第九十四話 信長、動く
毛利本隊が動いた。
その知らせが届いてから、織田方の動きは早かった。
備中高松城では、羽柴秀吉と黒田官兵衛が毛利の大軍と向き合おうとしている。城は水に囲まれつつあるが、城を落とすより先に毛利本隊が到着すれば、秀吉軍は高松城と毛利軍の双方を相手にしなければならない。
そして、秀吉からの援軍要請を受けた信長は、自ら中国へ向かうことを決めた。
「本当に行かれるんですね」
景継が尋ねると、信長は書状から目を上げることなく答えた。
「何度聞く」
「二度目です」
「ならば三度目は聞くな」
「分かりました」
景継は素直に引き下がった。
信長の前には大量の書状が並んでいる。誰を動かすのか。どれほどの兵を集めるのか。兵糧をどこから運ぶのか。
信長自身が動くとなれば、数百、数千の兵を動かすのとは話が違う。各地へ次々と命令が出されていた。
「景継」
「はい」
「お前も支度しておけと言ったな」
「言われました」
「兵はどれほど動かせる」
景継は少し考えた。
「急ぐなら三千ほど。時間をいただければ、もう少し」
「三千でいい」
「では、私も中国へ?」
「そうだ」
景継の眉が少し上がった。
「今度は行かせてもらえるんですね」
「毛利本隊が出てきたからな」
信長がようやく景継を見る。
「秀吉だけに任せるには大きすぎる」
景継は地図へ目を向けた。
毛利とは以前にも戦っている。こちらから情報を流して相手を動かそうとしたが、逆にこちらがどこを見ているのかまで探られた。
決して単純な相手ではない。
「ただし、お前はわしとは別に動け」
「別に?」
「先に兵を整えろ。準備ができ次第、西へ向かえ」
「上様は?」
「わしも後から行く」
景継は頷いた。
「承知しました」
そのまま部屋を出ようとしたところで、信長が呼び止めた。
「景継」
「はい?」
「毛利と戦ったことがあるな」
「あります」
「どうだった」
景継は少し考えてから答えた。
「面倒な相手でした」
「それだけか」
「では、かなり面倒な相手でした」
信長が鼻で笑う。
「力だけではありません。こちらが何を考えているのかまで考えてくる。それに、一度こちらとやり合っています」
「お前のやり方も知られているか」
「ある程度は」
「ならばどうする」
景継はすぐには答えなかった。
「まだ決めません」
信長の目が細くなる。
「なぜだ」
「毛利本隊を実際に見ていませんから。相手も見ずに策を決めれば、その策を使うために戦うことになります」
信長はしばらく景継を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「それでいい」
◇◇◇
景継はすぐに出陣の準備を始めた。
兵を集め、武具を確認し、兵糧を用意する。さらに西へ向かうための道を確かめ、途中で必要になる物資の手配も進めていく。
久しぶりの大規模な出陣だった。
畿内の統治を任されていた間、景継は刀では解決できない問題ばかりを相手にしてきた。
商人、農民、寺社、武士。それぞれ違う事情を抱えた者たちをまとめる経験は無駄ではなかった。
それでも、兵たちが集まっていく姿を見ると、どこか懐かしさを感じてしまう。
「若様」
弥兵衛がやってきた。
「準備が整いました」
「早かったですね」
「若様が急げと申されましたので」
「言いましたね」
景継は集まった兵を見る。
およそ三千。信長の本隊ほどではないが、先行する軍勢としては十分だった。
「出ます」
「はっ」
景継が馬へ乗ろうとした時、別の使者が駆けてきた。
「若様!」
景継が振り返る。
「何です?」
「明智様も軍勢を整えておられるとのことです」
「先生も?」
「はい。上様より出陣の支度を命じられたとのこと」
景継は少しだけ考えた。
光秀も動く。
すでに中国にいる秀吉と官兵衛。これから向かう信長と光秀。そして自分。
毛利との戦いへ向けて、織田の主だった将たちが次々と動き始めている。
「随分と大きな戦になりそうですね」
「はい」
弥兵衛が答える。
景継は前へ向き直った。
「行きましょう」
「はっ」
三千の軍勢が西へ向かって動き始めた。
◇◇◇
その頃、光秀もまた出陣の準備を進めていた。
兵を集め、武具を整え、必要な兵糧を用意する。命令を受けた家臣たちが慌ただしく動き、次々と準備を整えていく。
「殿」
家臣が声をかけた。
「何だ」
「軍勢の準備、予定どおり進んでおります」
「そうか」
「いつでも動けます」
光秀は頷いた。
「命があり次第、出る」
「はっ」
家臣が去っていく。
光秀は再び手元の書状へ目を落とした。
◇◇◇
景継は西へ進んでいた。
急ぎすぎれば兵が疲れる。しかし遅すぎれば、景継たちが到着する前に秀吉と毛利の戦いが始まってしまう。
兵の状態を見ながら行軍速度を調整していく。
その途中、秀吉のもとから何度か報告が届いた。
毛利本隊は確実に高松へ近づいている。しかし、すぐに秀吉軍へ攻撃を仕掛けてきたわけではない。
高松城を囲む秀吉軍と、それを救援しようとする毛利軍。
双方が互いの出方を見ているようだった。
「黒田殿も忙しいでしょうね」
景継が書状を読みながら言った。
弥兵衛が尋ねる。
「ご心配ですか?」
「少し」
以前、官兵衛は荒木村重を説得するため、自ら有岡城へ入り、そのまま戻らなかった。
あの時のことを思えば、官兵衛が敵方へ直接出向くと聞くだけで嫌な予感がする。
「今度は勝手に敵のところへ行かないでほしいものです」
「黒田様なら、あり得るのでは?」
「やめてください」
弥兵衛が笑った。景継も少し笑ったが、すぐに表情を戻す。
「毛利はまだ動きませんか」
「大きな動きはないとのことです」
「なら、見ているんでしょうね」
「何をです?」
「秀吉殿を。それと、こちらの援軍を」
毛利側も分かっているはずだ。
秀吉が援軍を求める可能性も、織田がそれに応える可能性も考えているだろう。
ならば、信長が自ら動いたこともいずれ伝わる。
景継は地図を畳んだ。
「さて、毛利はどうしますかね」
◇◇◇
一方、信長も安土を発った。
目指すのは中国。
ただし、これから毛利と戦う軍勢のすべてがすでに集まっているわけではない。後続の兵は準備が整い次第、順次西へ向かわせることになっていた。
信長自身は先に京へ入った。
宿所は本能寺。
京へ入った際の宿所として、信長が使うことのある寺だった。
夕刻、信長は供回りの者たちとともに本能寺へ入った。
連れている人数は、これから毛利と戦うために集められる軍勢とは比べものにならないほど少ない。
だが、信長は特に気にする様子もなかった。
ここは京であり、すでに織田の力が強く及ぶ場所である。軍勢が整えば、そのまま西へ向かえばいい。
◇◇◇
夜。
本能寺では、信長が各地から届いた書状を読んでいた。
高松城の状況。秀吉軍の動き。毛利本隊の位置。そして各地から集まりつつある軍勢。
一通を読み終えると、次の書状へ手を伸ばす。
それを何度か繰り返したところで、信長はようやく筆を置いた。
夜はすでに深くなっている。
外から聞こえるのは、時折警護の者が歩く音くらいだった。
信長は立ち上がると、外へ目を向けた。
京の夜には、戦場とは違う静けさが広がっている。
毛利を崩す。
中国を押さえる。
その先には、さらに広い天下がある。
しばらく外を眺めていた信長は、やがて部屋へ戻った。
灯りが消えた。
◇◇◇
同じ頃、明智軍も夜道を進んでいた。
多くの兵が列を作り、松明の明かりが暗闇の中を長く伸びている。馬の蹄と兵たちの足音が、静かな夜道に響いていた。
家臣が光秀へ尋ねる。
「このまま進みますか」
「そうだ」
光秀は短く答えた。
それ以上の言葉はなかった。
明智軍は、そのまま夜道を進んでいった。
◇◇◇
翌朝。
本能寺の境内へ朝の光が差し込み、門が開かれた。
家臣たちが慌ただしく行き交い始める中、信長もすでに起きていた。
「支度をせよ」
「はっ」
「西へ向かう」
その一言で、家臣たちが一斉に動き始めた。
馬が用意され、供回りの者たちも出立の準備を整えていく。
やがて信長は本能寺を発った。
向かう先は西。
羽柴秀吉が待つ、中国だった。
◇◇◇
信長が京を発ったという知らせが景継のもとへ届いたのは、その日のうちだった。
「上様も動かれました」
弥兵衛が言う。
「そうですか」
景継は地図を広げた。
すでに中国にいる秀吉と官兵衛。
そこへ向かっている自分たち。
さらに信長と光秀も西へ向かっている。
織田の軍勢が、次々と一つの場所へ集まろうとしていた。
「これだけ集まれば、毛利も苦しいのでは?」
弥兵衛の言葉に、景継はすぐには答えなかった。
「そうですね。だからこそ、気をつけた方がいい」
「追い詰められれば、何かしてくると?」
「追い詰められた側が、必ず逃げるとは限りませんからね」
「戦いますか?」
「それもあります」
景継は地図上の毛利領を見る。
戦うのか。
退くのか。
守るのか。
時間を稼ぐのか。
それとも、交渉を選ぶのか。
毛利にはまだ選択肢が残っている。
だからこそ、決めつけてはいけない。
「まずは秀吉殿たちと合流しましょう」
「はっ」
景継は地図を閉じると、再び馬を進めた。
西では、秀吉と官兵衛が毛利と向き合っている。
そこへ景継、光秀、そして信長の軍勢が次々と向かっていた。
毛利との戦いは、これから大きく動こうとしていた。




