第二十三章 二度目の申し出と、湯を沸かす音
その晩、エヴァンス家の台所には、遅くまで明かりが灯っていた。
ロザリーは竈に小鍋をかけ、湯が沸くのを待つあいだに、卓で手紙を書いていた。夜中に机に向かうときは、いつもこうして湯を沸かす。白湯を一杯飲めば、あと一刻は目が開いている。三年のあいだに覚えた、ささやかな工夫だった。
今夜書いているのは、帳簿ではなかった。四件目の縁談への、お断りの返事だった。父の名ではなく、自分の名で書いた。
勝手口の戸が開いたのは、三枚目を書き直しているときだった。表の戸は、もう閉まっている時刻だった。
「……こんな時間に、何をしている」
夜会帰りの兄だった。上等な上着の襟元をゆるめたまま、台所の入口で足を止めている。
「お断りの手紙よ。縁談の」
「父上が怒るぞ」
「怒られるのは、慣れているわ」
エドガーは、しばらく黙って妹の手元を見ていた。それから、卓の向かいの椅子を引いて腰を下ろした。
「あの日な。西棟の、お前のいる部屋の前まで行ったんだ」
「いつのこと?」
「殿下に回廊で捕まった日だ。お前が俺を恨んでいるか、聞いてごらんなさいと言われて」
エドガーは、卓の木目を指でなぞった。
「扉の前で、引き返した。聞くのが怖かった」
「それで?」
「今、聞く。お前、俺を恨んでいるか」
ロザリーは、ペンを置いた。
「恨むほど、お兄様のことを考える暇がなかったわ」
「……それはそれで、堪えるな」
「でも、今日ひとつだけ考えたの。財務部門の方が、うちの帳簿を数えてくださったのよ。取引の控えの紹介者の欄に、お兄様の名前が三つあったわ。三件で、年に金貨九十枚ですって」
「……俺の?」
「私、写しただけで、足したこともなかった」
エドガーは何か言おうとして、やめた。夜会で覚えた気の利いた言葉は、ひとつも出てこないようだった。
竈の小鍋が、鳴りはじめた。今夜、三度目の湯だった。
しゅん、しゅん。
「今度は、俺も黙らない」
それだけ言って、兄は立ち上がった。
ロザリーは湯を碗に注ぎ、書きかけの手紙に戻った。頭の上で、床板が一度だけ鳴った。父と母の寝室のあたりだった。それきり、何の音もしなかった。
台所の奥の、使用人部屋の戸の下からも、細い明かりが漏れていた。その明かりが消えたのは、ロザリーが手紙に封をしたあとだった。
◇
あの晩から五日後、エヴァンス伯爵は、ふたたび内務省の奥の控えの間にいた。
縁談を娘が勝手に断ったと知って、伯爵は、申し出を正式に取り下げ、王女殿下にお詫びを申し上げると言い出した。それなら内務省の控えの間で、と言ったのはロザリーだった。
春も終わりに近いというのに、暖炉には火が入っていた。伯爵の体を気遣って、ユリウスが入れさせたものだった。
顔ぶれは、前と同じだった。違うのは卓の上で、三冊の決算書の隣に、財務部門の印が押された紙が一枚置かれている。
「殿下。先日は、娘が大変なご迷惑を」
「迷惑なんて、かけられていないわ」
「いえ。縁談まで、勝手に断りまして。申し出は、本日かぎり取り下げさせていただきます」
「伯爵。詫びなら要らないわ。その前に、ロザリーの話を聞いてちょうだい」
伯爵は、娘を見た。ロザリーは、印の押された紙を父の前へ滑らせた。
「お父様。今日は、私の帳簿ではございません。財務部門が、上納の控えと照らし合わせて数えたものです」
「……財務部門が」
「私の字は、お読みにならなくて結構です。これは、王宮の方の字ですわ」
オズワルドは、しばらく紙を見下ろしていた。それから、低い声で読み上げた。
「三冊、四百十二枚。当主の筆によるもの、署名三か所」
声が、そこで一度止まった。
「締め、三年続けて期日の十日前。借入れ、金貨八百枚から二百四十枚」
読み終えた紙を、伯爵は卓に戻した。
「だから、何だ。だからこそ、嫁がせるのだ。これ以上、この家に縛りつけておけるか」
「父上、聞いてください」
エドガーが、立ち上がっていた。
「エドガー。お前は」
「今日は、黙りません」
いつもの軽い調子を、兄は捨てていた。
「俺は数字が読めません。三年前、父上が倒れられた月、俺は決算を三日で投げ出しました。そのあと、誰が夜明けまで机にいたとお思いですか」
答えは、この部屋の全員が知っていた。
「俺は、それを見ていて、見ていないふりをしました。……その紙の、最後の行を見てください」
伯爵の目が、紙の端へ動いた。紹介者、エドガー・エヴァンス。三件。
「俺が役に立てたのは、帳簿の外だけです。帳簿の中は、全部こいつです。今さら俺が継いでも、あの家が潰れるだけです」
オズワルドは、息子の顔をじっと見ていた。それから、ゆっくりと妻のほうを向いた。
「……お前は、知っていたのか」
セシリアは、碗を置いた。細い声だったが、はっきりしていた。
「知っておりました。あの子が夜中に台所で湯を沸かす音を、毎晩聞いておりましたもの」
「なぜ言わなかった」
「あなたが、お加減の悪い体で無理をなさるからです。言えば、また執務室に戻られるでしょう」
セシリアは、膝の上で手を重ねた。
「五日前の晩も、聞きました。あの子が、縁談のお断りを書いていた晩です。湯を沸かし直す音が、三度いたしました」
沈黙が落ちた。
オズワルドは膝掛けの縁を握り、長いこと、そうしていた。誰も急かさなかった。暖炉の薪が、一度だけ小さく爆ぜた。
「……ロザリー」
「はい」
「三年、すまなかった」
ロザリーの肩が、震えた。返事をしようとして、できなかった。
「気づかなかったのではない。気づかないことにしていた。娘に背負わせているという事実に、私が耐えられなかっただけだ」
伯爵は、膝掛けの上で指を組んだ。
「お前を嫁がせてしまえば、その三年も、なかったことにできると思った」
それから、初めて決算書を手に取った。一枚めくり、二枚めくり、卓に戻した。
「……よく書けている。私より、よほど丁寧だ」
「父上」
「継ぎなさい」
その一言で、ロザリーは両手で顔を覆った。
◇
手続きの説明はユリウスが引き受けた。女子の家督相続には国王の承認が要ること、長子優先の原則を変えるには相応の理由書が必要なこと。淡々とした声が、かえって場を落ち着かせた。
「ひとつ、お伺いしても」
説明が一段落したところで、オズワルドが言った。
「娘の縁談は、どうなる。家を継ぐ女に、縁談を持ち込む家は少ない。……ロザリー。お前、心当たりがあるのではないか」
ロザリーは、答えなかった。
扉のそばに立っていたノアが、身じろぎもせず前を見ているのが見えた。
オズワルドは、それ以上は聞かなかった。ただ一度だけ扉のほうへ目をやって、また娘に戻した。
「今日は、ここまでにしよう。疲れた」
伯爵家の人々が下がったあと、エレノアは控えの間の窓から、中庭を横切っていく一家を見ていた。ロザリーが父の腕を支え、そのすぐ後ろを、ノアが荷物を持って歩いている。エドガーは母の歩みに合わせて、いつもよりずっとゆっくり歩いていた。
「殿下。よろしかったのですか、あのままで」
「いいのよ。あの話は、ロザリーが自分でしないと意味がないもの」
言いながら、扇の骨をとんとんと叩く。今日いちばん難しい話は、まだ誰も口にしていない。
「ユリウス。平民との婚姻について、決まりをもう一度調べておいて」
「……すでに、写しをお持ちしております」




