第十九章 三度の破談と、帳簿の山
王宮の茶会は、季節ごとに開かれる。春の茶会も、顔ぶれはだいたい決まっていて、幼い頃から同じ席に座らされてきた娘たちが、今では扇の陰で縁談の噂を交換している。
エレノアは、その輪から外れた窓際の席に、見知った横顔を見つけた。
「ロザリー」
「まあ、殿下。ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
立ち上がろうとしたロザリー・エヴァンスを、エレノアは手で制した。赤みのある栗色の髪に、緑の瞳。愛らしい顔立ちのはずなのに、目の下に濃い影がある。
「痩せたわね」
「そう見えますかしら。忙しいだけですわ」
「その台詞、去年も聞いたわ」
ロザリーは笑って、カップに口をつけた。口をつけただけで、飲んでいなかった。
「今度の縁談は、どうなったの」
その一言で、笑みが薄くなった。
「……三人目。今度の方にも、お断りされました」
「三人目?」
「この一年で、三人目です。理由はいつも同じ。お誘いを何度もお断りしたから」
ロザリーはカップを置き、乾いた笑いを漏らした。
「領地で問題が起きました、父が倒れました、使用人の面接があります。そんなことが続いて、言い訳ばかりしていると言われ、しまいには呆れられて終わりですわ」
「本当に結婚したいの?」
「したいですわよ。でも、実家を放り出すわけにはまいりませんもの」
「事情は話したの?」
「話しました。最初は分かってくださるのです。二度目、三度目と続くと、さすがに愛想を尽かされる。当然ですわ」
「愛想を尽かされて、悲しかった?」
ロザリーは、少し黙ってから答えた。
「悲しいというより……ほっとした部分もあります。これで、また領地のことだけに専念できる、と」
自分の言葉に、ロザリー自身が驚いた顔をした。慌てて取り繕うように笑ったが、目はまったく笑っていなかった。
エレノアは、それを黙って見ていた。
◇
翌日、執務室に積まれたのは、エヴァンス伯爵家に関する書類だった。
「調べました」
「早いわね」
「殿下が今日中にお尋ねになると思いましたので」
紙をめくると、事情はすぐに見えてきた。当主オズワルド・エヴァンスは長年の持病で長時間の執務ができず、夫人セシリアも身体が弱い。跡継ぎであるエドガーは社交界での評判こそ良いが、領地の帳簿にはほとんど触れていない。
「つまり、実際の領地経営は、全部ロザリーがやっているのね」
「内務省に届いている書類からは、そう読めます。決裁の署名は伯爵ですが、その下書きも計算も、すべてご令嬢の筆跡です」
「兄のほうは?」
「悪い方ではないようです。ただ、数字を扱う仕事にまるで向いていない。人脈作りと社交には、むしろ抜きん出た才がおありのようですが」
「向いていないことを、無理にやらされているのね」
「伯爵ご自身も、体調を崩されてからは、跡継ぎに継がせるほかないとお考えのようです。本人の適性は、二の次になっている」
エレノアは書類を閉じた。
「ロザリーを、帳簿ごと王宮に呼ぶわ」
「帳簿ごと、でございますか」
「あの子が実際にどう仕事をしているのか、この目で見たいの。西棟の空いている部屋を、何日か使わせてあげて」
「……手配いたします」
「あら、内務省の仕事ではないのでしょう?」
「……王宮の部屋割りは、内務省の仕事でございます」
エレノアは笑った。ユリウスは笑わなかった。
◇
三日後、王宮の西棟の一室に、帳簿の箱がいくつも運び込まれた。
運んできたのは、黒髪の青年だった。褐色寄りの肌に琥珀色の瞳。細身だが、重い箱を軽々と抱えている。
「王女殿下。本日よりしばらく、お部屋をお借りいたします」
深く一礼したのはロザリーで、青年はその半歩後ろで同じように頭を下げた。
「あなたは?」
「ノアと申します。ロザリー様の補佐を務めております」
ノアは箱を下ろすと、迷いなく並べていった。どの箱に何が入っていて、どれから先に要るのか、体が覚えている手つきだった。
「エヴァンス家に仕えて、長いの?」
「父の代からエヴァンス家にお仕えしております。屋敷で育ちました」
その日の午後、エレノアが様子を見に行くと、ロザリーは早くも帳簿の山に埋もれていた。エレノアの姿を見るなり立ち上がろうとして、机の角に膝をぶつけている。
「殿下! 申し訳ございません、こんな格好で」
「いいから、そのまま。散らかっているほうが本当の話ができるわ」
ノアが黙って茶を運び、ロザリーの手元から一冊を抜き取って、代わりに別の帳簿を置いた。ロザリーは顔も上げずにそれを受け取り、当たり前のように続きを書き始める。二人とも、そのやり取りを意識していないようだった。
「ノア。いつもこうなの?」
「こう、とは」
「言われる前に、次のものを出すでしょう」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「ロザリー様は、無茶をなさる方ですので」
「無茶なんてしていないわ」
「先週、三日続けて夜明けまで机におられました」
「あれは急ぎの決算で」
「二日目の晩に、階段で足を踏み外されました」
ロザリーが黙った。ノアの声はまったく荒らげられていない。それどころか、丁寧なくらいだった。それが静かな怒りであることは、部屋にいる全員に分かった。
エレノアは、扇の陰で二人を見比べていた。
誰かがやらなければ、と一人で抱え込んでいるはずの令嬢の隣に、いつも黙って立っている人がいる。
頭の中の紙に、線がもう一本増えた。
しばらくして、内務省の役人がロザリーを呼びに来た。領地の届け出について、確かめたいことがあるという。ロザリーが席を外すと、部屋にはノアだけが残った。
「ノア。ひとつ聞いてもいい?」
「何なりと」
「ロザリーの縁談が壊れるたび、あなたはどう思っていたの?」
帳簿を揃えていたノアの手が、ほんの一瞬止まった。それから、また同じ速さで動き出す。
「……ロザリー様が、お幸せになられることを願っております」
「壊れてほしいとは、思わなかった?」
「私が思うことに、意味はございません」
「意味があるかどうかは、私が決めるわ」
ノアは答えなかった。帳簿を揃え終えると、深く頭を下げただけだった。
部屋を出る前に、エレノアは振り返った。ノアは窓辺に立っていた。見ていたのは中庭で、その向こうの回廊を、書類を抱えたロザリーが急ぎ足で戻ってくるところだった。
廊下では、ユリウスが待っていた。
「殿下。何かご覧になりましたか」
「見たわ。たっぷり」
エレノアは歩きながら、扇の骨をとんとんと叩き始めた。
「ただ、今度のはたぶん、結ぶだけでは終わらないわ。あの家は、形そのものを変えないと立ち行かないもの」
「……厄介な案件ですね」
「面白い案件と言ってほしいわね」
ユリウスは何か言いたそうな顔でこちらを見たが、結局は何も言わなかった。




