第九十七話 知らない記憶
その夜、信長は再び夢を見た。
前に見たものと同じようで、少し違っていた。
広い戦場だった。
見覚えのない兵たちが大地を埋め、その向こうにもまた大軍がいる。掲げられている旗も、兵たちが身につけているものも、信長が知る戦場とは違っていた。
だが今回は、それをただ眺めているだけではなかった。
信長はその軍勢の中にいた。
自分の前に何人もの男たちが並んでいる。
誰一人として知らない。
顔を見ても名前は出てこない。
それなのに、信長は彼らへ命令していた。
右へ兵を回せ。
正面は動くな。
敵が出てくるまで待て。
声が聞こえる。
自分の声だった。
だが、織田信長としてそのような命令を出した覚えはない。
場面が変わった。
今度は建物の中だった。
何人もの男たちと地図を囲んでいる。
誰かが意見を述べ、それを別の男が否定する。
信長は黙って聞いていた。
いや。
違う。
聞いたことがある。
次に誰が何を言うのか。
なぜか分かる。
そして、自分が次に何を言うのかまで知っている。
信長が口を開いた。
その瞬間。
再び景色が変わった。
馬を走らせている。
後ろから兵が続いてくる。
遠くでは火が上がっていた。
次の瞬間には、また別の戦場。
勝っている。
次は敗れている。
さらに次では、誰かと笑って酒を飲んでいた。
知らない。
何一つ知らないはずだった。
それなのに。
すべてが懐かしかった。
信長は夢の中で立ち止まった。
目の前を兵たちが駆けていく。
その光景を見ながら、信長の中に一つの疑問が生まれた。
これは本当に夢なのか。
その瞬間、目が覚めた。
信長はゆっくり身体を起こした。
外はまだ暗い。
前に見た夢よりも、はっきりと覚えている。
信長は額へ手を当てた。
「……またか」
夢ならば、もっと曖昧でもいいはずだった。
だが今回は違う。
戦場の匂いまで思い出せる。
馬が地面を蹴る音も、男たちの顔も覚えている。
何より妙なのは、夢の中で自分が何をするのかを知っていたことだった。
初めて見る光景なのに、その先を知っている。
信長はしばらく考え込んだ。
そして一人の男を思い浮かべた。
景継。
前の生の記憶を持つ男。
かつて司馬懿仲達として生きたという男。
信長はすぐに人を呼んだ。
「明日、景継を呼べ」
◇◇◇
翌日。
「上様、呼びました?」
景継が部屋へ入ってきた。
「座れ」
「はい」
景継は信長の前へ座った。
いつもなら地図や書状が置かれている机の上には、今日は何もない。
景継はすぐにそれに気づいた。
「仕事じゃないんですか?」
「違う」
「珍しいですね」
「一つ聞きたいことがある」
信長の声がいつもより真剣だった。
景継も少し表情を変える。
「何です?」
信長はすぐには話さなかった。
どう尋ねるべきか考えているようだった。
やがて口を開く。
「お前が前の生を思い出し始めた時、夢を見ることはあったか?」
景継の表情が止まった。
「夢?」
「そうだ」
「ありましたよ」
信長の目がわずかに動く。
「どんな夢だ」
「前の生のものです。最初は何なのか分からないものもありましたけど」
「知らない場所だったか?」
景継は少し考える。
「今の私にとっては知らない場所でした。でも、なぜか知っているように感じました」
信長は黙って聞いている。
「知らない人間を見たのに、そいつが何者なのか分かりそうになったことは?」
「ありました」
「初めて見るはずの出来事なのに、その先で何が起こるのか分かったことは?」
今度は景継が答えなかった。
信長を見る。
「上様」
「何だ」
「何があったんです?」
信長は少し黙った。
景継が待つ。
やがて信長が口を開いた。
「夢を見た」
「夢?」
「一度ではない」
景継の表情から、先ほどまでの軽さが消えた。
「どんな夢です?」
「知らぬ戦場だ」
信長は昨夜までに見たものを話した。
見覚えのない兵。
知らない旗。
知らない男たち。
その者たちへ命令している自分。
そして、初めて見るはずなのに何が起こるのかを知っている感覚。
景継は一度も口を挟まなかった。
すべてを聞き終えてから尋ねる。
「いつからです?」
「毛利との戦が終わった頃からだ」
「それ以前は?」
「覚えがない」
景継は考え込んだ。
信長が尋ねる。
「どう思う」
「分かりません」
「お前にも同じことがあったのだろう」
「ありました。でも、それだけで同じとは言えません」
信長の眉がわずかに動く。
景継は続けた。
「夢を見る人なんていくらでもいます。それに、私と同じように前の生があるとしても、今の話だけでは何も分かりません」
「ならば、わしの考えすぎか」
「それも分かりません」
「役に立たんな」
「呼んでおいてひどくないですか?」
信長は景継を睨んだ。
景継は少し笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「ただ」
「何だ」
「私の時と似ている部分はあります」
信長は何も言わない。
景継は信長を見る。
「上様にも、前の生があるのかもしれません」
部屋が静かになった。
信長はその言葉を否定しなかった。
以前なら笑っていたかもしれない。
だが目の前に、実際に前世の記憶を持つ景継がいる。
ならば。
同じことが自分に起きないとは言い切れない。
「もしそうなら」
信長が言った。
「わしは誰だった」
「それを私に聞かれても分かりませんよ」
「お前は司馬懿だったのであろう」
「私は自分のことだから分かったんです」
「役に立たんな」
「二回目ですよ、それ」
景継は呆れたように息を吐いた。
「夢の中で名前は?」
「まだ分からん」
「場所は?」
「分からん」
「一緒にいた人間は?」
「知らん」
「何も分からないじゃないですか」
「だからお前を呼んだのだ」
「私も分かりませんよ」
二人はしばらく見つめ合った。
やがて景継が小さく笑う。
「でも」
「何だ」
「もし本当にそうなら、少し面白いですね」
「何がだ」
「上様まで転生者だったら」
「面白がるな」
「私だけじゃなかったことになりますから」
信長は鼻を鳴らした。
「まだ決まったわけではない」
「そうですね」
景継は頷いた。
「今は待つしかないと思います」
「待つ?」
「私も一度に全部思い出したわけじゃありませんから」
その言葉に、信長の目がわずかに細くなった。
「少しずつだったのか」
「はい。断片だったものが少しずつ繋がっていった感じです」
「どれくらいかかった」
「正確には覚えていません。でも、無理に思い出そうとはしませんでした」
「なぜだ」
「思い出そうとして思い出せるものでもなかったので」
景継は少し考えてから続ける。
「それに、今の自分まで前の生に引っ張られそうで、最初は少し怖かったです」
信長が景継を見る。
「怖かった?」
「意外ですか?」
「少しな」
「私だって怖いことくらいありますよ」
景継は苦笑した。
「昨日まで林道景継だったのに、突然、自分が別の人生を何十年も生きていたことを思い出すんですから」
信長は黙った。
それは今まで考えたことのない話だった。
景継は司馬懿の記憶を持っている。
信長はそれを知っていた。
だが。
記憶を取り戻した景継自身が何を感じたのかまで、深く聞いたことはなかった。
「景継」
「はい」
「お前は今、どちらなのだ」
「どちら?」
「司馬懿なのか、林道景継なのか」
景継はすぐには答えなかった。
少し考える。
「両方だと思っています」
「両方?」
「はい」
景継は自分の手を見る。
「私は前の生で司馬懿仲達でした。その記憶もあります。戦ったことも、失敗したことも、人と争ったことも覚えています」
信長は黙って聞いている。
「でも、今の私は林道景継です。この時代で生まれて、この時代で育った。弥兵衛と出会って、先生と出会って、上様とも出会った」
景継は顔を上げた。
「どちらか片方だけが本当の自分というわけではないと思います」
「前の生を思い出してもか」
「思い出したからといって、今まで生きてきた自分が消えるわけじゃありませんから」
信長はしばらく何も言わなかった。
「ならば」
信長が静かに言う。
「わしに前の生があったとしても、わしはわしか」
「少なくとも私はそうでした」
「そうか」
信長はそれだけ言った。
景継は少し不思議そうに信長を見る。
「随分と素直ですね」
「帰れ」
「何でです?」
「話は終わった」
「急にいつもの上様に戻りましたね」
「仕事がある」
「私にも?」
「当然だ」
「では最初から仕事じゃないと言わないでください」
景継は立ち上がった。
部屋を出る直前、振り返る。
「上様」
「何だ」
「また夢を見たら教えてください」
「なぜだ」
「私なら少しは分かるかもしれません」
信長が景継を見る。
「先ほど何も分からんと言ったではないか」
「今は、ですよ」
景継は少し笑った。
「何か思い出せば変わるでしょう」
そう言って部屋を出ていった。
信長は一人残った。
景継が座っていた場所をしばらく見た後、ゆっくり息を吐いた。
「前の生、か」
自分の口から出た言葉が、妙に重く感じられた。
◇◇◇
それから数日。
信長の見るものは、夢だけではなくなっていった。
地図を見ていた時だった。
信長の視界に、一瞬だけ別の地図が重なった。
見たことのない地名。
知らない川。
知らない城。
信長が目を瞬くと、それは消えた。
別の日。
家臣と話していた時。
その顔に、一瞬だけ別の男の姿が重なった。
知らない男だった。
だが胸の奥から、強い懐かしさが込み上げた。
また別の日。
馬へ乗った瞬間。
知らない戦場を駆けた感覚が蘇った。
それらは、すぐに消える。
だが。
一つだけ。
日に日に強くなっていくものがあった。
天下。
その言葉に対する感覚だった。
今の信長も天下を求めている。
尾張から始まり。
美濃を取り。
畿内へ進み。
多くの敵を倒してきた。
だが記憶の中にいる自分もまた、何か巨大なものを求め続けていた。
敵を倒し。
人を集め。
国を広げ。
さらに先へ進もうとしている。
似ている。
あまりにも。
「……わしか?」
ある夜。
信長は一人で呟いた。
記憶の中にいる男を、別の誰かだとは思えなくなっていた。
あれは自分だ。
顔も。
名も。
まだはっきりとは分からない。
それでも。
そこで考えていることが分かる。
誰を警戒しているのか。
なぜ兵を動かしたのか。
なぜその男を許したのか。
なぜ別の男を殺したのか。
すべてが、自分の判断として理解できる。
夢を見ているのではない。
他人の人生を覗いているのでもない。
自分が経験したことを思い出している。
信長は少しずつ、そう考えるようになっていた。
◇◇◇
そして。
再び夜が来た。
信長は夢の中にいた。
今度は戦場ではなかった。
一つの部屋。
何人もの男たちがいる。
誰かが話している。
別の誰かが笑っている。
信長はその中央に座っていた。
見覚えのない者たち。
だが以前とは違った。
一人を見る。
何かが浮かぶ。
まだ名前にはならない。
だが、そいつがどういう男だったのかが分かる。
別の男を見る。
そいつとの間に何があったのか。
断片が浮かぶ。
また一人。
また一人。
今まで何の繋がりもなく現れていた人間たちが、少しずつ一つの場所へ集まり始めている。
場面が変わった。
戦場。
次の戦場。
さらに別の戦場。
以前なら一つずつ独立していた光景だった。
今は違う。
前と後がある。
なぜ戦ったのか。
その前に何があったのか。
その後どうなったのか。
少しずつ分かる。
一本の道になり始めていた。
信長は夢の中で、その光景を見続けた。
勝った。
負けた。
逃げた。
追った。
裏切られた。
人を得た。
人を失った。
国が広がった。
敵が増えた。
それでも止まらなかった。
もっと先へ。
さらに先へ。
何かを求め続けた。
天下。
その言葉が浮かんだ。
信長は立ち止まった。
その瞬間。
無数の光景が一つに重なった。
そして。
誰かが自分を呼んだ。
今まで聞き取れなかった声だった。
信長は振り返る。
今度は。
ほんの少しだけ聞こえた。
名前。
自分を呼ぶ名。
だが。
すべてを聞き取る前に。
信長は目を覚ました。
「……!」
勢いよく身体を起こす。
息が乱れていた。
しばらく何もできなかった。
信長は暗い部屋の中で、自分の手を見る。
分かる。
もう。
ほとんど分かっている。
あれは夢ではない。
自分の記憶だ。
そして。
それまで別々だった記憶が、今夜初めて一つの生として繋がり始めた。
自分が誰だったのか。
何を求めて生きたのか。
どんな者たちと戦ったのか。
答えは。
すぐそこまで来ている。
信長はゆっくり顔を上げた。
「……もう少しか」
静かな部屋の中。
答える者はいなかった。




