第十六章 心に決めた方と、胸の小さな棘
顔合わせから三日後の朝、エレノアは、二度目の顔合わせの段取りを紙に書き出していた。
日取りは、ひと月のうちに。場所は、また南の応接室。茶菓子は、焼き菓子を多めに。リディア嬢は、皿の上をきれいに平らげていた。話は、書店の話の続きから入る。それから――
「殿下」
顔を上げると、ユリウスが机の前に立っていた。書類を抱えていない。この人が手ぶらで執務室に入ってくるのを、エレノアは初めて見た気がした。
「お早う、ユリウス。ちょうどよかったわ。二度目の――」
「ハーヴェイ家とのお話は、お断りしようと存じます」
ペン先が、紙の上で止まった。
「……え?」
「本日は、そのことを申し上げに参りました」
「どうして? 相性は悪くなかったわ。ちゃんと書いたもの。見る?」
エレノアは、三日前の紙を差し出しかけた。ユリウスは、受け取らなかった。
「拝見しなくとも、存じております。リディア嬢に、何の不足もございません」
「じゃあ、何が足りないの」
「足りないのではございません」
ユリウスは、一度だけ息を吸った。
「心に決めた方がおります」
ペンが、指から滑った。
かたん。
机の上で一度跳ねて、段取りの紙の端に、黒い点をひとつ落とした。
いつもなら、ここで身を乗り出すところだった。誰かが誰かを想っていると聞いて、身を乗り出さなかったことは一度もない。それなのに、背中は椅子の背についたままだった。
「……どなた?」
自分の声が、思ったより小さかった。
「申し上げられません」
「私にも?」
「殿下には、なおさら」
エレノアは、目を瞬いた。それから、ああ、と思い当たった。
「世話役の私に言ったら、その日のうちに縁結びを始めると思っているのね」
「その日のうちに、お始めになるでしょう」
「当たり前よ。三件も結んだのよ」
「ですから、申し上げられません」
理屈は、通っていた。通っているのに、どこか飲み込めなかった。
「でも、言わなければ伝わらないわ。あなたも、そう言ったでしょう」
「申しました」
「その方には、言ったの?」
「……いいえ」
「どうして」
ユリウスは、すぐには答えなかった。窓の外で、雪を載せた枝が小さくしなった。
「今、私が申し上げれば、その方を困らせてしまいますので」
「困らせる? もう、決まったお相手がいる方なの?」
「いいえ」
「じゃあ、身分が釣り合わないとか」
「そういうことでもございません」
「なら、何が困るの」
「……時期というものが、ございます」
それ以上は、何を聞いても同じだった。どこの方なのか。いつからなのか。王宮の中の方か、外の方か。ユリウスは、ひとつずつ丁寧に、お答えできませんと答えた。答えられない、ということだけが、はっきりしていた。
「……ずるいわ」
「何が、でございますか」
「人の恋の話は、いつも隣で全部聞いていたくせに」
「お聞きになっていたのは、殿下でございます。私は、控えていただけです」
言い返す言葉が、見つからなかった。ユリウスは、話を戻すように一礼した。
「ハーヴェイ家へのお断りは、私の口から申し上げたく存じます。人づてでは、リディア嬢に礼を欠きますので」
「……そうね。なら、もう一度、南の応接室に来てもらいましょう。手紙は、私が書くわ」
「恐れ入ります」
「お父上には?」
「今日のうちに、手紙で知らせます。……父は、がっかりするでしょうが」
ユリウスは一礼して、執務室を出ていった。扉の閉まる音は、いつもと同じ大きさだった。
◇
エレノアは、落ちたペンを拾った。
ハーヴェイ家に宛てて、手紙を書かなければならない。世話役として、縁談を進められなくなったと伝える手紙だ。便箋を出して、書き出しの一行を書いて、破った。二枚目は、三行目で手が止まった。世話役を買って出た日の手紙は、あんなにすらすらと書けたのに。
侍女が茶を運んできて、いつの間にか下げていった。手をつけないまま、冷めてしまっていたらしい。
ペンを置いて、三日前の紙を広げた。
いちばん上に、ユリウス・ヴァイス。その下に、リディア・ハーヴェイ。余白には、気の早い丸をつけた「四件目」。
ユリウスの名前の横に、ペン先を置いた。心に決めた方。名前が分からないのだから、そう書いておくしかない。
書けなかった。ペン先は、名前の横から短い線を一本引いただけで、その先へ行かなかった。行き先のない線を、エレノアはもう一度なぞった。もう一度。インクが滲んで、紙の裏まで染みた。
何年も、毎日そばにいた人だ。書類を受け取って、扇を回すなと叱られて、無茶を言っては溜め息をつかれて。その人に、想う人がいた。どこの誰なのか、いつからなのか、何ひとつ知らない。知らないどころか、考えてみたことさえなかった。
喉の奥に、魚の小骨が引っかかったような感じがした。飲み込もうとしても、うまく下りていかない。
世話役として、情けないからだわ。エレノアは、そう決めた。人の縁を三件も結んでおいて、いちばん近くにいる人のことを見落としていた。落ち着かないのは、きっとそのせいだ。
そう決めてしまうと、少しだけ楽になった。少しだけ、だった。
◇
その日の夕餉の席で、エレノアのスープは、なかなか減らなかった。
「どうした。世話役が、しくじったか」
国王アルベルトが、杯を置いて尋ねた。
「しくじったのではありません、父上。ユリウスが、縁談を断ると」
「ほう」
「心に決めた方がいるそうです」
向かいの席で、レオナルトが杯の酒にむせた。
「……お兄様?」
「いや、何でもない。続けてくれ」
「どなたなのか、私には言えないそうです。私に言ったら、その日のうちに縁結びを始めるからと」
「それは、正しい判断だな」
アルベルトが、しみじみとうなずいた。レオナルトは口元をナプキンで押さえたまま、天井の飾りを見上げている。
王妃マリアンヌだけが、娘の顔を見ていた。
「それで、あなたはどう思ったの?」
「……悔しいです、母上。何年もそばにいて、相手がどなたかも知らなかったなんて。世話役として、情けないです」
「悔しい、のね」
マリアンヌは、娘の言葉をゆっくりと繰り返した。
「それだけ?」
「それだけです。……たぶん」
「他人の縁談で悔しがる暇があるなら、お前自身の縁談を――」
「あなた」
マリアンヌが、静かに夫を呼んだ。アルベルトは口を閉じ、決まり悪そうに杯を取り直した。
マリアンヌは、それ以上は何も聞かなかった。少しだけ目を細めて、自分の杯を口へ運んだ。
エレノアは、冷めたスープにようやく匙を入れた。喉の奥の小骨は、まだ、そこにあった。




