第三章 怒れる母君と、刺繍の枠
北の庭で王女と話した翌日の、夕食のあとだった。ヴァレンティ侯爵邸の居間では、ベアトリス・ヴァレンティが招待状の束をめくっていた。宛名の一枚ごとに、出すか出さないかの印をつけていく。慣れた手つきだった。
「母上。少し、よろしいですか」
「ちょうどよかったわ、セドリック。来月の園遊会だけれど、あなたの席はもう決めておきましたよ」
「その話ではなく」
「それから、領地の北の橋の件。雪解けの前に直しておきたいから、業者は去年と同じところにしましょう。あそこなら、私が話を通してありますから」
セドリックは、膝の上で両手を組んだ。北の庭で言われたことを、昨夜から何度も頭の中で繰り返してきた。自分の人生は、自分で決めなさい。
「母上。私は、クララ嬢に、もう一度求婚しようと思っております」
ベアトリスの手が止まった。
「……王女殿下とのご縁談は、どうなさるのです」
「殿下には、お見合いの席で、クララ嬢のことを申し上げました。殿下とのお話は、それで終わりました」
「……殿下の前で、ほかの方のお名前を?」
「はい。殿下は、お怒りになりませんでした。それはその方に言うことだろう、と。それから、自分の人生は自分で決めなさい、と」
ベアトリスは、しばらく息子の顔を見ていた。王家との縁談が、自分の知らないところで終わっていた。そのことを、ゆっくり飲み込んでいる顔だった。
「……ローゼン伯爵令嬢は、三度もお断りになったのでしょう」
「はい。ですが」
「三度断る方は、四度目も断りますよ。あなたが恥をかくだけです」
「それでも、私は」
「セドリック」
ベアトリスは招待状を置き、息子の顔をまっすぐに見た。
「お父様が生きていらしたら、王家とのご縁を、自分から手放すような真似はさせなかったでしょうね」
それで、終わりだった。
セドリックは口を開きかけ、閉じた。父の名前を出されると、いつもそうなる。喉の奥で言葉が固まって、出てこなくなる。
「……失礼いたしました」
立ち上がって一礼すると、母はもう次の招待状をめくっていた。
居間を出た廊下で、セドリックは長いこと立ち止まっていた。窓の外の暗い庭で、白い小花だけが、ぼんやりと浮かんで見えた。
◇
「ヴァレンティ侯爵家のベアトリス夫人が、拝謁を願い出ておられます」
その翌日の昼過ぎ、執務室に入ってきたユリウスがそう告げた。
「用件は?」
「ご子息のことで、と」
「……来たわね」
エレノアは扇を閉じた。侯爵殿が母君に話したのなら、次にここへ来るのは母君のほうだろうと、北の庭で別れたときから思っていた。ユリウスが、眼鏡の眉間を指で押した。
「お会いになりますか」
「会うわ。南の応接室に通して。あなたも同席してちょうだい」
「承知いたしました。……お茶は、ポットごとお持ちします」
「どうして?」
「長くなりそうですので」
南の応接室に入ると、ベアトリスはすでに立って待っていた。深く礼をとる所作に乱れはない。ただ、扇を握る指の節が白かった。
「お時間をいただき、恐れ入ります。先日は、息子がたいへんな失礼をいたしました」
「座ってちょうだい、ヴァレンティ前侯爵夫人。お見合いのことなら、もう済んだ話よ」
ベアトリスは腰を下ろしたが、背中は一度も椅子の背に触れなかった。
「殿下は息子に、自分のことは自分で決めよと仰ったそうでございますね」
「ええ、言ったわ。その前に、聞かせてちょうだい。何があったの?」
ベアトリスは、一瞬だけ言葉に詰まった。問いただしに来たのに、問われるとは思っていなかった顔だった。
「……昨夜、息子が、あの伯爵令嬢にもう一度求婚すると申しました」
「驚いたでしょう」
「驚きました。私の言うことに逆らうようなことを口にしたのは、初めてでございますから」
声は静かだった。静かなぶんだけ、奥にあるものが透けて見えた。
「殿下とのご縁談が流れたのは、息子の至らなさゆえと承知しております。ですが、どうして、よりにもよって、あの方なのでございましょう」
「クララ嬢のことは、どう思っているの?」
「三度も息子を袖にした方です。四度目があるとは思えません。息子が、また恥をかくだけでございます」
「侯爵殿が傷つくのが、心配なのね」
「母親でございますから」
ユリウスが茶器を置き、音を立てずに壁際へ下がった。ポットの口から、湯気が細く立っていた。
「では、夫人は、侯爵殿にどんな方と結婚してほしいの?」
ベアトリスは、少し考えてから答えた。
「家柄の釣り合う方。社交のできる方。屋敷のことを、きちんと取り仕切れる方」
「伯爵家なら、家柄は釣り合うわ。クララ嬢は、社交も屋敷のことも、きちんとできる方に見えたけれど」
「……それだけでは、足りないのでございます」
「何が足りないの?」
「あの子を、一人にしない方でなければ」
答えるまでに、間があった。エレノアは、その間を聞き逃さなかった。
「一人に、というのは?」
「夫が亡くなったのは、突然でございました」
ベアトリスは、膝の上の扇に目を落とした。
「前の晩まで、元気に食事をしておりました。朝になったら、冷たくなっておりました。あの子は、家督のことを何ひとつ教わらないうちに当主になりました。領地の者たちは、この家はもう駄目だと噂をいたしました」
「ええ」
「誰かが決めなければ、家は傾きます。だから私が決めました。屋敷のことも、領地のことも、あの子の予定も。そうしなければ、あの子を守れなかったのでございます」
「守れたの?」
「……家は、傾きませんでした」
そう答えてから、ベアトリスは口を閉じた。聞かれたのは、家のことではなかった。自分でも、それに気づいた顔だった。
エレノアは、そこを突かなかった。代わりに、別のことを尋ねた。
「もし侯爵殿がクララ嬢と結婚したら、屋敷のことは、誰が決めるの?」
「それは……嫁いでくる方と、分け合うことになりましょう」
「クララ嬢は、分け合う方かしら」
「いいえ。あの方は、ご自分で決める方です。昔から、そうでした」
言ってから、ベアトリスは小さく息をついた。
「そうなれば、私の決めることは、何もなくなりますわね」
「それが、嫌なのね」
「嫌、というのではございません。ただ……」
ベアトリスは言いかけて、扇に添えた手巾を握り直した。
「夫が亡くなってから、私には、決めることのほかに、何もございませんでしたので」
エレノアは、その手元を見ていた。握りしめられた手巾の隅に、白い小花の刺繍がのぞいている。糸の運びが細かく、ひと針ごとに癖があった。
「何もなかった、と言うけれど。その刺繍は? 工房の品には見えないわ」
「……これは、私が刺したものでございます。ずいぶん昔に」
「夫人が?」
「若い頃は、白い花ばかり刺しておりました。夫には、地味だと笑われましたけれど。夫が亡くなってからは、一度も針を持っておりません」
「侯爵殿も、白い花が好きだそうよ」
ベアトリスの手が、止まった。
「王宮の北の庭に、白い小花の花壇があるの。そこで話したとき、母君は白い花を地味だと言うけれど、自分はこちらのほうが好きだと言っていたわ」
「……あの子が」
「子供の頃、誰かの膝の上で、その花を見ていたんじゃないかしら」
ベアトリスは、手巾を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……それでも、あの伯爵令嬢とのご縁には、賛成いたしかねます」
「今日、賛成してほしいとは言わないわ」
エレノアは、扇を膝に置いた。
「その代わり、ひとつだけ持って帰ってちょうだい。侯爵殿が自分のことを自分で決めるようになったら、夫人は、何がしたい?」
「私が、何を」
「答えは、今日でなくていいわ」
ベアトリスは、何も言わなかった。やがて立ち上がり、来たときと同じ、隙のない礼をした。扉の前で一度だけ足を止め、握っていた手巾を、そっと袖の中にしまった。
◇
夫人が下がったあと、ユリウスが冷めた茶器を片付けながら言った。
「お茶は、ポットごとにしておいて正解でした」
「本当ね。二杯目まで空になったわ」
「お怒りのまま、お帰りになるかと思っておりましたが」
「怒っていたのは、最初だけよ」
「最初から、お怒りではなかったように見えました」
「どうして?」
「お怒りの方は、もっと声を張られます。夫人は声を落として、扇を握りしめておいででした」
「……怖かった、ということ?」
「私には、そう見えました」
エレノアは、思わずユリウスの顔を見た。この人は、部屋の隅に立っているだけで、いつも自分と同じものを見ている。ときどき、自分より先に。
「……よく見ているのね」
「仕事ですので」
「夫人は、宿題を持って帰ったわ。あとは、侯爵殿がもう一度話せるかどうかね」
「話せるとよろしいのですが」
「話せるわよ。たぶん」
「たぶん、でございますか」
「人の心に、確かなんてないもの」
ユリウスは何か言いかけて、結局、茶器を盆に載せる音だけを残した。




