第九十九話 天下の後
毛利が織田への臣従を受け入れてから、各地の動きが目に見えて変わり始めた。
それまで織田と距離を取り、どちらにつくべきか態度を決めていなかった者たちから、次々と使者が訪れるようになったのである。
ある者は領地の安堵を求めた。
ある者は人質を差し出すことを申し出た。
そしてある者は、織田への臣従を自ら願い出た。
景継の前にも、各地から届いた書状が山のように積まれていた。
一通を読む。
置く。
次を読む。
また置く。
しばらくそれを繰り返していた景継が、隣に座る信長へ顔を向けた。
「上様」
「何だ」
「最近、戦っていないのに領地が増えてません?」
信長は書状から目を上げない。
「今まで戦ったからだ」
「どういう意味です?」
「武田が滅び、毛利まで下った。それを見て、それでもわしと戦いたいと思う者がどれほどおる」
景継は手元の書状を見る。
確かに、その通りだった。
少し前までなら、織田に従うかどうか迷っていた者たちもいた。
織田は強い。
だが、まだ武田がいる。
毛利もいる。
他にも大きな勢力は存在する。
ならば急いで織田へ従う必要はない。
そう考える者がいても不思議ではなかった。
しかし今は違う。
武田はすでに滅びた。
そして西に巨大な勢力を築いていた毛利までが、信長本人と戦う前に臣従を選んだ。
それでも織田へ敵対するということは、いずれ自分たちのところへ織田の大軍が来る可能性を受け入れるということになる。
「なるほど」
景継が呟いた。
「戦わずに勝つ、ですか」
信長がようやく顔を上げる。
「少し違う」
「違います?」
「戦ったから、今は戦わずに済んでおる」
景継は少し考えた。
尾張から始まった織田の戦。
美濃。
畿内。
浅井。
朝倉。
武田。
そして毛利。
積み上げてきたものがあるからこそ、今になって名前だけで相手を動かせる。
「信用の逆みたいなものですね」
「何だそれは」
「上様に逆らうと大変なことになるという信用です」
「景継」
「はい」
「お前はわしを褒めておるのか」
「褒めてますよ」
「そうは聞こえん」
「気のせいです」
信長が景継を睨む。
景継は何事もなかったように次の書状へ手を伸ばした。
「それで、これはどうします?」
「従うというのであれば受け入れろ。ただし領地はそのままとは限らん」
「分かりました」
「人質も取れ」
「はい」
「それから――」
信長がさらに指示を出す。
景継はそれを聞きながら書き留めていく。
以前なら、こうした仕事をここまで任されることはなかった。
戦場へ行き。
相手を見て。
どう勝つかを考える。
それが景継の役割だった。
だが最近は違う。
誰を従わせるのか。
誰に土地を任せるのか。
どこに兵を置くのか。
どこから兵糧を運ぶのか。
戦う前と、戦った後。
その両方を見ることを求められている。
景継は筆を止めた。
「上様」
「今度は何だ」
「やっぱり私の仕事、増えてません?」
「増やしたと言っただろう」
「減らす予定は?」
「ない」
「即答ですか」
「天下を見ろと言ったはずだ」
「天下を見るのと書状を読むのは同じなんです?」
「その書状の向こうに天下がある」
景継が信長を見る。
「たまに格好いいこと言いますよね」
「たまにとは何だ」
景継は笑いながら次の書状を開いた。
◇◇◇
数日後。
信長は諸将を集めた。
秀吉と官兵衛はまだ中国地方の戦後処理に追われているため、その場にはいない。
だが光秀をはじめ、畿内にいる主だった者たちが集められていた。
景継も当然のように呼ばれている。
中央には、いつものように地図が広げられていた。
景継は地図を見ながら信長へ尋ねる。
「次はどこです?」
信長が景継を見る。
「何がだ」
「今日はその話でしょう。どこを攻めるのか」
「違う」
「違う?」
景継だけではない。
集まった者たちの何人かが信長を見る。
信長は地図の前へ座った。
「今日は、天下を取った後の話をする」
部屋が静かになった。
景継が口を開く。
「まだ取ってませんよ」
「だから今から考える」
「珍しいですね」
信長の眉が動く。
「どういう意味だ」
「上様なら取ってから考えると言うかと思いました」
「景継」
「すみません」
光秀がわずかに笑った。
信長は景継を一度睨んでから、地図へ視線を戻した。
「毛利は下った。各地からも従うという者が増えておる。この先、まだ戦はある。だが、これまでとは違う」
信長の指が地図上をゆっくりと動く。
「取るだけでは済まん」
誰も口を挟まない。
「天下を取れば、それを治めねばならん」
景継は黙って信長を見ていた。
少し前。
自分も同じことを考えるようになった。
戦って土地を奪うだけなら、勝てばいい。
だが、その後には人がいる。
村がある。
町がある。
商人がいる。
寺社もある。
長くその土地を治めてきた者たちもいる。
すべてを壊せば、新しいものを一から作らなければならない。
「わしは古いという理由だけで、すべてを壊すつもりはない」
信長が言った。
「だが同時に、古くから続いているというだけで残すつもりもない」
光秀が信長を見る。
「必要なら変える」
その言葉に、光秀が口を開いた。
「上様」
「何だ」
「変えることそのものに異論はございません」
「ならば何だ」
「急ぎすぎることを危惧しております」
信長の目が光秀へ向く。
光秀は続けた。
「一つの土地には、その土地で長く続いてきたやり方がございます。それを一度に変えれば、理屈では正しくとも、人がついて来られぬこともありましょう」
「ならば、ついて来させろ」
信長は即答した。
部屋の空気が少し変わった。
だが光秀は引かなかった。
「すべての者が、上様ほど早く歩けるわけではございません」
信長と光秀の視線が合う。
景継は二人を見た。
反論。
というより、意見の違いだった。
しばらくして信長が口を開く。
「だから、お前たちがおる」
光秀の目がわずかに動いた。
「わしが決めたものを、その土地に合わせて使える形にする。それがお前たちの仕事だ」
「……承知いたしました」
光秀が頭を下げる。
そこで話は終わった。
信長が怒鳴ることもなかった。
光秀がさらに反論することもなかった。
だが光秀は、しばらく地図を見ていた。
天下を取った後。
信長はどこまで、この国を変えるつもりなのか。
その答えは、まだ見えなかった。
「景継」
突然名前を呼ばれ、景継が顔を上げた。
「はい?」
「お前はどう思う」
「何がです?」
「聞いておらんかったのか」
「聞いてましたよ」
「ならば答えろ」
景継は少し考えた。
信長。
光秀。
二人の考えは、どちらも分かる。
「変える必要があるなら、変えればいいと思います」
光秀が景継を見る。
信長は黙って続きを待っている。
「ただ、一度に全部変える必要もないと思います」
「なぜだ」
「国を変えることが目的ではないでしょう?」
信長の目が少し細くなる。
「治めることが目的です」
景継は地図を見る。
「変えた方が治まるなら変える。今までのやり方を残した方が治まるなら残す。土地によって違ってもいいと思います」
光秀が尋ねる。
「統一された仕組みを作らなくてもよいと?」
「必要なところは統一すればいいでしょう。でも、何もかも同じにする必要がありますか?」
「では、何を基準にする」
「役に立つかどうかです」
景継はあっさり答えた。
「使えるものは使う。邪魔なら変える。それでいいのでは?」
信長の口元が上がった。
「お前らしい」
「褒めてます?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「嫌な考え方だと思っておる」
「上様にだけは言われたくありません」
今度は部屋の何人かが笑った。
張りつめかけていた空気が少し緩む。
光秀も小さく笑っていた。
◇◇◇
軍議が終わった後。
景継は廊下を歩いていた光秀を追いかけた。
「先生」
光秀が振り返る。
「何だ」
「さっき上様に反対しましたね」
「反対ではない。意見を述べただけだ」
「怒られると思いませんでした?」
光秀は少し黙った。
「少しはな」
景継が笑う。
「思ってたんですか」
「意見を求められて黙っている方が失礼だろう」
「それはそうですけど」
二人は並んで歩き始めた。
「でも先生の言っていることも分かりますよ」
「お前は上様の意見に近かったではないか」
「そうですか?」
「使えるものは使い、邪魔なら変える。上様と似ている」
景継は少し嫌そうな顔をした。
「似てます?」
「以前よりはな」
「先生にも色々教わったんですけど」
光秀が景継を見る。
「ならば半分は私のおかげだな」
「半分もですか?」
「不満か」
「もう少し私自身の努力も認めてください」
光秀が小さく笑った。
景継も笑う。
少なくとも景継には、光秀が何かに悩んでいるようには見えなかった。
いつもの先生だった。
冷静で。
少し厳しく。
それでも自分の意見を聞いてくれる。
「景継」
「はい」
「お前は随分と上様に重く使われるようになったな」
「仕事を押しつけられているだけですよ」
「それを重用という」
「先生から言ってくださいよ。少し減らせって」
「断る」
「即答ですか」
「今のうちに苦労しておけ」
「先生までそんなこと言うんですね」
光秀は笑った。
二人はそのまま歩いていった。
◇◇◇
その夜。
信長は一人、机に向かっていた。
昼間の軍議で使った地図はすでに片づけられている。
代わりに机の上には紙が置かれていた。
信長は筆を取る。
しばらく何も書かなかった。
前の生の記憶が戻ってから、時折考えることがある。
もし。
自分に何かあれば。
以前なら、それほど深く考えなかった。
自分が天下を取る。
そのために進む。
それだけだった。
だが、今は少し違う。
前の生で自分が死んだ後も、世は続いた。
自分がいなくなったからといって、すべてが止まるわけではない。
今の生でも同じだ。
戦で死ぬかもしれない。
病で倒れるかもしれない。
誰かに命を狙われる可能性もある。
何が起こるかなど、誰にも分からない。
そして今の織田は、あまりにも大きくなった。
尾張だけを治めていた頃とは違う。
自分一人が突然消えれば、それだけで多くの者が動く。
ある者は迷い。
ある者は争い。
ある者は好機だと考えるだろう。
それを放置するわけにはいかなかった。
信長は筆を動かした。
自分に万一のことがあった場合。
各方面の軍勢をどうするか。
誰がどこを押さえるか。
敵が動いた場合、誰が対応するか。
領地をどう扱うか。
家中をどうまとめるか。
一つずつ書いていく。
遺書。
というより。
指示書に近かった。
自分がいなくなった瞬間に、織田家が止まらないためのもの。
書いては止まり。
考え。
また書く。
かなりの時間が経った。
やがて信長は筆を置いた。
一通目を読み返す。
まだ足りない。
書かなければならないことはいくらでもある。
信長は新しい紙を取った。
そこへ何かを書こうとして。
手が止まった。
頭に浮かんだのは、一人の男だった。
景継。
信長は白い紙を見つめた。
昼間も自分の隣にいた。
天下を取った後について意見を求めれば、自分とも光秀とも少し違う答えを出した。
使えるものを使う。
変えるべきなら変える。
残すべきなら残す。
一つに決めつけない。
そして。
前の生でも。
長い時間を耐え。
最後まで生き残った男。
信長は筆先を紙へ近づけた。
だが。
何も書かなかった。
「……まだ早いか」
信長は筆を置いた。
自分は生きている。
天下も目前まで来ている。
今から死んだ後のことばかり考えてどうする。
信長は先ほどまで書いていた指示書をまとめた。
だが。
最後に取り出した白い紙だけは捨てなかった。
何も書かれていないまま、机の端へ置く。
信長は立ち上がった。
部屋を出る直前。
一度だけ振り返った。
机の端には。
何も書かれていない一枚の紙が残っていた。
第五章・完
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