かい合う二脚の長椅子には、窓からの光が、両方の顔に同じだけ当たるように。茶の卓は、どちらからも手を伸ばせば届くところに。それから、窓際の隅に、小さな書き物机をひとつ運ばせた。南の応接室は中庭に面していて、窓の外には、中庭をぐるりとめぐる回廊が見える。
「殿下は、そちらに」
早めに顔を出したユリウスが、書き物机を見て言った。
「世話役は、口を出しすぎないものよ。私はここで書き物をしているだけ。話すのは、あなたたち二人」
「いつもは、真ん中で身を乗り出していらっしゃいますが」
「今日は違うの」
ヴァイス伯爵からは、年の暮れのうちに返事が届いていた。恐縮と感激が入り混じった長い手紙で、自分は年明けから領地に戻るので顔合わせには出られないが、どうか次男をよろしく頼む、と結ばれていた。ハーヴェイ子爵家からも、王宮の封蝋のついた招待状に、謹んでお受けするとの返事が来ていた。断れない、とユリウスは言ったけれど、その文面は、ずいぶん嬉しそうだった。
約束の刻限に、侍女がハーヴェイ家の母娘を案内してきた。
リディア・ハーヴェイは、亜麻色の髪をきっちりと編み上げた令嬢だった。飾りの少ない若草色のドレスに、よく動く薄茶の瞳。部屋に入って礼をとるまでのあいだに、その目は窓と、茶の卓と、長椅子と、窓際の書き物机とを、順に見ていった。
付き添いの子爵夫人は、ふくよかで、にこやかな人だった。娘の半歩後ろで、同じように深く頭を下げた。
「王女殿下に世話役をお務めいただけるなんて、身に余ることでございます」
「楽にしてちょうだい、夫人。今日の主役は、私ではないわ」
「殿下は、そちらで何をなさいますの?」
リディアの目が、書き物机の上の紙で止まった。
「書き物よ。気にしないで」
「書き物、でございますか」
「ええ、書き物」
リディアは、それ以上は聞かなかった。口元だけで、少し笑った。
侍女が茶を注いで下がると、応接室には四人が残った。長椅子に向かい合うユリウスとリディア、娘の隣に控える子爵夫人、そして窓を背にした書き物机のエレノアだった。
最初に口を開いたのは、リディアだった。
「ヴァイス様。はっきり伺ってもよろしいかしら」
「どうぞ」
「このお話、ヴァイス様ご自身は、乗り気でいらっしゃいますの?」
かちり。
子爵夫人の茶器が、受け皿の上で鳴った。エレノアのペンも、紙の上で止まった。
「……父は、たいへん乗り気でございます」
「お父様のことではなくて」
「正直に申し上げて、まだ分かりかねます。リディア嬢とは、今日初めてお会いいたしましたので」
リディアは、少し目を丸くした。それから、今度ははっきりと笑った。
「正直な方ですのね」
「リディア」
子爵夫人が、小声でたしなめた。
「いつも、口が過ぎると叱られますの。でも、分からないことを分かったふりをされるより、ずっとようございますわ」
エレノアは、紙に書きつけた。ユリウス、ごまかさない。リディア嬢、はっきり聞く。二人とも、遠回しが嫌い。
悪くない。出だしとしては、かなり悪くない。
話は、それからしばらく穏やかに進んだ。リディアはよく尋ね、ユリウスは短く、正確に答えた。子爵家の領地の冬の話。王都に新しくできた書店の話。リディアは茶菓子にも遠慮なく手を伸ばして、皿の焼き菓子をきれいに平らげた。
「内務省では、どのようなお仕事を?」
「王族の方々の公務の実務を、お預かりしております」
「王族の方々、と申しますと」
「……主に、王女殿下の」
そう答えたとき、ユリウスの目が、ほんの一瞬、窓際の隅へ動いた。
リディアの目が、それを追った。
エレノアは、ちょうど顔を上げたところだった。ユリウスと目が合う。何か困っているのかしら。エレノアはペンの先で、宙に小さく円を描いてみせた。続けて、という合図だった。
ユリウスは、すぐにリディアへ目を戻した。エレノアは、紙の端に縦線を一本引いた。
「殿下のお仕事は、お忙しいのでしょうね」
「忙しゅうございます。思いついたことは今日中に、と仰る方ですので」
「聞こえているわよ」
窓際から声が飛んだ。子爵夫人が噴き出しかけて、あわてて扇で口を覆った。リディアは、遠慮なく声を立てて笑った。
「失礼いたしました」
ユリウスは頭を下げたが、ちっとも失礼だと思っていない顔だった。
エレノアは、紙に書き足した。リディア嬢、よく笑う。遠慮しない。
そのあいだ、リディアは、ユリウスの横顔をしばらく見ていた。それから窓際を見て、もう一度ユリウスを見た。
さっきから、リディア嬢がこちらを見るわね。エレノアは、そっと紙を裏返した。世話役が何を書いているのか、気になるのだろう。
縦線は、そのあいだにも増えていった。三本。四本。五本。
四半刻ほど過ぎたころ、エレノアはとうとう我慢ができなくなった。
「リディア嬢。ひとつ、聞いてもいい?」
「殿下、そのような……」
子爵夫人が腰を浮かせかけたが、リディアは母の膝に軽く手を置いた。
「構いませんわ、お母様。何でございましょう、殿下」
「あなたは、どんな方と添いたいの?」
リディアは、迷わなかった。
「裏表のない方ですわ。それから、言うべきことを、言うべきときに仰る方」
「言うべきときに」
「ええ。後になってから、実はあのとき、と打ち明けられるのが、いちばん嫌いですの。そのときに言ってくだされば、どうにでもできましたのに、と思ってしまいますから」
「分かるわ」
エレノアは深くうなずいて、紙を表に返し、大きく書いた。裏表のない人。言うべきことを、言うべきときに言う人。その下に、線を二本引いた。
「ユリウス。あなた、裏表はないわよね」
「……ないように、努めております」
「言うべきことも、言うべきときに言う人よ。扇は動かさずに持て、とか。それは覗きです、とか」
「それは、言うべきことですの?」
リディアが首をかしげ、子爵夫人が、また扇の陰で肩を震わせた。
ユリウスは、何も答えなかった。答える代わりに、また窓際を見た。
リディアの目が、また、それを追った。
◇
顔合わせは、一刻ほどで終わった。
ユリウスが母娘を車寄せまで送っていき、戻ってきたときには、エレノアは紙を三枚、書き終えていた。
「悪くないわ。いいえ、かなりいいわ」
「……さようでございますか」
「リディア嬢、よく見る人ね。あなたが何か言うたびに、あなたの目を見ていたもの」
「……そのようでございました」
「それに、あなた」
エレノアは、紙の端を指で叩いた。小さな縦線が、七本並んでいる。
「七回も、私のほうを見たわね」
ユリウスの足が、止まった。
「……数えていらしたのですか」
「数えるのは得意なの。世話役がちゃんと見ているか、心配だったんでしょう。大丈夫よ。一度も目を離さなかったから」
ユリウスは答えなかった。黙って、眼鏡の眉間を指で押した。疲れているときの癖だ。初めての顔合わせで、よほど気を張ったのだろう。
「二度目の段取りは、私が考えておくわ。あなたは、楽にしていていいから」
「……殿下」
「何?」
「……本日は、ありがとうございました」
ユリウスは一礼して、茶器を下げに来た侍女と入れ違いに出ていった。
エレノアは、三枚の紙を机に並べた。いちばん下に、二本の線を引いた一行がある。言うべきことを、言うべきときに言う人。
その横に、小さく書き足した。ユリウス、当てはまる。
書いてから、満足してペンを置いた。背中の窓から差していた冬の日は、もう、紙の端まで届かなくなっていた。




