第六章 「普通の殿方」と、伝説上の生き物
王女が、こじれた縁談をひとつまとめたらしい。しかも、その縁談の相手は自分の見合い相手だったらしい。
そういう話が王宮を一周するのに、七日もかからなかった。
噂が二周目に入った頃、エレノアが公務の合間に使っている小さな執務室に、取り次ぎの侍女が来客を告げた。財務部門の女官が、ぜひお目通りを、と言っているという。
「あの、その、お忙しいところ申し訳ございません」
侍女のあとから顔を出したのは、淡い茶の髪をゆるく波打たせた小柄な女性だった。大きな茶色の瞳が、半分開いた扉の陰からこちらを窺っている。両手を胸の前で握りしめた格好のまま、部屋に入ろうか戻ろうか迷っているようだった。
「財務部門のミレーヌ・フォスターと申します。その……殿下が、恋のご相談をお聞きくださると伺いまして」
「ええ、聞くわ。どうぞ座って」
「で、でも、こんなことで殿下のお時間をいただくのは」
「他人の恋の話を聞くのは、私の趣味のようなものよ。遠慮はいらないわ」
エレノアは椅子を勧めながら、机の引き出しから紙を一枚引き寄せた。新しい案件の匂いがする。
ミレーヌは、恐縮しきった様子で椅子の端に浅く腰かけた。財務部門といえば、王宮の帳簿を一枚残らず預かっている部署だ。この人が帳簿の数字を一行ずつ追っているところは、正直、あまり想像がつかなかった。
「好きな人がいるの?」
「いえ、それが……これから探したいのです。私、どうも理想の殿方に巡り会えなくて」
「理想、というと?」
ミレーヌは、待っていましたとばかりに背筋を伸ばした。
「普通の、お優しい方がいいのです」
「普通」
「はい。特別なことは望んでおりません。ごく普通の方で結構です」
エレノアはうなずいて、紙の左端に小さく縦線を引いた。とりあえず数えることにする。
「普通の方と、穏やかな生活がしたいだけなのです」
「穏やか、ってどういうこと?」
「そうですね。例えば雨ですね、と言ったら、そうですね、と返してくださるとか。私が落ち込んでいたら、気づいてくださるとか」
一つ。二つ。
「お休みの日には、楽しいところへ連れて行っていただけて」
三つ。
「記念日には私好みの贈り物を選んでくださって」
四つ。
「お話が途切れないような楽しい時間を過ごせて、気まずい沈黙はなくて」
五つ。六つ。
「私が困っているときには、言う前に助けてくださって」
七つ。
エレノアの筆が、少しだけ速くなった。
「それから、決してお怒りにならない方で。お仕事も安定していて、身なりも清潔で」
八つ。九つ。十。
「女性の扱いには慣れていらっしゃるけれど、浮気は絶対になさらない方が」
十一。十二。
「……まだ、あるの?」
「あと少しだけ。お食事の好みも、私が申し上げなくても覚えていてくださって、疲れているときは無理にお喋りさせず、かといって黙りすぎず、ちょうどよい距離を保ってくださって」
「ミレーヌ」
「はい」
エレノアは、紙から顔を上げた。縦線は、両手の指では足りない数になっていた。
「それ、普通ではないわ」
「え?」
「今言った条件を全部満たす殿方がいたら、それはもう普通の男性ではないわ。伝説上の生き物よ」
ミレーヌは、大きな目をさらに大きくした。
「そ、そうでしょうか。私の周りの方は、皆さんそのくらいは望んでいると」
「望むのは自由よ。でも、ひとつ聞くわ」
エレノアは紙を裏返して、ミレーヌの前に置いた。真っ白な裏面だった。
「今言ったことの、そう、あなたの食べ物の好みだとか、落ち込んでいるだとか……、会話の中でどれかひとつでも、殿方に直接言ったことはある?」
「……ございません」
「一度も?」
「一度も」
ミレーヌは、肩を縮めた。
「だって、そういうことは、口にするものではございませんでしょう。好きなら、分かってくださるはずですもの」
「一度も言わずに、うまくいかなかったことは?」
ミレーヌは、口ごもった。
「……去年、一度だけ、お付き合いのようなものを」
「どうなったの?」
「その方は、いつも同じお店にばかり誘ってくださったのです。私は本当は、湖のほうへ行ってみたかったのですけれど」
「言ったの?」
「言えません。せっかく誘ってくださっているのに、失礼でしょう」
「それで?」
「三月ほどで、自然に会わなくなりました。楽しくなさそうだったから、と言われて」
ミレーヌは、膝の上で指を絡めた。
「私は楽しくなかったわけではないのです。ただ、湖に行きたかっただけで」
「その『ただ』を、一度も言わなかったのね」
「分かってくださると思っていました」
「分からないわ」
あまりにきっぱり言われたので、ミレーヌは言葉を失ったようだった。
「少なくとも私は、言わなくても全部分かってくれる殿方に、一度も会ったことがないわ。もしいたら、それこそ伝説上の生き物よ」
「……それ、二度目でございます」
「大事なことだから」
ミレーヌの目が、みるみる潤んだ。エレノアは慌てて身を乗り出す。
「泣かないで。要望が多いことを責めているんじゃないの」
「では、何が」
「一度も言葉にしていないことよ。あなたの帳簿は、数字を書かなければ合わないでしょう。恋も同じなのよ」
ミレーヌは、涙の溜まった目のまま、少しだけ笑った。
「……帳簿に喩えられたのは、初めてです」
「分かりやすいでしょう。まずは、小さなことから言葉にする練習よ」
◇
ミレーヌが何度も頭を下げて出ていったあと、入れ替わりにユリウスが書類を届けに来た。窓の外はもう夕方になっている。
「廊下で、財務のフォスター嬢とすれ違いました。目を赤くして、何度も頭を下げていかれましたが」
「新しい相談よ」
「今日の案件も、難しそうですね」
「難しいというより、単純よ。望みが山ほどあるのに、一度も口にしたことがないんですって」
「言わなければ、伝わりません」
「そうなの。だから練習から始めるわ。今日は疲れているので優しくしてください、とか。次のお休みにどこかへ連れていってください、とか」
「良い方法だと思います」
ユリウスはカップを置き、それから、ごく小さな声で言った。
「殿下は、それを人にはお勧めになるのに」
「え?」
「いえ。何でもございません」
いつも通りの一礼をして、ユリウスは部屋を出ていった。
エレノアは紙に向き直り、ミレーヌの名前の隣に、心当たりの名をひとつ書き加えた。
テオドール・ラング。王都裁判所の書記官。派手さはないけれど、人を喜ばせるのが好きな人だと聞いている。
悪くない組み合わせかもしれない。エレノアは、紙の上に並んだ二つの名前を、線では結ばず、しばらく眺めていた。
こういう瞬間が、いちばん楽しい。誰かと誰かが合いそうだと気づく、この一瞬のために、自分は他人の恋の話を聞いているのだと思う。
窓の外では、夕日が王宮の尖塔を橙色に染めていた。




