第十八章 調べられない想い人と、内務省の仕事
それから、ひと月近くが過ぎた。
そのあいだに、エレノアは三度尋ねた。回廊を通りかかった方なのか。中庭の見える部屋で働いている方なのか。せめて、王宮の中の方なのか。三度とも、ユリウスの答えは同じだった。申し上げられません。
年明けの書類がようやく片付いたころ、ユリウスが休みを願い出た。
「五日ほど、お暇をいただきたく存じます」
「どこへ行くの?」
「領地の父のところへ。縁談の件は手紙で知らせましたが、一度顔を見せに来いと、返事が参りまして」
「お父上は、怒っているの?」
「分かりかねます。手紙では」
エレノアは、少しだけ身を乗り出した。
領地まで、ついて行けたら。伯爵家の人たちに聞けば、次男が誰を想っているのか、ひとりくらいは知っているかもしれない。そう思って、すぐにやめた。王宮の門の外で起きることは、いつも、あとから人の口で聞くしかない。
その代わり、王宮の中なら、どこへでも行ける。
「分かったわ。気をつけて行ってきなさい」
「……殿下。何か、お考えでは」
「何も」
ユリウスは、何か言いたそうな顔をした。それから、結局は一礼だけして下がっていった。
◇
ユリウスのいない執務室は、朝から勝手が違った。
書類は、代わりの若い下級官吏が運んできた。読む順には、揃っていなかった。謁見の予定表は、二度書き直されて届いた。
「ねえ。ひとつ聞いてもいい?」
「は、はい。何なりと」
「ひと月あまり前の昼過ぎに、南の応接室の窓から見える回廊を、誰が通ったか分かる?」
下級官吏は、目を白黒させた。
「……回廊の往来は、記録しておりません」
「ユリウスなら、記録していそうなのに」
「ヴァイス様でも、それは、さすがに」
「そうよね」
顔合わせの日に茶を運んだ侍女にも、聞いてみた。
「あの日の午後、回廊を通った方、でございますか。庭師と、洗濯物を運ぶ下働きの娘たちと……それから、王太子殿下が、お一人で」
「お兄様?」
「はい」
「……お兄様では、ないわね」
侍女の口の端が、ぴくりと動いた。
「今、笑ったでしょう」
「笑っておりません。寒さで、口元がこわばっただけでございます」
三日目の午後、紙が尽きた。
引き出しを開けても、白い紙が一枚もない。いつもなら、減ってきたと思う前に、新しい束が引き出しに入っている。誰が入れているのか、考えたこともなかった。
エレノアは、自分で物資管理局へ向かった。
◇
天井まで帳簿の詰まった部屋で、マルタが綴じ紐を掛けていた。エレノアの姿を見るなり、丸眼鏡の奥の目を丸くする。
「殿下? 何事でございますか」
「紙をもらいに来たの」
「紙でしたら、いつも内務官殿が取りにいらっしゃいますのに」
「ユリウスは、休みを取って領地に帰っているのよ」
「ああ、それで」
マルタは棚から紙の束を下ろしながら、首をかしげた。
「でも、先週も一束、内務官殿が持っていかれましたよ」
「……それを、もう使い切ったの」
「一束を、十日もたたずに? 何をそんなにお書きに」
「ユリウスの縁談のことよ」
奥の机で帳簿をめくっていたグレゴールが、顔を上げた。夫婦で、ちらりと目を見交わす。
「マルタ。あなた、ひと月あまり前の昼過ぎに、中庭の回廊を通らなかった?」
「ひと月あまり前……ああ、通りましたよ。南棟へ、封蝋を届けに」
グレゴールの手から、帳簿が滑り落ちた。
どさり。
「違いますよ、あなた。落ち着いてください」
マルタは笑いながら夫の帳簿を拾い上げ、エレノアに向き直った。
「殿下。内務官殿の想い人探し、でございますか」
「ええ。心に決めた方がいるのに、誰なのか教えてくれないの。顔合わせの日、ユリウスが見ていたのは、私の後ろの窓の外だったらしくて」
「窓の外」
マルタは、丸眼鏡を指で押し上げた。
「殿下。殿下の紙は、いつも内務官殿がご自分で取りにいらっしゃいます。ほかの方々の分は、下の者を寄こされるのに、殿下の分だけは」
「仕事熱心なのよ」
「ええ。仕事熱心な方ですねえ」
マルタは、しみじみとうなずいた。
「ですから、内務官殿が見ていたのでしたら、たぶん――」
「マルタ」
グレゴールが、妻の肘にそっと手を置いた。
マルタは口をつぐんで、夫の顔を見上げた。それから、少しだけ肩をすくめた。
「……そうでした。これは、局の備品のお話ではございませんでしたね」
「言いかけたでしょう。たぶん、何?」
「殿下」
グレゴールが、帳簿を胸に抱えたまま、一歩前に出た。耳まで赤くなっていたが、声は震えていなかった。
「申し訳ございません。私は、殿下に背中を押していただいて、ようやく自分の口で言えた男です。ですから……ああいうことは、本人の口から言うのが、いちばんだと存じます」
「……男爵まで、そう言うの」
「はい」
グレゴールは、今度ははっきりとうなずいた。
マルタは、紙の束を二つ、エレノアの腕に載せた。
「内務官殿がお戻りになるまで、これで足りますか」
「……足りるわ。たぶん」
紙の束は、思ったより重かった。
◇
休みの明けた朝、エレノアが執務室に入ると、机の上には書類が揃っていた。
読む順に、いつもの筆跡で。その横に、新しい紙の束がひとつ。
「お早うございます、殿下」
窓際で、ユリウスが一礼した。五日前と、何も変わらない顔だった。
「戻ったのね。お父上は、何て?」
「それならそうと早く言え、と叱られました。それから、相手はどこの誰だと、三日かけて聞かれました」
「答えたの?」
「いいえ」
「お父上にも、言わないの」
「父に申せば、翌日には王都じゅうに知れます」
エレノアは、兄の話を思い出した。縁談が来たことを、伯爵は王太子にまで嬉しそうに話していたのだ。
「物資管理局に寄りましたら、殿下がご自分で紙を取りにいらしたと伺いました」
「マルタに聞いたの?」
「はい。それから、殿下が回廊を通った者をお調べになっている、とも。……王宮じゅうで、噂になっております」
「だって、あなたが教えてくれないんだもの」
エレノアは、新しい紙の束に手を置いた。マルタにもらった二束と合わせて、三束になる。当分、紙には困らない。
「ユリウス」
「はい」
「あなたの想い人のこと、調べてちょうだい」
「……それは、内務省の仕事ではございません」
「あら、断るの?」
いつもなら、ここで文句を言いながら、翌朝には全部揃えてくる人だった。
ユリウスは、しばらく黙っていた。窓の外で、軒の氷柱から、しずくが落ちた。
ぽたり。
「……いずれ、ご報告いたします」
いずれ。
その言葉を、前にもこの人から聞いた気がした。風が、藤の葉を鳴らしていたような気もする。いつのことだったかは、思い出せなかった。
「いずれ、ね」
「はい」
「待っているわ」
ユリウスは、ほんの少しだけ目を伏せて、一礼した。それから窓際に戻って、書類の続きを仕分け始めた。
エレノアは、新しい紙を一枚取って、いちばん上に書いた。ユリウスの想い人。
その下は、今日も白いままだった。窓の外では、氷柱のしずくが、途切れずに落ち続けていた。




