第二十二章 四つ目の縁談と、帳簿を読む人
控えの間での申し出から、十日が過ぎた。
その日、ロザリーは預けた帳簿を引き取りに王宮へ来た。内務省へ行く前にエレノアの執務室へ顔を出したのは、先に伝えておきたいことがあるからだった。
椅子を勧めても、ロザリーは座らなかった。春の日差しが入る窓を背にして、両手を前で重ねている。
「四つ目の縁談を、お受けすることにいたしました」
エレノアの手から、扇が滑りかけた。
だめよ、と喉まで出かかった。生垣の前で声を荒らげたロザリーの顔が浮かんで、その言葉を飲み込んだ。命じて変わる話なら、とうに変わっている。
「……驚いたわ。何があったの?」
「あの日から三日後に、父が持ってまいりました。父の古いお友達の家の、ご嫡男だそうです」
「どんな方?」
「お顔は、去年の茶会で一度拝見したきりですわ。お優しそうな方でした」
それきり、ロザリーは相手の話をしなかった。
「その方と、どうなりたいの?」
「どうにも。お受けすれば、父が安心いたします。それで十分ですわ」
「あなたにとって、いちばん大事なのは何?」
「父に、もう二度と、不甲斐ないなどと言わせないことです」
控えの間で咳き込んだ伯爵の声が、エレノアの耳にもよみがえった。ロザリーは、あの一言をずっと抱えていたのだ。
「ロザリー。あなたは、本当はどうしたいの?」
「本当は、なんて」
ロザリーは、少しだけ笑った。
「申し上げても、開いていただけませんでしたもの」
「本音を聞いているのよ」
答えはなかった。窓際で書類を仕分けていたユリウスが、手を止めて顔を上げた。
「帳簿でしたら、今朝、財務部門の照合が終わったと聞いております。エヴァンス家と聞いて、ラング夫人が自分から引き受けたそうです」
「ミレーヌが?」
扉が叩かれたのは、そのときだった。
取り次ぎの侍女のあとから、小柄な女官が顔を出した。三冊の帳簿を、落とさないように胸の前で抱えている。
「財務部門のミレーヌ・ラングでございます。エヴァンス家の決算書を、お返しに上がりました」
秋の終わりに婚礼を挙げてから、ミレーヌの名乗りは、最後だけが変わった。扉の陰からこちらを窺っていた頃の面影は、もうあまりない。
ミレーヌは帳簿を卓に置くと、ロザリーのほうを見た。
「あの、失礼ですが。この字を書かれた方は」
「……私ですわ」
「やっぱり」
ミレーヌの顔が、ぱっと明るくなった。
「財務部門には、毎年、各家から上納の届けが参ります。決算の写しが添えてあるのですけれど、エヴァンス家のものだけは、束の中からすぐに分かるのです。字が揃っていて、締めが一日も遅れないので」
ミレーヌは帳簿に挟んであった紙を広げた。照合の書き付けらしく、細かい数字がびっしり並んでいる。
「四年前までは、毎年ふた月遅れて届いておりました。それが三年前からは、三年続けて、期日の十日前です」
ロザリーは黙っていた。ミレーヌは、紙の上の指を一行下へ滑らせた。
「三冊で、四百十二枚。そのうち伯爵様の筆によるものは、毎年の署名の三か所だけでした」
「……数えたことは、ございませんでした」
「数えるのは、私どもの仕事ですから」
ミレーヌは当たり前のように言って、また一行下へ進んだ。
「借入れは、三年で金貨八百枚から二百四十枚に。そのかわり、小作の家の屋根を直すお金が、毎年少しずつ増えております」
エレノアは、思わず身を乗り出していた。初めて相談に来た日には、この人が帳簿の数字を一行ずつ追うところなど、まるで想像がつかなかった。今のミレーヌは、紙の上でいちばん速い。
「それから、こちらです」
ミレーヌは、帳簿の後ろに綴じてある取引の控えを開いた。
「取引の控えには、その取引先を誰が引き合わせたかを書く欄がございます。三件とも、同じお名前です。エドガー・エヴァンス様」
「……兄の名は、毎回書いておりましたわ。三件とも、そうでしたのね」
「羊毛と、葡萄酒と、材木。三件で、年に金貨九十枚ほど。領地の収入の、一割近くになります」
ロザリーは、控えの頁を見下ろした。自分の字で、兄の名が三度書いてあった。年ごとに別の頁へ書いた名前を、並べて見たことはなかった。
「……写しただけですわ。足したことは、一度も」
ミレーヌは書き付けをたたみかけて、ふと手を止めた。
「来年からも、この字で届くのですよね。次のご当主のことで照合のご依頼が来たと、伺いましたので」
ロザリーの顔から、表情が消えた。ミレーヌが、はっとして口元を押さえる。
「来年からは、たぶん、違う字になりますわ」
ミレーヌは、しばらく帳簿の表紙を見ていた。それから、胸の前で握りかけた両手を、ゆっくりとほどいた。
「では、申し上げておきます。この字でなくなったら、私は、寂しいです」
言ってから、ミレーヌは耳まで赤くなった。書き付けを帳簿の上に置き、何度も頭を下げて下がっていく。その背中を、ロザリーは黙って見送っていた。
◇
入れ違いに、取り次ぎの侍女がもう一度顔を出した。ヴァレンティ侯爵夫人が、ご挨拶に見えているという。
入ってきたクララは、落ち着いた青のドレスを着ていた。婚礼のあと、夫妻そろって王都へ上がるのはこれが初めてで、今朝は陛下への拝謁を済ませてきたところだった。
「殿下。ご無沙汰しております」
「クララ嬢――ではなかったわね。侯爵夫人」
「どうぞ、これまでどおりクララと」
「じゃあ、クララ。侯爵殿は?」
「陛下のところに残っております。北の橋の直し方を、自分でご説明したいと申しまして」
エレノアは噴き出しかけて、扇で口元を隠した。
クララは、卓の横に立つロザリーに気づいて目を細めた。
「まあ、ロザリー様。茶会以来ですね」
「クララ様。ご結婚、おめでとうございます」
ロザリーは膝を折って挨拶をすると、卓の帳簿を腕に抱えた。
「私も、近いうちに嫁ぐことになりそうですの」
笑って言ったが、目は笑っていなかった。春の茶会の窓際で見たのと、同じ顔だった。
クララは、その顔と帳簿とを見比べた。
「お受けになるのですか」
「ええ。四件目ですもの。これ以上お断りしたら、父が」
「私は、夫からの求婚を三度お断りしました」
クララは、手にしていた手巾をそっとたたんだ。隅に、白い小花が刺してあった。エレノアの引き出しにしまってあるのと、同じ図案だった。
「ほかのお話も、全部お断りしました。そのたびに、選り好みをして逃げているのだと言われましたし、自分でも、そう思っておりました」
ロザリーが、顔を上げた。
「でも、違いましたの。何を守りたくてお断りするのか、自分で分かっておりましたから」
クララは、ロザリーの腕の中の帳簿に目をやった。
「断ることも、選ぶことですわ」
ロザリーは、しばらく帳簿を見下ろしていた。四百十二枚。署名が三か所。紹介者の欄に、兄の名前が三度。
「……殿下」
「ええ」
「先ほどのお尋ねに、今、お答えしてもよろしいですか」
エレノアは、黙ってうなずいた。
「私、継ぎたいですわ。父が何と言っても、あの家を」
声は小さかったが、震えてはいなかった。ロザリーは帳簿を抱えたまま、窓際のユリウスに向き直った。
「ヴァイス様。先ほどの書き付けに、財務部門の印をいただくことはできますか」
「ラング夫人に、お伝えいたします」
「それから、殿下。もう一度だけ、あの部屋をお借りできますか」
「ええ。何度でも」
ロザリーは深く一礼して、執務室を出ていった。
扉が閉まる前に、廊下で待っていたノアが、帳簿を受け取ろうと手を伸ばすのが見えた。ロザリーは首を振って、三冊を自分の胸に抱えたまま歩いていった。




