第四章 北の橋と、母への申し出
ベアトリスが王宮を訪ねてから四日目の夜明け前、北の領地から早馬が着いた。
雪解けの水で川がふくれ、村の橋が半分流されたという。直す前に、雪解けのほうが先に来てしまったのだった。向こう岸の集落には、薬も粉も運べなくなっていた。
知らせを受けたベアトリスは、寝間着の上に肩掛けを羽織ったまま、居間の机に向かった。去年の業者に宛てて手紙を書き、家令に指図を出し、見舞いの品の目録を作る。夫が亡くなってから、何度も繰り返してきた手順だった。迷うことは何もない。
「母上」
戸口に、旅支度のセドリックが立っていた。書きかけの手紙に一度だけ目をやってから、口を開いた。
「これは、私が参ります」
「あなたが? 手紙で済むことでしょう」
「手紙では、川の様子が分かりません」
「業者は、去年と同じところに」
「それも、向こうで見て決めます」
セドリックは一礼した。頭を下げている時間が、いつもより短かった。
馬の音が遠ざかってから、ベアトリスは書きかけの手紙を見下ろした。宛名だけが書いてあって、その先は白いままだった。
◇
セドリックが発ってから、屋敷は静かだった。
家令は、いつも通りに屋敷を回した。料理人は献立を決め、庭師は剪定の日を決めた。誰も、居間の扉を叩かなかった。叩く必要がなかったのだと、三日目に気づいた。
領地からは、一日おきに短い手紙が届いた。橋は、村の大工の頭に任せることにした。川の癖を、誰よりもよく知っているから。費用は領地の予備費から出す。向こう岸へは、仮の渡し舟を出した。どの手紙にも、決めたことだけが、短く並んでいた。
三通目の手紙を読み終えたとき、ベアトリスは、あることに気づいた。
宛名のほかに、母上という言葉が、一度も出てこない。
あの子は、自分で決めている。決めて、それで、ちゃんと回っている。
ベアトリスは手紙を膝に置いた。窓の外は、もう暗かった。
侯爵殿が自分のことを自分で決めるようになったら、夫人は、何がしたい?
王女の声が、耳の奥に残っていた。
その晩、ベアトリスは奥の部屋で、古い衣装箱の蓋を開けた。夫を亡くしてから、一度も開けていない箱だった。畳んだ布の下から、使い込んだ刺繍の枠が出てきた。木の縁は艶を失い、張ったままの布には、白い小花が半分だけ咲いていた。
針に糸を通すのに、三度失敗した。
◇
セドリックが戻ったのは、発ってから八日目の午後だった。
居間の戸口で、セドリックは足を止めた。窓際の長椅子で、母が刺繍の枠を膝に置いていた。父が亡くなってから、一度も見なかった姿だった。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。橋のことは、手紙で読みましたよ」
「勝手に決めてしまいました」
「……大工の頭に任せたのね」
「はい。あの川のことは、あの者がいちばんよく知っておりますので」
「そう」
ベアトリスはそれだけ言って、針を布に刺した。咎める言葉は、出てこなかった。セドリックは、母の手元をしばらく見ていた。
「母上。その刺繍は」
「古いものを、出してみただけです」
短い答えだった。セドリックはそれ以上は聞かず、母の向かいに腰を下ろした。
「母上。お話ししたいことがございます」
「今度は、何かしら」
「クララ嬢に、もう一度求婚いたします。今日は、母上にお伺いを立てに来たのではありません。お伝えしに参りました」
ベアトリスの手が、針を持ったまま止まった。
「……もう三度も……」
「断られたのは、私が悪かったからです」
セドリックは、今度は目を逸らさなかった。
「王女殿下から伺いました。クララ嬢は、私を嫌って断ったのではありませんでした。母上の前では、私が何ひとつ自分で決められなくなる。それが嫌だったのだそうです」
「……それは、私のせいだと言いたいの」
「いいえ。決めずにいたのは、私です」
背筋を伸ばして言う息子の顔を、ベアトリスはまじまじと見た。こんな目をする子だっただろうか、という顔だった。
「私は、家のことも暮らしのことも、何ひとつ自分で決めてまいりませんでした。母上に伺い、母上に従って。それが親孝行だと思っておりました。母上に伺わずに決めて、最後までやり通したのは、今回の北の橋が初めてです」
「私は、あなたのためを思って」
「存じております。だからこそ、申し上げにくかったのです」
窓の外で、庭師が鋏を使う音がしていた。それ以外に音のない部屋だった。
ベアトリスは、布に刺したままの針に目を落とした。しばらくして、ぽつりと言った。
「あなたが領地へ発つ少し前に、王宮へ伺ったのです」
「母上が?」
「あなたに何を吹き込んだのか、殿下に問いただすつもりで。……問いただすどころか、聞かれたのは私のほうでした」
「何を、聞かれたのですか」
「あなたが自分のことを自分で決めるようになったら、私は何がしたいのか、と」
「……母上は、何と」
「答えられませんでしたよ」
ベアトリスは、膝の上の枠を指でなぞった。
「あなたが領地にいる間、屋敷は何ひとつ困りませんでした。誰も、私に何も聞きに来なかった。それで、ずっと考えておりました」
セドリックは、何も言えなかった。母がこんなふうに自分のことを話すのを、初めて聞いた。
「あなたは、殿下に何を聞かれたの」
「それは本当にあなたが決めたことか、それとも、そう思い込まされているだけか、と」
「……思い込み」
「私も、答えられませんでした。母上を悲しませたくない、と申し上げただけで。ですが、答えられなかったこと自体が、答えだったのだと思います」
「親子そろって、殿下に答えられなかったのね」
ベアトリスの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。それから、刺繍の枠を横に置いた。指先が、少し震えていた。
「クララ嬢がお受けくださったら、私たちは領地で暮らします。母上は、これまで通り王都の邸宅にお住まいください。季節ごとに必ず参ります。ですが、屋敷のことも領地のことも、これからは私が決めます」
「……私が、邪魔だと」
「そのようなことは、申しておりません」
セドリックは、母の目をまっすぐに見た。
「父上が亡くなったとき、母上が一人で全部を背負ってくださらなければ、この家は傾いておりました。私はそれを忘れておりません。ですから、もう背負わなくていいと申し上げているのです」
長い沈黙があった。ベアトリスは何度か口を開きかけ、そのたびにやめた。やがて、脇に置いた刺繍を見下ろしたまま、小さく言った。
「……あの人が亡くなってから、あなたしかいないと思っていました」
セドリックは、長椅子の脇に置かれた刺繍の枠に目をやった。張られた布の上で、白い小花がいくつも咲きかけていた。父が亡くなってから、母が自分のためだけに何かをしているのを、初めて見た。
「母上は、白い花は地味だと仰っていました」
「……それは、あの人の口癖でした。いつの間にか、私まで同じことを言うようになっていたのね」
セドリックは、しばらく黙って花を見ていた。それから、静かに言った。
「その刺繍、覚えております。子供の頃、母上の膝の上で、花が咲いていくのを見ておりました」
ベアトリスの肩が、小さく揺れた。
「母上には、母上のご生涯がございます。私にも、これから私の生涯があります」
返事はなかった。ただ、ベアトリスは一度だけ、はっきりとうなずいた。それから、脇に置いた枠を、もう一度膝の上に戻した。




