第九十六話 天下の先
毛利が織田への臣従を受け入れた。
その知らせは、戦場にいた者たちだけではなく、各地へ広がっていった。
中国地方に巨大な勢力を築いてきた毛利が、領地の一部を差し出し、人質を出したうえで織田へ従う。
それが意味するものは大きい。
織田にとって、西に存在していた最大の敵が消えたのだ。
だが、信長に勝利を喜んでいる暇はなかった。
毛利との条件がまとまってから間もなく、諸将を集めた軍議が開かれた。
景継が部屋へ入ると、すでに秀吉、官兵衛、光秀らが集まっている。
中央には大きな地図が広げられていた。
「来たか」
信長が景継を見る。
「遅れました?」
「いや。座れ」
景継は光秀の近くへ座った。
信長が全員を見渡す。
「毛利は下った」
誰も口を挟まない。
「だが、終わりではない」
信長の指が地図上を動く。
毛利が従ったからといって、日本すべてが織田のものになったわけではない。
各地には、まだ信長に従っていない勢力が残っている。
それだけではない。
手に入れた土地を誰が治めるのか。
従った者をどう扱うのか。
軍をどこへ置くのか。
新たに得た領地を維持するための道や兵糧をどうするのか。
戦が終われば、次には別の問題が待っている。
信長は秀吉を見る。
「秀吉」
「はっ」
「お前はしばらく中国に残れ」
秀吉が頭を下げる。
「毛利との境を定めろ。こちらへ渡される土地についても、お前が見ろ」
「承知いたしました」
「官兵衛」
「はっ」
「秀吉を助けろ」
官兵衛も静かに頭を下げた。
「お任せください」
景継は二人を見る。
毛利との戦いが終わっても、秀吉と官兵衛の仕事は終わらないらしい。
次に信長は光秀へ視線を向けた。
「光秀」
「はっ」
「お前にも戻ってから仕事を与える。畿内のことも含め、整理せねばならんことが多い」
「承知いたしました」
光秀が頭を下げる。
最後に。
信長が景継を見る。
「景継」
「はい」
「お前は戻れ」
景継は少し首を傾げた。
「どこへです?」
「わしのところだ」
「……上様のところ?」
「そうだ」
景継は少し考えた。
「私はどこかを攻めるわけではないんですか?」
「今のところはな」
「またですか」
信長の眉が動く。
「不満か」
「少し」
秀吉が笑いを堪えている。
景継は続けた。
「せっかく三千も連れてきたんですよ」
「戻せ」
「簡単に言いますね」
「兵は必要になればまた集めればよい」
「それはそうですが」
信長は景継を見た。
「戦だけできる者なら他にもおる」
景継が黙る。
「これから先、必要になるのはそれだけではない」
信長の指が地図全体をなぞった。
「一つの城をどう落とすか。一つの敵をどう倒すか。それだけを考えておればよい時期は、いずれ終わる」
景継は信長の指を目で追った。
「天下を取った後のことですか?」
「取る前から考えておかねば遅い」
信長は当然のように答えた。
景継は少しだけ笑う。
「上様」
「何だ」
「最近、戦より治める話の方が増えてません?」
「天下を取ろうとしているのだから当然だ」
「前はもっと、攻める話ばかりだった気がします」
「景継」
「はい」
「戻ったら仕事を増やすぞ」
「すみませんでした」
秀吉がとうとう笑った。
光秀も小さく口元を緩めている。
軍議はそのまま続いた。
◇◇◇
毛利との戦が終わっても、景継たちはすぐに何もかも放り出して帰ることはできなかった。
特に問題となったのが、毛利から織田へ渡される土地だった。
どこまでを毛利に残すのか。
どこからを織田が直接押さえるのか。
さらに、その土地にいる国人たちをどう扱うのか。
「全部取り上げればいいのでは?」
ある家臣がそう言った時。
景継は地図を見ながら首を横に振った。
「それでは毛利を残した意味がありません」
信長が景継を見る。
「続けろ」
景継は地図上の毛利領を指した。
「毛利から土地を奪いすぎれば、毛利は自分の領内すら治められなくなる可能性があります」
「弱くなるなら都合がよいのでは?」
別の者が尋ねた。
「弱くしすぎるのも困ります」
景継は答えた。
「毛利を残すのは、西を治めるためでもあるのでしょう?」
信長は何も言わない。
それを肯定と受け取り、景継は続けた。
「毛利が自分の領地を治められなくなれば、反乱や争いが起きるかもしれない。そのたびに織田が兵を出すのであれば、何のために毛利を残したのか分かりません」
官兵衛が静かに頷いた。
「確かに」
「ですが、力を残しすぎれば再び敵になる可能性がある」
景継の指が地図上を動く。
「ですから、逆らえない程度に弱くする。ただし、自分たちの土地を治められる程度の力は残す。そのくらいがいいのでは?」
しばらく沈黙があった。
やがて信長が口を開く。
「随分と嫌なことを考えるようになったな」
景継が顔を上げる。
「上様に言われたくありません」
「何だと」
「畿内を治めろと言ったのは上様でしょう」
「それとこれに何の関係がある」
「ありますよ。あれで散々、人を治める難しさを知ったんですから」
景継は地図を見る。
以前なら、毛利の力をどこまで削れば二度と戦えなくなるかを考えていたかもしれない。
だが今は違う。
敵ではなくなった後の毛利をどう使うか。
その土地に住む者たちをどう治めるか。
そこまで考えなければならない。
光秀が景継を見る。
「少しは役に立ったようだな」
「先生までそう言います?」
「教えた甲斐があった」
「先生に教えてもらったことだけじゃありませんよ」
「では返してもらおうか」
「何をです?」
「教えたことをだ」
景継が一瞬黙った。
「無理でしょう」
光秀が小さく笑った。
その様子を信長が見ている。
やがて信長が言った。
「景継」
「はい」
「お前は戻ったら、わしの側にいろ」
先ほども言われたことだった。
だが今度は、少し意味が違って聞こえた。
「何をすれば?」
「見ろ」
「何をです?」
「全部だ」
景継は信長を見る。
「随分と大きく出ましたね」
「一つの戦場だけを見るな。一つの国だけを見るな。天下を見ろ」
信長は地図全体へ視線を向けた。
「どこに兵が必要か。どこに銭が必要か。誰を使うべきか。誰に何を任せるべきか。戦だけではない」
景継は黙って聞いていた。
「お前は戦場では、相手の一手だけを見ておらんだろう」
「まあ、そうですね」
「ならば天下でも同じことをやれ」
景継は地図を見る。
広い。
これまで自分が見てきた戦場とは比べものにならない。
一つの判断で動く人間の数も違う。
「簡単に言いますね」
「簡単だとは言っておらん」
「失敗したら?」
「その時に考えろ」
景継は思わず信長を見る。
「そこは上様が何とかしてくれるところでは?」
「自分で何とかしろ」
「厳しいですね」
「天下を見るのであろう?」
「いつの間に私が見ることになったんです?」
「今決めた」
景継はため息をついた。
だが。
嫌ではなかった。
◇◇◇
それから数日後。
景継たちは東へ戻り始めた。
秀吉と官兵衛は中国地方に残った。
毛利との領地の境を定め、こちらへ渡される土地を整理するためだった。
別れ際。
景継は官兵衛を見る。
「黒田殿」
「何でしょう」
「本当に敵の城へ一人で行かないでくださいね」
官兵衛が苦笑する。
「まだ言われますか」
「また捕まったら、今度は助けに行きませんよ」
「そう申されながら、来られるのでしょう?」
景継は少し黙った。
秀吉が横から笑う。
「これは黒田殿の勝ちですな」
「何の勝負です?」
「さあ」
景継は呆れながら馬へ乗った。
「では、また」
「はい」
官兵衛が頭を下げる。
「次にお会いする時には、中国も少し静かになっているでしょう」
「そう願います」
景継たちは東へ向かった。
毛利との戦は終わった。
だが、信長の歩みは止まらない。
景継自身もまた、一つの戦場だけを見る立場から、少しずつ別の場所へ進み始めていた。
◇◇◇
その夜。
信長は眠っていた。
どれほど時間が経ったのかは分からない。
気がつくと、信長は戦場に立っていた。
だが。
見覚えのない戦場だった。
地形が違う。
兵の姿も違う。
掲げられている旗も、信長が知るものではない。
大勢の兵が動いている。
馬が駆ける。
怒号が響く。
遠くでは土煙が上がっていた。
何者かが自分の横を駆け抜けていく。
信長は周囲を見る。
知らない。
こんな場所へ来たことはない。
それなのに。
胸の奥に妙な感覚があった。
初めて見るはずなのに、初めてではないような気がする。
誰かが叫んだ。
自分へ向けて。
何かを。
だが、聞き取れない。
信長が振り返ろうとした瞬間。
目が覚めた。
「……」
信長は身体を起こした。
部屋の中は暗い。
聞こえるのは、外にいる警護の者の気配くらいだった。
夢。
そう思った。
信長は額へ手を当てる。
妙に鮮明だった。
戦場の空気。
馬の音。
兵の声。
そして、あの感覚。
信長はしばらく暗闇を見ていた。
「……何だ、今のは」
当然。
答える者はいなかった。
◇◇◇
翌日。
景継は信長のもとへ呼ばれていた。
二人の前には、また地図と書状が広げられている。
「戻って早々これですか」
景継が言った。
「嫌なら帰れ」
「帰っていいんです?」
「仕事を持って帰れ」
「それは帰る意味がありませんね」
景継は諦めて書状を取った。
各地から届いた報告。
従う者。
まだ態度を決めていない者。
兵を必要としている場所。
物資を必要としている場所。
一つずつ目を通していく。
信長も別の書状を読んでいた。
しばらくして景継が口を開く。
「前の生でも思いましたが、土地を広げるだけでは国は治まりませんね」
信長の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
景継は気づかず続ける。
「取った後の方が面倒なくらいです。誰に任せるのか、どこまで任せるのか。力を持たせすぎても困りますし、持たせなさすぎても――」
そこで景継が顔を上げた。
信長が自分を見ていた。
「上様?」
「……何だ」
「いえ。こちらが聞きたいんですが」
「何をだ」
「今、何かありました?」
「何もない」
景継の目が少し細くなる。
「本当ですか?」
「しつこいぞ」
「ならいいですけど」
景継は再び書状へ目を落とした。
信長も手元へ視線を戻す。
だが。
文字が頭に入ってこなかった。
前の生。
景継がそう口にした瞬間。
昨夜の光景が蘇った。
見知らぬ戦場。
見知らぬ兵。
そして。
説明のできない懐かしさ。
信長は景継を見る。
景継は何も気づかず、書状を読んでいた。
「景継」
「はい?」
「お前は前の生を、どれほど覚えておる」
景継が顔を上げる。
「急にどうしたんです?」
「答えろ」
景継は少し考えた。
「かなり覚えていますよ」
「最初からか?」
「いいえ」
信長の目がわずかに変わった。
「いつ思い出した」
「少しずつです。最初から全部分かっていたわけではありません」
信長は黙った。
景継が不思議そうに見る。
「本当にどうしたんです?」
「何でもない」
「またそれですか」
「仕事をしろ」
「上様が話しかけたんでしょう」
景継はそう言いながら、再び書状へ戻った。
信長は何も答えなかった。
昨夜の夢が、もう一度頭をよぎる。
知らないはずの場所。
知らないはずの兵。
それなのに、なぜか知っているような感覚。
そして景継は言った。
前の生の記憶も、最初からすべて戻ったわけではなかったと。
信長はしばらく黙っていた。
やがて小さく眉を寄せる。
「……何なのだ、これは」
景継が顔を上げた。
「何か言いました?」
「何も言っておらん」
「言いましたよ」
「聞き間違いだ」
「そうですか?」
景継は納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。
信長も再び書状へ目を落とした。
だが、その日。
昨夜見た戦場の光景が頭から消えることはなかった。




