第十七章 断られた令嬢と、言いかけた言葉
ハーヴェイ家の母娘が、もう一度南の応接室に通されたのは、ユリウスが断ると言った日から五日後のことだった。
招きの手紙には、世話役として至らなかったことを詫び、改めて顔を合わせたいとだけ書いた。四枚目の便箋で、ようやく書き上がった手紙だった。
書き物机は、窓際の隅に置いたままにしてあった。エレノアはそこに座って、紙を一枚だけ広げた。今日の日付を書いたきり、ペンは動かなかった。
ユリウスは、長椅子には座らなかった。母娘の前に立ち、深く頭を下げた。
「このたびのお話、お断りさせていただきたく存じます」
子爵夫人の手の中で、扇がかすかに鳴った。リディアは、表情を変えなかった。
「理由を、伺ってもよろしいかしら」
「リディア嬢に、何の不足もございません。私のほうに、心に決めた方がおります。その方のほかに、添う方は考えられません」
二度目に聞いても、喉の奥の小骨は、同じところに引っかかった。エレノアは、日付しか書いていない紙に目を落とした。
「そのお方とは、もうお約束を?」
「いいえ」
「では、お気持ちをお伝えには」
「……まだ、でございます」
リディアは、ほんの一瞬、窓際の隅へ目をやった。それから、ユリウスに向き直った。
「正直に仰ってくださって、ありがとうございます。後になってから、実は、と聞かされるより、ずっとようございますわ」
「恐れ入ります」
「ただ」
リディアは、少しだけ首をかしげた。
「言うべきことは、言うべきときに。そのお方にも、いつかは、そうなさいますのよね」
ユリウスは、すぐには答えなかった。
「……そのときが、参りましたら」
短い答えだった。リディアは、それで十分だというように、小さくうなずいた。
「馬車を、車寄せへ回させます」
ユリウスはもう一度頭を下げて、先に部屋を出ていった。
◇
エレノアは、母娘と並んで回廊を歩いた。車寄せまでは、王宮の中だ。その先の門の外へは、見送りに出ることもできない。
「殿下。せっかく世話役をお務めいただきましたのに、申し訳ございません」
「謝るのは、こちらよ。世話役を買って出て、このありさまだもの」
「いいえ。私、少しも残念ではございませんの」
「リディア」
「本当ですもの、お母様」
リディアは、母に向かって小さく肩をすくめてみせた。
「断られるなら、早いほうがありがたいですわ。お互いに、次を探せますもの。それに、ヴァイス様は、最後まで裏表のない方でしたわ。ただ、私のための方ではなかっただけ」
さばさばとした声だった。強がっているようには、聞こえなかった。
「……あなた、強いのね」
「よく見ているだけですわ」
リディアは、回廊の途中で足を止めた。窓の向こうに、車寄せの屋根が見えている。
「殿下。顔合わせの日のことですけれど」
「ええ」
「あの方が見ていたのは――」
子爵夫人が、娘の袖を引いた。
「……いえ、私が申し上げることではありませんわ」
「見ていたのは?」
エレノアが聞き返しても、リディアは笑って首を振るだけだった。
「それより、殿下。あの日の紙には、私のことを何と書いてくださいましたの?」
「よく笑う。遠慮しない。はっきり聞く」
「まあ。ほとんど悪口ですわ」
「褒めているのよ」
「娘が、失礼ばかりを申し上げまして」
子爵夫人が、困ったように頭を下げた。
「いいえ。楽しかったわ、夫人。本当よ」
リディアは、母の横で満足そうにうなずいた。
「それから、ひとつお願いがございます」
「何?」
「殿下のお眼鏡にかなう方がいらしたら、そのときは、また私にお声をかけてくださいませ。裏表のない方を」
「言うべきことを、言うべきときに言う人を、ね」
「覚えていてくださいましたのね」
「書いたもの」
リディアは、声を立てて笑った。子爵夫人も、今度は扇で口元を隠さなかった。
車寄せには、ハーヴェイ家の馬車が回されていた。ユリウスが扉を開けて待っている。母娘が乗り込むと、彼はもう一度、深く頭を下げた。
エレノアは、車寄せの柱のそばで足を止めた。そこから先へは、行けない。馬車が門の向こうへ消えるまでのあいだに、リディアは一度だけ窓から振り返って、会釈をした。
◇
その日の夕方、エレノアは執務室の机に、三枚の紙を並べていた。
顔合わせの日に書いた紙だ。ユリウス、ごまかさない。リディア嬢、よく笑う。裏表のない人。言うべきことを、言うべきときに言う人。ユリウス、当てはまる。端には七本の縦線。余白には、気の早い丸をつけた「四件目」。
窓際で書類を仕分けていたユリウスが、手を止めた。
「その紙は、いかがなさいますか」
「どうしようかしら」
エレノアは、四件目の文字を指でなぞった。
「三件結んで、四件目で、初めてしくじったわ」
「しくじったのは、殿下ではございません。私が、お断りしたのです」
「世話役を買って出て、まとめられなかったのよ。世話役のしくじりでしょう」
ユリウスは、答えなかった。
「ねえ。リディア嬢、帰り際に何か言いかけたの。顔合わせの日、あの方が見ていたのは、って。夫人に袖を引かれて、それきり」
ユリウスの手元で、書類の束が一枚、ずれた。
エレノアは、紙の端の七本の縦線を見下ろした。あの日、自分は窓を背にして座っていた。
「……私のほうを見ていたと思っていたけれど、あれは、私の後ろの窓だったのね」
「窓、でございますか」
「あの窓からは、中庭の回廊が見えるでしょう。その方が、通りかかったんじゃないかしら」
ユリウスは、しばらく黙っていた。それから、ずれた一枚を元の位置に戻した。
「……さあ。どうでございましょう」
「隠しても無駄よ。いつか、突き止めるわ」
エレノアは、四件目の丸の上に、ペン先を置いた。バツをつければ、しくじりが一件。丸を残せば、嘘が一件。どちらも、しっくりこなかった。
しばらく迷ってから、ペンを置いた。
「……これは、数えないでおくわ」
「数えない、とは」
「結んだ数にも、しくじった数にも入れないの。どこにも数えないで、しまっておくわ」
エレノアは三枚の紙を重ねて二つに折り、机の引き出しを開けた。いちばん手前には、白い小花の手巾がしまってある。その下に、折った紙を滑り込ませた。
「……承知いたしました」
ユリウスの声は、いつもより少しだけ低かった。エレノアが顔を上げたときには、彼はもう窓のほうを向いて、書類の続きを仕分けていた。
引き出しを閉めようとすると、白い手巾の端が、隙間から少しだけのぞいた。エレノアはそれを指で押し込んで、もう一度、きちんと閉めた。




