第二十四章 継ぐ決意と、結婚しない伴侶
その晩、屋敷に戻ったロザリーは、ノアを庭に呼び出した。夕食の片付けが終わった時刻で、母屋の窓はもうほとんど暗くなっていた。
「ノア。私、家を継ぐことになったわ」
「……はい。昼間、あの場で伺っておりました」
「それで、あなたに謝らなければならないことがあるの」
ノアは黙って待った。
「私は、あなたの正式な妻にはなれない。家督を継ぐ以上、平民のあなたとは婚姻できないから」
「承知しております。最初から、望んでおりません」
「望んでいないの?」
「望めば、あなたが家を失いますので」
ノアの声は静かだった。それから、彼は一度だけ目を伏せて、言いにくそうに続けた。
「ロザリー様。ひとつだけ、申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「家督を、エドガー様にお戻しする道もございます。継承権を放棄なされば、あなたは誰とでも婚姻できます」
「それは、私に領地を捨てろということ?」
「……そうなります」
「あなたは、それを望むの?」
ノアは答えなかった。答えられないのだと、ロザリーには分かった。
「ノア。私、選ぶわ」
ロザリーは、一歩距離を詰めた。
「土地も、あなたも、両方選ぶ。夫婦にはなれない。それでも隣にいてほしいの。恋人として。いつか子供を持つことになったら、二人で育てたい」
ノアの表情が、初めて崩れた。長年抑えてきたものが、そのまま顔に出た。
「……よろしいのですか。私のような者で」
「私が一緒にいたいのは、あなたなの」
ノアは深く頭を下げた。その肩が、かすかに震えていた。頭を上げたとき、琥珀色の瞳は濡れていたが、声はいつも通りだった。
「一生、おそばにおります。伴侶として」
母屋の窓のひとつに、遅れて明かりが灯った。誰かが様子を見に起きてきて、そのまま何も言わずに引っ込んだらしい。
◇
翌日の午後、オズワルド・エヴァンスは、書斎にノアだけを呼んだ。
扉が閉まってから出てくるまで、半刻あまりかかったという。そのあいだ、ロザリーは廊下の椅子から動かなかった。
あとから聞いた話では、伯爵は最初にこう言ったらしい。
「お前は、娘の名誉を傷つけることになる」
「承知しております」
「世間は、お前を手癖の悪い使用人と呼ぶぞ」
「呼ばせておきます」
「娘が侮辱されるのだ」
そこでノアは、しばらく黙ったという。
「……では、伺います。私が今日この屋敷を出れば、ロザリー様はお幸せになられますか」
伯爵は答えなかった。
「私が去れば、あの方は縁談をお受けになるでしょう。受けて、うまくやるでしょう。あの方はそういう方です。ですが、そのあとの二十年を、私は知っております」
「……何を知っている」
「夜中に台所で湯を沸かす音です。私は子供の時分からこの屋敷におります。あの音を、いちばん近くで聞いてまいりました」
長い沈黙のあと、伯爵は一度だけ咳をして、こう言ったそうだ。
「子はどうする。お前の姓を名乗り、平民として育ち、この家を継げぬ子だぞ」
「継がせるために産むのではありません」
その答えを聞いて、オズワルドは椅子に深く背を預けたという。
書斎から出てきたノアは、いつも通りの顔をしていた。廊下のロザリーに一礼し、それから小さく、旦那様がお呼びです、とだけ言った。
◇
取り決めは、それから七日のうちに形になった。
内務省の一室で、ユリウスが卓に広げた写しには、婚姻と相続の条項が並んでいた。ロザリーとノア、エドガー、それにエレノアが、その卓を囲んでいた。
「爵位を持つ家長本人が平民と正式に婚姻した場合、その家は爵位継承資格を失います。ただし、婚姻しない場合は、この条項は働きません」
「つまり、私が継いで、結婚しなければいい」
「法の上では、そうなります。ただし」
ユリウスは、次の紙をめくった。
「お二人の間に子が生まれた場合、その子は父君の身分に従います。平民として育ち、爵位の継承権は持ちません。これは覆せません」
「構いません」
ロザリーは即答した。
「私が守りたいのは家の名前と、あの土地に暮らす人たちです。子供の一生を縛ることではありませんもの」
「では、後継は」
そこで口を開いたのは、エドガーだった。
「俺の子でどうです」
全員が、兄のほうを見た。
「婿入り先には、跡取りが一人いればいい。二人目が生まれたら、こちらへ養子に出します。……それくらいはさせてください。三年分の埋め合わせには、まるで足りませんが」
ロザリーは兄を見上げ、それから、目を逸らした。逸らした先にあった帳簿を、意味もなく揃え直していた。
未婚の貴族でも養子を取れること、特別な事情があれば国王の承認で継承順位を変えられること。ユリウスがその条文を読み上げ、書類は陛下のもとへ回された。
国王アルベルトは、承認の署名をしながら一度だけ娘のほうを見た。エレノアは気づかないふりをした。
◇
エドガーの縁談も、ほどなく決まった。社交と人脈作りの手腕を高く評価する子爵家の令嬢が、婿にと望んだのである。夜会でエドガーが商会の者と誰かを引き合わせるところを、令嬢は何度も目にしていた。
顔合わせの席で、令嬢はこう言ったという。
「うちは領地の商いを広げたいのです。帳簿は父と私が見ますから、あなたは人と会ってくださいませ」
エドガーは、その場で即答したらしい。
「これで俺も、得意なことだけやっていられます」
妹に向かってそう言ったところ、ロザリーが「今までと変わりませんわ」と返し、久しぶりに兄妹喧嘩が起きたという話も、エレノアの耳には届いていた。
◇
「これで四件目ね」
執務室で報告書を閉じながら、エレノアは伸びをした。
「正式な夫婦でなくても、家族にはなれるのね」
「そのようです」
ユリウスは、次の書類を机に置きながら答えた。
「結婚という形だけが、人と人を結ぶわけではないと」
「ええ。ロザリーは、それを自分で見つけたわ。数えたのはミレーヌで、背中を押したのはクララ。私は、義務と望みは違うと言っただけ」
「それを言える者が、そばにいるかどうかで変わるものです」
「あら、褒めてくれるの?」
「事実を申し上げただけです」
エレノアは頬杖をつき、初夏の日差しが落ちる中庭を眺めた。四件目の案件が、静かに幕を下ろそうとしている。
「私も、いつか誰かとあんなふうに、当たり前みたいに隣にいられたらいいのに」
何気なくこぼした言葉だった。
ユリウスの手が、書類の上で止まった。エレノアは気づかず、窓の外を見たままだった。




