第二章 三度の求婚と、断られ続けた理由
翌朝、エレノアが執務室に入ると、机の上にはもう書類が揃っていた。
「クララ・ローゼン伯爵令嬢について、お調べした通りです」
ユリウスが、一枚目を指で示した。
「侯爵とは、幼い頃からの知り合いです。侯爵からの求婚は三度。いずれも、ご本人がお断りになっています」
「ほかの縁談は?」
「いくつか来ております。どれも悪くないお話でしたが、すべてお断りに」
「全部?」
「全部です」
エレノアは、扇の先で書類の端を叩いた。侯爵殿の求婚を三度断り、ほかの縁談も全部断っている。侯爵殿が嫌いで断っただけなら、ほかの話まで断る理由はない。
「会ってみたいわ。王宮に招いてちょうだい」
「お招きの文は、今朝のうちに出せます」
「お願い。明日でいいわ」
「さようでございますか」
ユリウスの返事には、少しも信じていない響きがあった。明日まで待てるとは、思っていない顔だった。
◇
翌日、クララ・ローゼンが王宮を訪れた。
王宮の奥にある小さな応接室は、エレノアが私的な客を迎えるときに使う部屋だった。窓が東に向いていて、午前中はよく日が入る。
「王女殿下からお招きいただけるとは、思っておりませんでした」
クララ・ローゼンは、深く一礼してから顔を上げた。黒髪をひとつに結い上げ、淡い灰青色の瞳でまっすぐにこちらを見る。濃紺のドレスには飾りらしい飾りがなく、耳にも首元にも、宝石はひとつもなかった。慌てもしなければ、媚びもしない。その態度が、かえって好ましかった。
「急に呼び立てて、悪かったわね。どうぞ、座って」
「恐れ入ります」
「ヴァレンティ侯爵殿とのお見合いのことで、あなたに聞きたいことがあるの」
クララの表情が、わずかに動いた。
「……侯爵様が、何か」
「あなたのことを想っていると、白状したわ。私の目の前で」
「そうですか」
驚きはないようだった。クララは茶器に手を伸ばし、それから、やめた。
「何度も求婚をいただきました。三度、お断りしております」
「その理由、聞かせてもらえる?」
エレノアは扇を膝に置き、少しだけ身を乗り出した。相談事になると、どうしてもこうなる。クララは、しばらく黙ってから口を開いた。
「侯爵様を、嫌いなわけではございません」
「でも?」
「あの方は、ご自分では何ひとつお決めになりません。夕食の献立も、庭に植える花の種類も、私に贈る品の色まで。すべて、お母様に伺ってから決まります」
声に苛立ちはなかった。ただ、疲れた色があった。
「一度、お茶の席でこんなことがございました。私が窓を閉めたいと申し上げたら、あの方はまずお母様のほうをご覧になったのです。お母様が頷いてから、侍女に閉めさせました。窓ひとつです」
「……それは」
「お母様が嫌いなのではございません。あの方が、お母様の前では何ひとつご自分で決められなくなる。それが嫌なのです」
クララは、膝の上で両手を組んだ。
「あの方と結婚するということは、あの方のお母様と結婚するということです。私には、それができません」
エレノアは黙って聞いていた。テーブルの端に指を置き、頭の中で紙に線を引く。侯爵、母君、クララ。三角形ではない。二人の間に、大きな影がひとつ挟まっている図だった。
話を聞けば、分かる。この二人は、合わないのではない。間に挟まったものが、邪魔をしているだけだ。お見合いの席で侯爵殿の話を聞いていたときには見えなかったものが、クララの話で、ようやく形になった。
「ほかの縁談も、全部断ったそうね」
「……お調べになったのですね」
「どれも、悪くないお話だったと聞いたわ」
「……はい。良いお話ばかりでしたのに」
「どうして?」
クララは、組んだ手に目を落とした。しばらくして、小さく言った。
「ほかの方とお会いしても、気がつくと、侯爵様ならどう仰るだろうと考えておりました。……お母様に伺ってから、と仰るのでしょうけれど」
最後のひと言だけ、少し笑っていた。
「特別に、想っているのね」
クララは答えなかった。答えない、ということが答えだった。エレノアは、それ以上は突かなかった。
下がる間際、扉の前でクララが足を止めた。
「殿下。侯爵様は、良い方です。それだけは、申し上げておきます」
クララが去ったあとも、エレノアはその一言を、しばらく扇の骨でなぞるように考えていた。
◇
クララが訪ねてきた翌日、エレノアの執務室に、ユリウスがまた書類を運んできた。
「ヴァレンティ侯爵家について、お調べしました」
「早いのね」
「殿下が今日中にお尋ねになると思いましたので」
紙をめくると、先代侯爵の死去から現在までの経緯が、感情を挟まない筆致で並んでいた。夫を亡くしたベアトリス夫人が屋敷の采配を一手に引き受けるようになったこと。息子が家督を継いだあとも、その体制が変わらなかったこと。
「母君のほうは、どんな方なの?」
「社交界での評判は悪くありません。寄付にも熱心で、使用人への扱いも良いと聞きます。悪意のある方ではないでしょう」
「でしょうね。厄介なのは、そこだわ」
「ええ」
ユリウスは、書類の隅を指で示した。
「先代の葬儀の直後から、ご子息の公務の予定まで夫人がお決めになるようになっています。おそらく、息子が自分を必要としていると、心から信じておられる」
「思い込みだけどね」
「思い込みは厄介です。本人には、正しく見えていますから」
エレノアは顔を上げた。ユリウスは書類から目を離さない。
「……あなた、時々そういうことを言うわよね」
「そうでしょうか」
「まるで、身に覚えがあるみたいに」
「殿下の思い過ごしかと」
いつも通りの答えだった。エレノアは椅子から立ち上がり、扇を手に取った。
「侯爵殿を呼んでちょうだい」
「はい」
「今日中よ」
「……本日中に、でございますか」
「今度はお説教しなきゃ」
ユリウスは小さく息を吐いたが、止めはしなかった。彼はいつもそうだった。文句は言う。それから、必要な手配を全部済ませて、何事もなかった顔で戻ってくる。
◇
その日の夕方、セドリックは王宮の北の庭にやってきた。
北の庭には、白い小花ばかりを植えた花壇がある。華やかさでは南庭の薔薇にかなわず、足を止める者も少ない一角だった。人目を避けて話すには、ちょうどよかった。
「母上は、白い花は地味だと申します」
花壇の前で、セドリックがぽつりと言った。
「ですが私は、こちらのほうが好きなのです」
エレノアは少しだけ目を細めた。この人が、自分の好みを口にするのを初めて聞いた。
「クララ嬢は、あなたを嫌っているのではなかったわ」
「……では、なぜ」
「母君の前では、あなたが何ひとつ自分で決められなくなる。それが嫌なのだと言っていたわ」
セドリックの肩が、目に見えて落ちた。
「窓を閉めるかどうかさえ、母君の顔色を見たそうね」
「……覚えております」
「覚えていたの」
「はい。あのとき、クララ嬢が黙って窓を見ていたことも」
覚えていて、それでも変えられなかったのだ。エレノアは扇を閉じた。
「侯爵殿。母君の話ではなく、自分の言葉で話さなければ、あなたは誰にも選ばれないわ」
「分かってはいるのです」
「分かっているなら、どうして変わらないの?」
「母上を悲しませたくないのです。父が亡くなってから、母上は私だけを頼りにしておられる」
「それは、あなたが決めたこと? それとも、そう思い込まされているだけ?」
セドリックは答えられなかった。花壇の縁に視線を落としたまま、長いこと黙っている。
風が吹いて、白い小花が一斉に揺れた。
「ひとつだけ、教えてあげる」
エレノアは花壇に背を向けた。
「今、あなたは自分の好みを言ったわ。白い花のほうが好きだって。お見合いの席では、母君の話ばかりだったのに。ちゃんと、あなたの好きなものがあるじゃないの」
セドリックが顔を上げた。
「母君を捨てろとは言わないわ。ただ、自分の人生は、自分で決めなさい」
答えは返ってこなかった。回廊へ戻るエレノアの背中を、セドリックはずっと立ったまま見送っていた。白い花壇の前から、しばらく動かなかった。
庭師が、その様子を遠くから不思議そうに眺めていた。




