第七章 おねだりの練習と、青い花
ミレーヌが相談に来た三日後、エレノアは彼女を王宮の北の庭に呼んだ。
北の庭の奥、藤棚の下には小さな四阿がある。人通りが少なく、内緒話にはちょうどいい場所だった。エレノアはそこで、ミレーヌと向かい合って座った。
「では、練習よ。簡単なものから」
「れ、練習ですか」
「今日は疲れているので、少し優しくしてください。はい、言ってみて」
「え……そんな、いきなり」
「いいから」
ミレーヌは何度か息を吸ってから、消え入りそうな声で繰り返した。
「今日は……疲れているので、少し優しくしてください」
「聞こえないわ。もう一度、今度は私の目を見て」
「今日は疲れているので、少し優しくしてください」
「上出来。次は、次のお休み、どこかへ連れていってほしいです」
「次のお休み、どこかへ連れていってほしいです」
「今度は、好きなものを言う練習。あなた、何が好き?」
「……青い花、です。小さい頃から」
「じゃあ、それを私の目を見て言って」
「私は……青い花が、好きです」
言うたびに、声が少しずつ大きくなった。エレノアは満足して、扇で自分の掌を叩いた。
「ね、言えるじゃない」
「殿下が相手だから言えるのです。本物の殿方の前では、きっと無理です」
「だから練習するの。口が覚えるまで、何度でも」
背後に控えていた侍女が、こらえきれずに小さく笑った。ミレーヌが真っ赤になる。
「もう少し難しいのもいくわよ。この贈り物は、あまり好みではありません、と伝える練習」
「無理です! 相手が悲しむではありませんか!」
「悲しむかもしれないわね。でも、好みでないものを一生もらい続けるのと、どちらがつらい?」
「……それは」
「大丈夫、優しい伝え方だってあるわ。ありがとうございます、でも次は、もう少し落ち着いた色が好きです、って」
「殿下が仰ると、簡単そうに聞こえます」
「じゃあ、相手役をやってあげる」
エレノアは扇を閉じ、わざとらしく低い声を作った。
「フォスター嬢。あなたのために選んだ品です。どうぞお納めください」
「……あ、ありがとうございます」
「そこで終わらない。続き」
「あ、ありがとうございます。でも次は、もう少し、落ち着いた色が」
「もう一度。語尾を濁さないで」
ミレーヌは、何度もつっかえながら、それでも最後まで言い切った。言い終わってから、自分で自分に驚いた顔をしていた。
「言えました」
「言えたでしょう」
「言ったら、罰が当たる気がしていたのです」
「当たらないわ。当たったら、私が代わりに受けてあげる」
ミレーヌは、ようやく声を出して笑った。
◇
練習から五日後、同じ北の庭の四阿で、ミレーヌとテオドール・ラングの顔合わせが設けられた。テオドールには、裁判所の記録を王宮へ届ける日に合わせて、帰りに寄ってもらった。エレノアは物陰から――というより、正式に同席する形で――その様子を見守っていた。ここで逃げ出させては、練習の意味がない。少し離れて、ユリウスも控えていた。
テオドールは、栗色の短髪を几帳面に整えた、中肉中背の青年だった。とりたてて目を引く容姿ではないが、挨拶をしたときの笑い方が柔らかかった。書記官という職業柄か、話すときに相手の言葉をひとつずつ確かめるような間を置く。
「殿下にお声がけいただくとは思いませんでした。私のような者に」
「あら、裁判所の書記官は立派な仕事でしょう」
「仕事として誇りは持っておりますが、地味です。書き写して、綴じて、また書き写す」
卑下しているというより、事実を述べている口ぶりだった。ミレーヌが、その横顔をちらりと見た。
テオドールは手土産に、砂糖をたっぷりまぶした焼き菓子を持ってきていた。侍女が皿に取り分けると、ミレーヌは一口かじって、そっと皿に戻した。テオドールのほうは、自分の分をあっという間に平らげていた。
「フォスターさんは、お休みの日は何をなさるのですか」
「その、あの……」
ミレーヌの手が、膝の上で固く握られた。エレノアは扇の陰から、目だけで合図を送る。言うのよ。口が覚えているはずでしょう。
「……次のお休み、どこかへ連れていっていただけますか」
声は震えていた。練習した言葉が、聞かれたこととは少しずれたところから飛び出した。それでも、最後まで言い切った。
テオドールは、少し驚いた顔をしてから、すぐに笑った。
「もちろんです。行きたい場所はありますか」
「あ……青い花が、好きです」
「では、王宮の西の庭園にしましょう。今の時期、青い花がよく咲いています」
あまりにあっさりと話が進んだので、ミレーヌのほうが呆気にとられていた。
「あの、それと……」
もう一段階、声を絞り出す。
「先ほどいただいたお菓子、とても嬉しかったのですが、私、甘すぎるものが少し苦手で。次からは、控えめな甘さのものをいただけると」
言ってしまってから、ミレーヌは青くなった。エレノアも、扇を握る手に力が入った。
テオドールは、目を丸くした。それから、破顔した。
「助かります」
「え?」
「教えていただけないと、私には分かりませんから。正直に申し上げると、私は察しのいい男ではないのです。言ってくださればいくらでも喜んでやりますが、言われないことは、たぶん一生気づきません」
ミレーヌが、顔を上げた。
「……ご迷惑では、ないのですか」
「迷惑なものですか。むしろ、今まで何人かに、どうして分かってくれないの、と言われて別れております」
言いながら、テオドールは首の後ろを掻いた。照れ隠しらしかった。
「ですから、言っていただけるのはありがたいのです。甘さ控えめ、覚えました」
ミレーヌの目に、みるみる涙が溜まった。慌てて袖で押さえようとして、袖で押さえるのは行儀が悪いと気づいて、もっと慌てた。
その一部始終を、エレノアは扇の陰で眺めていた。頬が緩むのを、どうしても抑えられなかった。
◇
顔合わせが終わり、テオドールが裁判所へ戻り、ミレーヌが何度も頭を下げて財務部門へ戻っていったあと、四阿にはエレノアとユリウスが残った。
「見た? あの二人」
「拝見しておりました」
ユリウスは、片付けた茶器を侍女に渡しながら答えた。
「いい感じよ。テオドール、ちゃんと相手の話を聞く人だわ」
「そのようですね」
「言葉にするって、大事よね」
「……ええ。大事です」
答えるまでに、いつもより半拍長い間があった。エレノアは気づかず、藤棚を見上げている。
「あなたも、何か言いたいことがあったら言ってね。私、遠慮されるのは苦手だから」
「私が、殿下にですか」
「そう。何でも」
ユリウスは、茶器を渡した手をそのまま下ろした。
「では、いずれ」
「いずれ?」
「今はまだ、その時期ではないというだけです」
風が藤の葉を鳴らした。エレノアは首をかしげたが、それ以上は追いかけず、膝の上の紙を畳んで袖にしまった。追いかけていれば、何か違っていたのかもしれない。紙の上に並んだ二つの名前は、初めよりも少しだけ、近くに見えた。




