第百話 天下を治める者たち
毛利が臣従して以降、織田家を取り巻く状況は大きく変わっていた。
戦がなくなったわけではない。
各地では今も兵が動き、織田に従わぬ者との争いが続いている。
だが、その戦の一つ一つに信長が出向く必要はなくなっていた。
柴田勝家が動く。
羽柴秀吉が動く。
黒田官兵衛が秀吉を支える。
そして明智光秀もまた、任された土地と兵を動かしている。
誰か一人がいなければ戦えない軍ではない。
それぞれの将が自ら考え、それぞれの場所で勝ちを積み重ねる。
かつて尾張の一勢力にすぎなかった織田家は、すでにそこまで大きくなっていた。
そんな中。
景継は戦場ではなく、信長の側にいた。
「……またですか」
景継の前に、新たな書状が置かれた。
「読め」
「朝から何通目です?」
「数えておらん」
「私は数えてますよ。これで二十三通目です」
「ならば二十四通目も読め」
信長がもう一通を置く。
景継はそれを見て、大きく息を吐いた。
「上様」
「何だ」
「私、本当に戦場へ行かなくていいんです?」
「行きたいのか」
「最近、敵より書状と戦っている気がするんですが」
「書状には斬られん。喜べ」
「そういう問題ですか?」
「死ぬ心配が減った」
「代わりに別の意味で倒れそうです」
信長は聞いていない。
景継は諦めて書状を開いた。
各地から送られてくる報告は多い。
兵の動き。
領地を巡る争い。
織田への臣従を申し出る者。
逆に、まだ態度を決めかねている者。
兵糧の不足。
道の整備。
領地を任された家臣同士の問題。
以前の景継なら、知らなくても困らなかったようなことばかりだった。
だが今は違う。
信長は景継にそれらを読ませ、時には意見まで求める。
「これは?」
信長が尋ねた。
景継は書状をもう一度読む。
「今は放っておいていいと思います」
「理由は」
「急いで決めさせる必要がありません。周りが織田に従えば、ここもいずれ態度を決めます」
「従わなければ?」
「その時に考えます」
信長が景継を見る。
「相変わらずだな」
「何がです?」
「すぐに決めようとせん」
「決めなくていいことまで決める必要あります?」
「ないな」
「ならいいでしょう」
信長は次の書状へ手を伸ばした。
景継もまた、自分の前にある書状を読む。
こうした時間が、最近は増えていた。
戦場へ出たい気持ちがないわけではない。
だが同時に、景継自身も気づき始めている。
戦場から見える天下と、ここから見える天下は違う。
一つの戦に勝つことだけを考えていては見えないものが、確かにあった。
◇◇◇
その日の夕刻。
景継は城内を歩いている途中で光秀を見つけた。
「先生」
光秀が振り返る。
「景継か」
「今、戻ったんです?」
「ああ」
「お疲れ様です」
光秀は信長から命じられた仕事を終え、報告のために戻ってきたところだった。
二人はそのまま並んで歩く。
「景継」
「はい」
「最近は上様の側にいることが多いそうだな」
「多いどころじゃないですよ」
景継は嫌そうな顔をする。
「朝から晩まで書状です」
「良いことではないか」
「どこがです?」
「上様の側で天下を見る機会など、誰にでも与えられるものではない」
「先生と代わりましょうか?」
「断る」
「みんな断りますね」
光秀が小さく笑った。
少し歩いたところで、光秀が突然尋ねた。
「景継」
「はい?」
「上様が天下を取った後、お前はどうする」
景継の足が少し遅くなった。
「どうするって?」
「そのままの意味だ。戦が終わった後、お前は何をするつもりだ」
景継はすぐには答えられなかった。
考えたことがなかった。
これまで目の前に戦があった。
次の敵がいた。
倒しても、またその次がいた。
だから考える必要もなかった。
「……分かりませんね」
「考えたことがないのか」
「ないです」
「そうか」
「先生は?」
景継が逆に尋ねた。
光秀は少し考える。
「治める」
「天下を?」
「私一人で天下を治めるという意味ではない」
「分かってますよ」
光秀はわずかに笑った。
「戦が終われば、次に必要になるのは治める者だ。土地を奪う者ではなく、土地を安定させる者が必要になる」
「前にも似たような話をしましたね」
「ああ」
「先生は、上様なら天下を取れると思ってるんです?」
光秀はすぐに答えた。
「思っている」
迷いはなかった。
「上様ほど天下を取ることのできる方は、今の世にはおらぬだろう」
景継は少し意外そうに光秀を見る。
「そこまで言います?」
「長く側で見てきたからこそ分かる」
「じゃあ」
景継は少し考えてから尋ねた。
「天下を治める方としては?」
光秀はわずかに考えた。
「それは、これから分かることだ」
「まだ分からない?」
「天下を取ることと、天下を治めることは違う」
光秀は静かに言った。
「上様がどのような天下を作られるのか。それを見なければ答えようがない」
景継は頷いた。
「確かに」
それ以上、光秀は何も言わなかった。
景継も深くは聞かなかった。
◇◇◇
数日後。
景継はまた信長の側にいた。
信長が書状を読み、景継が地図に印をつけている。
以前なら信長は、敵が動けばすぐにこちらも動こうとすることが多かった。
だが最近は少し違う。
待つことが増えた。
相手の出方を見る。
家臣に任せる。
そして、もし失敗した場合に次にどうするのかまで先に考えるようになっている。
景継は筆を止めた。
「上様」
「何だ」
「前の生を思い出してから、少し変わりました?」
信長の手が止まる。
「どこがだ」
「それが分からないから聞いてるんです」
「なら聞くな」
「分からないから聞くんでしょう」
信長が景継を見る。
「具体的に言え」
「前より慎重になったというか」
景継は考えながら続ける。
「前だったら、そのまま行ってたところで一度止まることが増えた気がします」
「悪いか」
「悪いとは言ってません」
「ならよい」
「前の生の影響です?」
信長は少し考えた。
「多少はな」
「やっぱり」
景継が信長へ身体を向ける。
「そろそろ教えてくださいよ」
「何をだ」
「前の生です」
「嫌だ」
「まだ教えてくれないんですか?」
「言ったはずだ。知りたければ自分で考えろ」
「分かるわけないでしょう」
「お前は頭が切れるのではなかったか」
「情報がなければ分かりませんよ」
信長の口元が少し上がる。
「ならば諦めろ」
「絶対楽しんでますよね」
「何のことだ」
景継は信長を見る。
最近、時々こんな顔をする。
自分だけが何かを知っていて、それを景継が知らないことを楽しんでいるような顔。
「少しくらい手掛かりくださいよ」
「嫌だ」
「けちですね」
「景継」
「はい」
「仕事を増やすぞ」
「すみませんでした」
景継はすぐに地図へ向き直った。
信長はそんな景継を見て、わずかに笑った。
◇◇◇
それから間もなく。
信長は再び諸将を集めた。
各地の戦況を確認するための軍議。
だが、それだけではなかった。
信長の前には、日本各地を記した大きな地図が広げられている。
「天下が一つになった後の配置を考える」
信長が言った。
集まった者たちが地図を見る。
「まだ敵は残っておりますが」
家臣の一人が言う。
「分かっておる」
信長は答えた。
「だからこそ今から考える」
信長の指が北へ動く。
「勝家には、引き続き北を見てもらう」
柴田勝家が頭を下げる。
「はっ」
次に西。
「秀吉は中国をまとめろ。毛利を従わせただけで終わりではない」
秀吉はまだ中国地方にいる。
そのため、この場にはいない。
だが信長の考えはすでに決まっていた。
「中国が落ち着けば、さらにその先も見てもらう」
景継は黙って地図を見る。
信長の指が次に畿内へ戻った。
「光秀」
「はっ」
光秀が頭を下げる。
「お前には天下を取った後も働いてもらう」
「無論でございます」
「畿内だけを見るな」
光秀が顔を上げる。
「もっと広く見ろ。畿内を治められる者なら、他でも使える」
「はっ」
「今まで以上に働いてもらうぞ」
「望むところでございます」
景継は光秀を見た。
信長は間違いなく光秀を評価している。
だからこそ、大きな役目を任せようとしている。
そして。
信長の指が景継へ向いた。
「景継」
「はい」
「お前はわしの側だ」
景継は嫌そうな顔をした。
「またです?」
「何が不満だ」
「せめてどこか一つくらい任せてもらえないんですか」
「駄目だ」
「なんでです?」
「お前に一つを任せれば、そこしか見られん」
景継の表情が変わる。
信長は続けた。
「お前には全部を見てもらう」
部屋が少し静かになった。
景継は信長を見る。
「全部?」
「そうだ」
「随分簡単に言いますね」
「簡単ではないからお前にやらせる」
景継は言葉を失った。
信長がそこまで自分に求めているとは思っていなかった。
「上様」
「何だ」
「失敗したら?」
「その時はわしがいる」
景継は少しだけ安心したように頷いた。
「では、上様が何とかしてくれるんですね」
「自分で何とかしろ」
「今、上様がいるって言ったじゃないですか」
「いるとは言った。助けるとは言っておらん」
景継は信長を見る。
「ひどくないですか?」
「失敗する前から助けてもらうことを考えるな」
「失敗した後の話をしてるんですけど」
「ならば、その時に考えろ」
「結局それですか」
信長は何事もなかったように地図へ視線を戻した。
景継も小さく息を吐き、再び地図を見る。
自分に一つの土地ではなく、天下全体を見ろと言う。
簡単な役目ではない。
だが信長がそこまで自分に求めているのなら、やってみるしかなかった。
◇◇◇
軍議が終わった。
諸将が部屋から出ていく。
景継は光秀と並んで歩いていた。
「先生」
「何だ」
「かなり任されましたね」
「お前ほどではない」
「私は仕事を押しつけられているだけです」
「それを任されていると言うのだ」
景継が嫌そうな顔をする。
「先生まで上様と同じこと言わないでください」
「上様の側で天下全体を見るのだ。不満を言う立場ではあるまい」
「先生と代わります?」
「断る」
「やっぱり」
光秀が笑う。
景継もつられて笑った。
少し前に聞いた、天下を取った後の話。
景継はふと思い出した。
「先生」
「今度は何だ」
「上様、先生のことかなり評価してますよね」
「急に何だ」
「いや。さっきの話を聞いてて思っただけです」
光秀は少しだけ前を見た。
「ありがたいことだ」
その声に迷いはなかった。
「なら、もっと働かないとな」
「私は減らしたいですけどね」
「お前はもっと働け」
「先生まで……」
二人の声が廊下に響いた。
◇◇◇
その日の夜。
光秀は一人、地図を広げていた。
信長から任された役目。
決して小さくはない。
自分が評価されていることも分かっている。
不満などなかった。
むしろ、これほど自分を使ってくれる主君に出会えたことを、ありがたいとさえ思っている。
光秀は地図へ視線を落とした。
天下は近い。
かつては遠くにあったものが、今では手を伸ばせば届くところまで来ている。
信長ならば取れる。
その考えは変わらない。
いや。
今では確信に近かった。
織田信長が天下を取る。
自分もそれを支える。
光秀は地図の上へ指を置いた。
まだ織田に従っていない土地がある。
戦も終わってはいない。
天下を取った後のことを考えるのも必要だが、その前にやるべきことはいくらでもあった。
「まずはこちらか」
光秀の指が地図上を動く。
次に自分が何をするべきか。
どこへ兵を置くべきか。
誰に何を任せるべきか。
一つずつ確認していく。
やがて光秀は一通の書状を手に取った。
内容を読み、筆を取る。
「さて……もう少し働くとするか」
夜はまだ長い。
光秀は再び、目の前の仕事へ戻った。




