第一章 お見合いと、八割の「母上」
王宮の東の回廊は、朝の光がよく入る。磨き上げられた床に窓枠の影が等間隔に落ちていて、エレノア・アルディアは、その影を踏まないように歩く遊びをしながら、扇を手の中でくるくると回していた。
「殿下。動かさずにお持ちください」
半歩後ろから、ユリウス・ヴァイスの声がした。書類の束を抱えたまま、銀縁の眼鏡の奥からこちらを見ているのが、振り返らなくても分かる。
「分かってるわ」
「分かっていらっしゃる方は、回しません」
「緊張しているのよ。落ち着かないの」
「……そのお顔で緊張と仰られましても」
エレノアは足を止め、窓の下の水面に映る自分の顔を確かめた。
アルディア王国の第二王女、エレノア。
淡い蜂蜜色の髪が朝日に透けて、明るい青緑の瞳が、これから面白いことが始まると信じきっている人間の目をしている。
図星だった。扇をそっと持ち直してみる。
「だって、人のお見合いに立ち会うことなんて滅多にないでしょう」
「本日は、殿下ご自身のお見合いでございます」
「……そうかもしれないけど」
ユリウスが、眼鏡の眉間の部分を指で軽く押した。彼が疲れているときの癖だ。まだ朝なのに気の毒なことだと、エレノアは他人事のように思った。
「ヴァレンティ侯爵について、もう一度申し上げます。侯爵家は王都と領地に屋敷を持ち、財政は健全。ご当主は先代を亡くされてから家督を継がれ、領地経営にも目立った失点はございません」
「全部、あなたが調べたの?」
「……調べました」
「あらそう」
「どうせお尋ねになると思いましたので」
抱えられた書類の厚みを見て、エレノアは笑った。聞く前に答えが揃っている。この人といると、いつもそうだ。便利な人だと思う。
「殿下」
「何?」
「本日の縁談、進めるおつもりですか」
「会ってから考えるわ。会う前に決めていたら、相手に失礼でしょう」
迷いのない答えだった。ユリウスは何か言いかけて、結局、書類の角を揃え直しただけだった。揃える必要のない書類だった。
◇
王宮の南庭には、白い石造りの東屋がある。薔薇の垣根にぐるりと囲まれていて、茶会や、こういう顔合わせによく使われる場所だ。
案内されたとき、青年はもう立って待っていた。金茶色の髪に、緑の瞳。背が高く、姿勢がいい。貴公子という言葉が、そのまま服を着て立っているようだった。
「エレノア殿下。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。待たせてしまったかしら」
「いえ。早く着きすぎただけです」
セドリック・ヴァレンティは椅子を引いてエレノアを座らせ、自分はそのあとで腰を下ろした。侍女が茶を注ぐ間、口を挟まず静かに待っている。作法に隙がない。
「王都の新しい劇場には、もう足を運びました?」
「先月に一度。音がよく響くように造られていて、後ろの席でも台詞が聞き取れました」
「まあ、それは行かなくては。私、後ろの席だと寝てしまうの」
「それは、劇のほうに問題があるのでは」
エレノアは声を出して笑った。冗談も言える人らしい。
最初の四半刻ほどは、そうして穏やかに過ぎた。天気の話。庭の薔薇の話。どれも当たり障りがなく、かつ、きちんと会話として成立していた。
悪くない。案外いい縁になるかもしれない。エレノアは、そう思っていた。
「殿下は、庭園がお好きなのですね」
「ええ。特に薔薇が」
「母上も薔薇がお好きです」
その一言から、潮目が変わった。
「母上の庭には二十種ほど植わっておりまして。手入れにはたいへん厳しく、剪定の時期を一日違えただけで庭師が呼び出されるのです」
セドリックは、茶器に口をつけてから続けた。
「この茶葉も母上が選んだものをお持ちしました。渋みが出にくいのが良いと、母上が」
一息つく間もなく、また口を開く。
「先日も母上と話していたのですが」
エレノアは相槌を打ちながら、頭の中で数を数え始めた。三回。四回。
五回目で頬杖をつきそうになり、背後の侍女に小さく咳払いをされて姿勢を戻した。
「領地の運営方針も、基本は母上の意向に沿っております。母上は先代の頃から領地をよくご存じですので」
七回。
「休みの日はたいてい母上とご一緒します。母上は、私が一人で過ごすと気を揉まれるので」
九回。
扇を持つ手が、完全に止まっていた。
「侯爵殿」
やんわりと、言葉を挟む。
「先ほどから、母君の話ばかりですね」
「あ……失礼いたしました。つい」
セドリックは初めて言葉に詰まり、耳の先を赤くした。悪気はまったくない。それが分かるからこそ厄介だった。
エレノアはしばらくその顔を見つめてから、扇を膝の上に置いた。遠慮なら、もう十分にした。
「ところで、侯爵殿」
「はい」
「あなた、本当に私と結婚したいの?」
「もちろんです。母上も、王女殿下とのご縁なら申し分ないと――」
背後で、侍女が茶器を取り落としかけた。
「……また母君ね」
「あ……」
「先ほどから、母上が、母上が、と。そればかり」
エレノアは少しだけ首を傾げ、扇を開いた。口元を隠して、目線を合わせる。
「失礼ですけれど侯爵殿。母君さえいれば、妻はいらないのではなくて?」
「い、いえ! それは違います!」
思った以上に強く否定されて、エレノアのほうが少し驚いた。
「では、妻には何を求めているの?」
「それは……」
セドリックの口が一瞬止まる。
「え……あの……母上とうまくやってくれて、家を守ってくれて……」
「それ、侯爵殿の望み?」
「……」
「母君の望みではなく?」
沈黙が落ちた。
セドリックはしばらく考え込んでいたが、やがて困ったように眉を下げた。
「……自分が、何を望んでいるのか。考えたことがありませんでした」
「まあ」
「結婚とは、家のためにするものだと。そう思っていましたから」
エレノアは少しだけ表情をやわらげる。扇は膝の上に下ろした。
「では、一度もないの? 家のためではなく、あなた自身が、この人と結婚したいと思ったこと」
その瞬間、セドリックの顔が変わった。
ほんの少しだったが、エレノアにはわかった。
「あら。いるのね」
「……昔のことです」
「どなた?」
セドリックは観念したように息を吐いた。
「……申し訳ございません」
セドリックはカップを置いた。
「私には、幼い頃から想っていた方がおります。クララ・ローゼン伯爵令嬢と申します」
「あら」
エレノアは驚いたふりも、怒ったふりもしなかった。ただ、頭の中で紙が一枚増える音がした。
「三度求婚いたしました。三度、断られております。理由は、いまだに分かりません。もう終わったことです」
セドリックはうつむいた。
「母上に薦められるまま、殿下との縁談をお受けしました。不誠実だと分かってはいたのです」
顔を上げられずにいる青年を、エレノアは静かに見ていた。怒りは、不思議と湧いてこない。代わりに、目の前の案件がひとつ、形を変えていくのが見えた。お見合いが相談に変わった音がした。
「侯爵殿。それ、私に言うことではないわ」
「……はい」
「その方に、言うことなのでは? まったく、過去の想いには見えなくてよ」
セドリックが顔を上げた。緑の瞳に、これまでなかった色があった。
◇
東屋を出ると、少し離れた小径にユリウスが立っていた。書類を抱えたまま、こちらを見ている。
「いかがでしたか」
「侯爵殿には、好きな人がいるんですって」
「……それは」
「私との結婚より先に、片付けるべき恋があるということね」
落胆はなかった。それどころか、指先が扇の骨をとんとんと叩き始めている。ユリウスは、その指先をしばらく眺めていた。
「殿下。それは、よくない顔です」
「いい顔よ。クララ・ローゼン伯爵令嬢。その方のこと、少し調べてちょうだい」
「……それは、内務省の仕事ではございません」
「あら、断るの?」
「明日の朝までにお持ちします」
エレノアは笑って、先に歩き出した。
背中で、書類を持ち直す音がした。ユリウスがどんな顔でそれを言ったのか、振り返らなかったので分からなかった。




