第九十五話 毛利の決断
備中高松城を囲む水は、以前よりさらに広がっていた。
遠くから見れば、城が湖の中に取り残されているようにも見える。
景継は馬上からその光景を眺め、しばらく言葉を失っていた。
「これは……」
隣にいた弥兵衛が尋ねる。
「どうされました?」
「聞いてはいましたが、実際に見ると随分とひどいことをしますね」
「攻めたのは羽柴様と黒田様ですが」
「だから言えるんですよ」
景継は少し笑った。
正面から城壁を越えるのではない。
城を水の中へ閉じ込め、兵糧と時間を奪う。
力で壊すのではなく、城そのものを戦えない状態へ追い込んでいる。
やがて秀吉軍の陣が見えてきた。
景継たちの到着はすでに伝わっていたらしく、陣へ入るとすぐに秀吉と官兵衛が姿を見せた。
「ようやく来ましたな、林道殿」
秀吉が笑う。
「随分と楽しそうですね」
「待っておりましたからな」
「私ではなく、援軍をでしょう?」
「両方ということにしておきましょう」
景継は馬を降りると、官兵衛を見る。
「黒田殿も無事でしたか」
「無事ですが、なぜそのようなことを?」
「敵方へ勝手に行っていないか心配していました」
官兵衛の表情がわずかに止まる。
秀吉が吹き出した。
「有岡城のことですか」
「ええ。あれは一度で十分です」
「私も好きで捕らえられたわけではございませんが」
「今度は先に相談してください」
「必要になれば」
「そこは『分かりました』でしょう」
三人の間に小さな笑いが起きた。
だが、それも長くは続かなかった。
秀吉が地図を広げる。
「こちらです」
景継と官兵衛が地図を囲んだ。
高松城。
秀吉軍。
そして、その西。
毛利本隊。
「思っていたより近いですね」
景継が言った。
「すでに毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らが動いております」
官兵衛が答える。
「数は?」
「我らより多いと見ております」
「攻めてきましたか?」
「まだです」
景継の視線が止まった。
「まだ?」
秀吉が頷く。
「こちらが高松城を囲んでから、毛利本隊は近くまで来ております。ですが、すぐに決戦を仕掛けてはこなかった」
景継は地図を見る。
高松城を救うために来た。
ならば急いで秀吉軍を退けたいはずだ。
それでも動かない。
「こちらを見ていますね」
官兵衛が景継を見る。
「やはりそう思われますか」
「ええ。毛利も分かっているのでしょう。秀吉殿が援軍を求めることくらいは」
「そして実際に求めました」
秀吉が言った。
景継は頷いた。
「なら、毛利が知りたいのは援軍の中身です」
誰が来るのか。
何人来るのか。
どれほどの速さで来るのか。
それを見極めるまでは、大きく動かない。
毛利もまた、戦う前に相手を見ている。
官兵衛が尋ねた。
「林道殿なら、どうします?」
「何をです?」
「毛利を動かす方法です」
景継は地図を見た。
しばらく考えた後、首を横に振る。
「今は何もしません」
秀吉の眉が上がった。
「何もしない?」
「はい」
「林道殿が?」
「どういう意味です?」
「いや、何か策を出すものだと思っておりましたので」
官兵衛もわずかに笑っている。
景継は二人を見た。
「私を何だと思ってるんです?」
「策を考えるのが好きな方」
官兵衛が答える。
「黒田殿には言われたくありません」
景継はもう一度地図へ目を落とした。
「今は下手に触らない方がいいでしょう」
「なぜです?」
「毛利が見ているのは、もう私たちだけではないからです」
秀吉が眉を寄せる。
「では誰を?」
景継は地図の東を指した。
「上様です」
二人の表情が変わった。
「上様自身が西へ向かっている。その知らせが毛利へ届けば、こちらから何かしなくても状況は変わります」
官兵衛が静かに頷く。
「確かに」
「なら、その反応を見てからでいい。今こちらが余計な策を使えば、かえって毛利に判断する材料を与えます」
秀吉が腕を組んだ。
「何もしないことも策ということですか」
景継は首を横に振った。
「違います」
「違う?」
「本当に何もしないだけです」
秀吉が景継を見た。
官兵衛も見た。
「何です?」
「いや」
秀吉が笑う。
「林道殿も変わったものですな」
景継は少し考えた。
確かに、以前の自分なら何かをしようとしたかもしれない。
偽の情報を流す。
相手の内部を揺らす。
兵を動かして反応を見る。
だが、策は使えばいいというものではない。
必要がなければ使わない。
それもまた、一つの判断だった。
「畿内で人の話ばかり聞かされていましたからね」
景継が言った。
「少しは我慢することを覚えたのかもしれません」
◇◇◇
景継の到着から間もなく、その知らせは毛利方にも届いた。
毛利の陣。
輝元を中心に、吉川元春と小早川隆景らが集まっていた。
「林道景継が到着したとのことです」
報告を聞いた元春の表情が険しくなる。
「兵は?」
「およそ三千」
「三千か」
それだけならば、戦況を決定づける数ではない。
だが問題は、林道景継という男そのものだった。
以前から毛利の内部へ手を伸ばし、国人を揺さぶり、情報を使ってこちらの動きを探ってきた。
毛利にとっては、すでに知らない名ではない。
「何をしている?」
隆景が尋ねた。
「今のところ、目立った動きはございません」
「何も?」
「はい。羽柴軍へ合流した後は、兵を休ませております」
元春が鼻を鳴らした。
「何か企んでおるのだろう」
「かもしれませぬ」
隆景は否定しなかった。
しかし、気になることは別にあった。
「明智は?」
「西へ向かっております」
「兵数は」
「確認中にございます」
隆景は黙った。
一つ。
また一つ。
織田の将が集まってくる。
だが、次の報告はそれまでとは意味が違った。
「申し上げます」
別の家臣が入ってきた。
「織田信長が京を発ったとのこと」
その場の空気が変わった。
輝元が顔を上げる。
「信長本人が?」
「はい。西へ向かっております」
元春の目が鋭くなった。
隆景は何も言わず、地図へ視線を落とした。
秀吉。
官兵衛。
景継。
光秀。
そして信長。
織田の力が、高松へ集まり始めている。
元春が口を開いた。
「好都合ではないか」
輝元が元春を見る。
「好都合?」
「信長本人が出てくるのであれば、ここで叩けばよい」
隆景が静かに元春を見る。
「簡単に申されますな」
「恐れてどうする」
「恐れているのではありません」
隆景は地図上の高松城を見る。
「勝てる戦なのかを考えております」
「兵ならこちらにもいる」
「兵だけの話ではない」
秀吉軍だけならば、まだ戦えた。
だが、援軍が次々と来る。
その最後に信長本人まで来る。
しかも織田には、まだ他にも軍勢がある。
「ここで勝てたとして、その次は?」
隆景が尋ねる。
元春が黙る。
「織田は一度負ければ終わる相手ではありませぬ。次が来ます。その次も来るでしょう」
「ならば頭を下げろと?」
「家を残すために必要ならば」
元春の表情が険しくなった。
「まだ負けてもおらぬ」
「その通りです」
隆景は頷いた。
「だからこそ、今なら条件を選べる」
負けてからでは遅い。
城を奪われ。
兵を失い。
領地へ踏み込まれてから和議を求めれば、条件はさらに悪くなる。
信長本人が到着する前。
まだ毛利が大軍を保っている今なら。
交渉できる。
輝元は二人を見た。
すぐには答えを出さなかった。
◇◇◇
翌日。
秀吉の陣へ一人の使者が訪れた。
「毛利家より参りました」
秀吉の表情が変わる。
官兵衛と景継も同席していた。
「何の用だ」
使者は深く頭を下げた。
「和議について、お話しさせていただきたく」
秀吉が官兵衛を見る。
官兵衛は景継を見た。
景継は何も言わない。
本当に動いた。
こちらから何も仕掛けていない。
信長が来る。
ただそれだけで。
毛利が動いた。
「条件は?」
秀吉が尋ねる。
使者が毛利側の考えを伝えていく。
戦を止める。
領地についても話し合う。
高松城についても譲歩する。
秀吉は最後まで聞いた。
「分かった」
使者が顔を上げる。
「では」
「わしだけでは決められぬ」
秀吉が言った。
「上様へ伝える」
「承知いたしました」
使者が下がる。
しばらくして、秀吉が景継を見た。
「本当に何もせずに来ましたな」
「私が呼んだわけではありませんよ」
「分かっております」
官兵衛が静かに言った。
「毛利は、上様が到着する前に話をまとめたいのでしょう」
「でしょうね」
景継も頷いた。
「上様が到着し、さらに軍勢が増えれば、毛利の立場はもっと悪くなる」
秀吉はすぐに書状を用意させた。
毛利から和議の申し出。
その条件。
現在の戦況。
すべてが信長へ送られた。
◇◇◇
返事は早かった。
信長から届いた書状を秀吉が開く。
官兵衛と景継が待つ。
読み進めていた秀吉が、やがて苦笑した。
「上様らしい」
「何と?」
景継が尋ねる。
秀吉が書状を渡した。
景継が読む。
毛利の提示した条件では足りない。
領地を割譲すること。
織田へ臣従すること。
今後、織田へ敵対する勢力を支援しないこと。
そして。
毛利側から人質を差し出すこと。
景継は書状を読み終えた。
「随分と取りますね」
「しかし」
官兵衛が言った。
「毛利そのものを滅ぼすとは書いておりません」
景継もそこが気になった。
「上様に確認しますか?」
秀吉が尋ねる。
景継は少し考えた。
「私が行きます」
◇◇◇
景継は信長の軍勢と途中で合流した。
すでに信長は西へかなり進んでいる。
本陣へ入ると、信長は景継を見るなり言った。
「何だ」
「毛利のことです」
「書いた通りだ」
「一つ聞きたいことがあります」
「言え」
景継は信長を見る。
「毛利は残すんですか?」
「そうだ」
即答だった。
「滅ぼさない?」
「なぜ滅ぼす」
景継は少し意外に思った。
「これまで随分と邪魔をされましたから」
「邪魔をした者をすべて滅ぼして何になる」
信長は地図へ目を向けた。
「西を治める者は必要だ」
景継も地図を見る。
「毛利に任せると?」
「従うのであれば使えばよい」
信長の指が毛利の領地へ触れる。
「土地を削る。力も削ぐ。人質も取る。その上でわしに従うというのであれば、毛利の名まで消す必要はない」
「また逆らえば?」
信長は景継を見る。
「その時は滅ぼす」
景継は少し笑った。
「上様らしいですね」
「何がだ」
「最後のところです」
信長は鼻で笑った。
景継は改めて地図を見る。
以前の信長なら。
もっと違う答えを出したのではないか。
そう思った。
だが今。
信長が見ているのは一つの戦ではない。
天下全体だった。
敵を滅ぼすことが目的ではない。
従わせ。
使い。
その先を治める。
景継自身が畿内で学んだことと、どこか似ている。
「何だ」
信長が尋ねた。
「いえ」
「言え」
「上様も人を治めることを考えるんだなと」
「景継」
「はい」
「お前はわしを何だと思っておる」
「戦が好きな方」
「斬るぞ」
「冗談です」
景継が笑った。
信長は呆れたように景継を見ていた。
◇◇◇
信長の条件が毛利へ伝えられた。
毛利の陣では、再び重い沈黙が流れた。
領地を失う。
人質を出す。
そして。
織田へ臣従する。
それは、これまで中国に大きな勢力を築いてきた毛利にとって、簡単に受け入れられる条件ではなかった。
「認められぬ」
元春が言った。
「これでは毛利が織田の下につくことになる」
隆景が答える。
「その通りです」
「ならばなぜ黙っておる」
「他に何がございます?」
元春が隆景を見る。
「戦う」
「勝てますか」
「やってみなければ分からぬ」
「負ければ?」
元春は答えなかった。
隆景は輝元を見る。
「今なら家は残ります」
輝元は黙っている。
「領地は失います。人質も出す。織田へ頭も下げねばならぬ」
隆景は続けた。
「ですが、毛利は残る」
元春が拳を握った。
「元就公が築かれたものを……」
「だからこそです」
隆景の声が少し強くなった。
「すべて失うわけにはいきませぬ」
その言葉の後。
誰も話さなくなった。
輝元は地図を見る。
祖父、元就から受け継いだ毛利。
広大な領地。
多くの国人。
兵。
城。
そのすべてを賭けて信長と戦うのか。
それとも。
一部を失ってでも家を残すのか。
長い沈黙の末。
輝元が口を開いた。
「……受けよう」
元春が顔を上げた。
「輝元」
「叔父上」
輝元は元春を見る。
「毛利を終わらせるわけにはいきませぬ」
元春は何も言わなかった。
やがて。
ゆっくりと目を閉じた。
隆景も深く頭を下げる。
毛利の決断が下された。
◇◇◇
数日後。
その知らせが信長のもとへ届いた。
「毛利、条件を受け入れるとのこと」
信長は報告を聞き、地図の前へ立った。
景継も近くにいる。
信長は毛利を示す駒へ手を伸ばした。
景継はその手を見る。
浅井。
朝倉。
武田。
これまで敵が滅びるたび。
地図から駒が消えていった。
だが今回は違った。
信長は毛利の駒を取り上げると、地図の外へは出さなかった。
少しだけ位置を動かし。
その向きを変えた。
織田の駒と。
同じ方向へ。
景継はその光景を黙って見ていた。
「終わりましたね」
「何がだ」
「毛利との戦いです」
「そうだな」
「随分とあっさりしていますね」
「喜べと?」
「少しくらいは」
信長は地図全体を見た。
景継もその視線を追う。
武田は消えた。
毛利も屈した。
織田へ正面から抗える巨大な勢力は、以前とは比べものにならないほど少なくなっている。
天下。
その言葉が。
以前よりずっと近く感じられた。
「上様」
「何だ」
「本当に近づきましたね」
信長が景継を見る。
「何がだ」
「天下です」
信長はしばらく何も言わなかった。
やがて。
地図上の別の場所へ手を伸ばした。
「次だ」
景継が思わず信長を見る。
「まだ行くんですか?」
「当然だ」
「少しくらい休んでもいいでしょう」
「天下を取ってから休めばよい」
「取った後の方が忙しいと思いますけど」
信長の口元が上がった。
「ならば死ぬまで休めんな」
景継は苦笑した。
だが。
信長の目はすでに毛利を見ていなかった。
さらにその先。
まだ自分の手に入っていない土地を見ている。
「景継」
「はい」
信長の指が地図の上を動いた。
「次へ行くぞ」
天下は。
もう遠い場所にはなかった。




