第二十章 初めての喧嘩と、言えなかった想い
ロザリーが西棟で仕事をするようになって三日目、エレノアは彼女を庭へ連れ出した。ノアの目も、ほかの誰の目もない場所を選んだのは、わざとだった。
薔薇園を抜けた先の、背の高い生垣に囲まれた一角で、エレノアは足を止めた。
「ロザリー。聞きたいことがあるの」
「何でしょう?」
「あなた、自分の結婚と実家、どちらが大切なの?」
ロザリーの顔から、すっと表情が消えた。
「……何を、いきなり」
「はぐらかさないで。ちゃんと答えて」
「考えたこともありません」
「じゃ、今考えて」
「そんなこと言われましても」
「大事なことよ。結婚と実家、どちらかしか取れないとしたら?」
「そんなこと、選べるわけないでしょう!」
声が、初めて荒くなった。幼い頃から数え切れないほど顔を合わせてきて、この声を聞いたのは初めてだった。
「実家を捨てて、自分の幸せだけを取れと仰るのです? 父も母も臥せっていて、兄は帳簿の一枚も読めません。私が投げ出したら、誰があの屋敷を回すのですか」
「それは、あなたが本当にやりたいことなの? それとも、誰かがやらなければ、で自分を追い詰めているだけなの?」
「同じことですわ! やらなければ、家が立ち行かないのですから!」
「同じじゃないわ」
エレノアも、声を張った。扇を握った手に、力が入っていた。
「自分で選んでやっていることと、仕方なくやらされていることは、全然違う。前者は続くけれど、後者はいつか折れるのよ。あなた、もう折れかけているでしょう」
ロザリーは、何か言い返そうとして、口を開いたまま止まった。
長い沈黙が落ちた。生垣の向こうで、鳥が飛び立つ音がした。
「……申し訳ございません」
先に折れたのは、ロザリーだった。
「殿下に、あんな言い方をするべきではありませんでした」
「謝らないで」
エレノアは、静かに首を振った。
「今の言葉、知り合ってから初めて聞いた、あなたの本音だと思うから」
ロザリーは俯いたまま、何も答えなかった。
「ひとつだけ、考えてみて。誰かがやらなければ、というのは、義務感だけなの? それとも」
「それとも、何ですの」
「あの家と、あの土地が本当に大切だから? 自分の手で手放したくないから?」
ロザリーが顔を上げた。その目に、これまで見たことのない色が浮かんでいた。
「……分かりません。考えたこともございませんでした」
「考えて。義務と望みは、似ているようで全然違うものなのよ」
その一言を残して、エレノアは回廊のほうへ歩き出した。
振り返ると、ロザリーはまだ生垣の前に立ち尽くしていた。その傍らに、いつの間にかノアが立っていた。何も言わず、ただ、日除けの傘を差し出していた。
◇
その日の夕方、エレノアは執務室にノアを呼んだ。王女の執務室に、平民の使用人がひとりで呼ばれることはまずない。萎縮するかと思ったが、彼は落ち着いた足取りで現れ、扉の前できちんと一礼した。
「単刀直入に聞くわ。あなた、ロザリーのことをどう思っているの?」
ノアの表情が、わずかに揺れた。
「主家のお嬢様として、大切にお仕えしております」
「建前はいいの。本音を聞いているのよ」
長い沈黙があった。窓の外では、日が落ちかけていた。
「……お慕いしております。もう長いこと」
「言ったことは?」
「ございません。身分が違いますので」
「ロザリーは、それを知っているの?」
「分かりません。ですが、お互いに何も言わないまま、ここまで参りました」
「身分が違うだけで、一生黙っているつもりだったの?」
ノアは、少しだけ間を置いた。
「それだけではございません」
「というと?」
「私が申し上げれば、ロザリー様は迷われます。実家を継ぐべきか、私を選ぶべきか。ただでさえ、あの方はご自分より他人を優先なさる。そこに私の想いまで乗せれば、あの方はきっと、私のために何かを諦めます」
「……それは、あなたが決めることじゃないでしょう」
「承知しております」
ノアは、静かに頭を下げた。
「ですから、言わずにおりました。それが正しいかどうかは、私にも分かりません」
エレノアは、何も言えなくなった。
誰にも言わないまま、何年も抱え続けている想い。言えば相手の選択を狂わせると信じて、黙り続ける人。そういう人が、この世にはいるのだ。
胸の奥が、なぜか少しだけ苦しかった。その理由までは、考えなかった。考えるには、目の前の案件のほうがずっと大きかった。
◇
翌日の昼、王宮の広間では、王妃の主催で小さな集まりが開かれていた。エドガー・エヴァンスは、そういう場には必ずいる人だった。
帰りかけたところを、エレノアは回廊で正面から塞いだ。
明るい栗色の髪に、派手な美形。服だけは、その日の広間の誰よりも上等だった。
「殿下、これは。妹でしたら、西棟で帳簿と格闘しておりますが」
「あなたに用があるの。はっきり言うけれど、あなた、帳簿仕事は向いていないでしょう」
「……お見通しでしたか」
エドガーは、悪びれもせず肩をすくめた。
「数字を見ると眠くなるのです。三行読むと、もう文字が滑りまして」
「社交は?」
「そちらは得意でございます。誰と誰が繋がっていて、どこに話を通せば早いか。そういうのは、見ていれば分かります」
嘘ではなさそうだった。実際、彼の人脈のおかげで領地の取引が助かった記録が、ユリウスの資料にも残っていた。
「なら、無理に家督を継がなくても、別の道があるのではない?」
「そうは申しましても、跡取りは私ですので」
その声には、諦めに似た響きがあった。生まれた順番だけで背負わされた役目に、疑問を持ったことすらないらしい。
「もし、他家へ婿入りする道があったら?」
エドガーが、初めて言葉に詰まった。
「……考えたこともございませんでした」
「ロザリーは、家の仕事に向いていると思う?」
「妹のほうが、よほど向いております。私より真面目ですし、数字にも強い。ただ、頑張りすぎるのが玉に瑕ですが」
妹への評価に、嫌味も気負いもなかった。
「殿下。ひとつ伺っても?」
「どうぞ」
「妹は、私のことを恨んでおりますか」
初めて、声から軽さが消えていた。
「聞いてみたことは?」
「ございません」
「じゃあ、聞いてごらんなさい。あなたが思っているほど、あの子は他人を恨まないわ。自分を責めるだけよ」
エドガーは、しばらく黙っていた。それから、いつもの調子に戻して笑った。
「それがいちばん、たちが悪いですね」
「ええ。たちが悪いわ」
帰るはずだった兄は、その足で西棟のほうへ歩いていった。妹のいる部屋のほうへ。
執務室に戻ると、エレノアは紙を取り出し、三人の名前を並べて書いた。ロザリー、ノア、エドガー。
線の引き方次第で、あの家の形はいくらでも変わりそうだった。
◇
その翌朝、エレノアが西棟へ行くと、ロザリーは帳簿を革の大きな鞄に詰めているところだった。積まれていた箱は、もう半分ほどが空になっている。
「領地に戻ります」
手を止めないまま、ロザリーが言った。
「今朝、屋敷から使いが参りました。母が昨夜から熱を出して、父はそのそばを離れないそうです。……いつものことですわ」
「いつものこと、ね」
「ええ。ですから、私が戻らなければ、屋敷が回りません」
鞄の口を閉めようとした指が、途中で止まった。ロザリーは自分の手を見下ろして、小さく息をついた。
「殿下に言われたことが、昨日から頭を離れません。義務なのか、望みなのか。ここで数字ばかり見ておりますと、答えが出る前に、疲れが来てしまいますわ」
「だから、屋敷で考える」
「ええ。あの土地の上でなら、正直な答えが出る気がいたします」
エレノアは、引き止めなかった。答えを出すのはロザリー自身で、その場所は王宮の西棟ではない。
「気がすむまで、考えてきなさい。帳簿は、全部持っていくのね」
「ええ。……ご心配をおかけしました」
ロザリーが頭を下げたところへ、戸口からノアが入ってきた。外套を腕に掛け、いつもの落ち着いた足取りだった。鞄を受け取るとき、彼の指はロザリーの手に触れなかった。触れないように、ひどく丁寧に動いたのが、かえって目についた。
西棟の玄関で、エレノアは馬車を見送った。ロザリーは、窓の中から一度だけ振り返った。
執務室に戻ると、三人の名前を書いた紙は、昨日のまま机の上にあった。線は、まだ一本も引いていない。




