第二十一章 義務と望みと、父への申し出
ロザリーが帳簿を抱えて領地へ戻ってから、十日ほどが過ぎた。
次に王宮を訪ねてきたとき、彼女はひとりだった。内務省に出し直す届けがあって、そのついでだと言っていた。
通されたのは、いつもの小さな執務室だった。目の下の影は相変わらずだったが、目そのものに力が戻っている。
「殿下に言われたこと、ずっと考えておりました」
「義務か、望みかって話ね」
「ええ。……分かりましたわ。私、義務だけでここまでやってきたわけではありませんでした」
ロザリーは窓辺に立ち、遠くを見た。この部屋の窓からは、領地へ続く街道が霞んで見える。
「先週、領地を回ったのです。屋根の修繕の件で。そうしたら、昔うちにいた婆やが、私の名前を呼んで手を振りました。生まれたときから知っている人です」
「ええ」
「あの人たちを他人に任せて、自分だけ嫁いでいくのかと思ったら、嫌だと思いました。誰かに押し付けられた義務ではなくて、私が、あの土地を手放したくないのですわ」
「それに気づいたなら、答えは決まったようなものね」
「ええ。私、嫁ぐのはやめます。自分で、あの家を継ぎます」
迷いのない声だった。エレノアは、その横顔を見て小さく笑った。
「伯爵には、もう話したの?」
「これから申し上げます。……正直に言えば、怖いのです」
「反対されるから?」
「いいえ。許されてしまうのが怖いのですわ」
ロザリーは、窓に額を近づけた。
「父は病んでおります。私が継ぐと申し上げれば、たぶん、ほっとなさる。それが、いちばん怖いのです。私は父を楽にするために言い出すのではないのに、そう受け取られたら、もう二度と本当のことが言えなくなりますもの」
エレノアは、扇を閉じた。
「だったら、なおさら言葉にしなさい。父君を楽にするためではなく、自分が継ぎたいから継ぐのだと。望みは、言葉にしなければ伝わらないわ」
ロザリーは、窓の外を見たまま、ゆっくりとうなずいた。
「その話、ここでしなさい」
「ここで、でございますか」
「家督の継ぎ方を変えるには、陛下の承認と内務省の手続きが要るわ。どのみち、伯爵家の皆には王宮へ来てもらうことになるのよ。だったら、話も王宮ですればいい」
ロザリーが目を見開いた。
「私が立ち会うわ。証人がいたほうがいい話でしょう。ユリウスも同席させる」
「ですが、父は体が」
「内務省の奥に、暖炉のある控えの間があるの。長椅子もあるわ。伯爵には、そこで座っていてもらえばいい」
ロザリーは何か言いかけて、結局、深く頭を下げた。
◇
五日後、内務省の奥の控えの間に、エヴァンス家の全員が揃った。家族がひとつの部屋に顔を揃えるのは、久しぶりのことだという。
オズワルド・エヴァンス伯爵は、暖炉のそばの長椅子に厚い膝掛けをかけて座っていた。顔色は悪いが、目だけは娘とよく似た緑をしている。その隣で、夫人のセシリアが白湯の碗を両手で包んでいた。向かいにエドガー。壁際にエレノアとユリウス。ノアは扉のすぐ内側に立っていた。
「父上。お話がございます」
ロザリーは、抱えてきた帳簿を三冊、卓の上に並べた。
「一昨年と昨年、それに、この春に締めたばかりの今年の決算書です。どうぞご覧ください」
「……見るまでもない。お前が書いたものだろう」
「はい。三年分、すべて私の筆です。父上の署名の下は、全部私の字です」
オズワルドは、帳簿に手を伸ばしかけて、やめた。
「それを、責めているのか」
「いいえ。事実を並べているだけです。あの家は、もう三年、私が回しております。それを、正式にしていただきたいのです」
控えの間が、しんと静まった。ロザリーは、一度だけ息を吸った。
「私が、エヴァンス伯爵家を継ぎます。父上を楽にするためではございません。私が、継ぎたいのです」
「馬鹿を言うな」
オズワルドの声は、思いのほか強かった。
「跡取りはエドガーだ。お前は嫁げ。女に領地を背負わせて、父親が務まるか」
「もう三年背負っております」
「それは私が不甲斐ないからだ!」
咳が出た。セシリアが背中に手を添える。ロザリーは動かなかった。
「父上。私は、父上を責めておりません。ただ、私が背負っていることに、三年間、誰も気づかないふりをしていたと申し上げているのです」
オズワルドは、口を開いたまま黙った。
その隙に、エドガーが身を乗り出した。
「父上、俺は――」
「お前は黙っていろ」
ひと言で、エドガーの口が閉じた。膝の上で拳を握ったまま、兄は目を伏せてしまった。
セシリアが、碗から顔を上げた。娘を見て、夫を見て、唇が何か言いかけるように動いた。けれど声にはならず、碗はまた両手の中に戻った。
「ロザリー」
オズワルドは、膝掛けの縁を握り直した。
「お前には、お前の幸せがある。嫁いで、大事にされて、この家のことなど忘れればいい。それが、私にできる――」
言い終わる前に、咳がそれを遮った。
「父上」
「話は終わりだ。跡取りはエドガーだ。そう決まっている」
オズワルドは、ノアに目で合図をした。ノアが進み出て、伯爵の腕を支える。立ち上がるまでに、長い時間がかかった。
扉の前で、伯爵は一度だけ振り返った。見たのは娘ではなく、卓の上の三冊だった。すぐに目を逸らし、そのまま廊下へ出ていった。
帳簿は、一度も開かれなかった。
◇
セシリアとエドガーがあとに続き、控えの間には、ロザリーとエレノアとユリウスだけが残った。暖炉の火が、誰もいなくなった長椅子を照らしている。
ロザリーは、卓の前に立ったままだった。
「許されてしまうのが怖いなどと、申し上げましたのに」
乾いた声で、少しだけ笑う。
「許されもしませんでしたわ」
「ロザリー」
「殿下のせいではございません。話すと決めたのは、私ですもの」
先に言われて、エレノアは口を閉じた。私が急がせた、と言うつもりだった。それを言えば、ロザリーはまた、誰かを庇う側に回ってしまう。
「あなたは、望みを言葉にしたわ。それは、間違っていない」
「言葉にしても、開いてもらえなければ同じですわ」
ロザリーの目は、閉じたままの帳簿に落ちていた。
エレノアは、返す言葉を探した。ミレーヌには、言いなさいと教えた。男爵には、先に言いなさいと言った。そのどちらも、今は口に出せなかった。
「こちらの帳簿は、いかがなさいますか」
ユリウスが、静かに尋ねた。
「……置いていってもよろしいかしら。持って帰っても、開く人はおりませんもの」
「お預かりいたします。家督に関わる申し出に添えられた書類ですので、財務部門の控えと照らし合わせることになりますが」
「どうぞ。どなたが読んでも、同じ数字ですわ」
ロザリーは深く一礼して、控えの間を出ていった。廊下の先では、伯爵を馬車まで送ったノアが、戻って待っていた。何も言わずに彼女の肩へ外套を掛け、半歩後ろについて歩き出す。
二人の足音が遠ざかってから、エレノアは卓に近づいた。三冊の背には、同じ字で年が書いてある。どれも、きちんと揃った字だった。
「急がせたのは、私ね」
「殿下が急がせたのではございません」
ユリウスは、帳簿を一冊ずつ重ねながら答えた。
「ご令嬢が、三年待たれたのです」
エレノアは、何も言わなかった。重ねられた三冊の背を、指で一度だけなぞった。




