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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第五章 天下争乱編

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第九十三話 戦わぬ戦


「お前には、別にやってもらうことがある」


秀吉と官兵衛が去った部屋で。


信長はそう言った。


景継は地図を見た。


秀吉と官兵衛が向かうのは西。


毛利との戦い。


ならば自分に与えられる役目は何なのか。


「どこへ行けばいいんです?」


「行かんでいい」


「はい?」


景継は信長を見る。


「ここに残れ」


「ここに?」


「そうだ」


信長の指が地図の中央へ移った。


畿内。


「治めろ」


景継はしばらく黙った。


「……誰をです?」


「人だ」


「それは分かります」


「ならば聞くな」


「もう少し説明してください」


信長が景継を見る。


「お前が戦えることは、もう知っておる」


景継は何も言わなかった。


「敵を崩すこともできる。兵も動かせる。城も攻められる」


「それなりには」


「だから次を見る」


「次?」


信長の指が畿内をなぞる。


「戦が終わった後だ」


景継の目が地図へ戻った。


「敵を倒せば終わりではない。土地が残る。民が残る。寺が残る。商人が残る。昔からその土地にいる者も残る」


信長は景継を見る。


「そいつらを治められぬ者に、天下は扱えん」


景継は少し考えた。


「私を試すんですか?」


「そう思うならそう思え」


「随分と面倒な試し方ですね」


「嫌なら西へ行くか?」


景継が地図を見る。


少しだけ考え。


首を横に振った。


「やります」


信長の口元が上がる。


「そう言うと思った」


「ただし」


「何だ」


「失敗しても怒らないでください」


「今から失敗するつもりか」


「戦と違って、勝ち方が分からないので」


信長が笑った。


「ならば覚えろ」


◇◇◇


数日後。


景継は早くも。


西へ行った秀吉と官兵衛を少し羨ましく思い始めていた。


「若様」


弥兵衛が書状を置く。


「今度は何です?」


「街道沿いの村より訴えがございます」


景継は目の前を見る。


すでに書状が積まれている。


「さっきもありませんでした?」


「そちらとは別の村でございます」


「……そうですか」


景継は新しい書状を取った。


街道を通る兵によって困っている。


宿を求められる。


馬を使われる。


食糧を求められる。


負担が大きい。


景継は最後まで読む。


「分かりました。兵が勝手に民家へ宿を求めるのは禁止しましょう」


「はっ」


「必要な場合は事前に村へ知らせる。食糧も勝手に取らせない」


弥兵衛が記録する。


「それから?」


「商人たちが面会を求めております」


「何の話です?」


「関所についてだそうです」


「またですか」


「はい」


景継は額へ手を当てた。


「昨日も別の商人から聞きましたよ」


「それだけ困っているのでしょう」


「分かっています」


景継は息を吐いた。


「会います」


「その後、寺の者たちが」


「何でしょう」


「土地について話があると」


景継の手が止まる。


「……それも今日ですか?」


「今日でございます」


「弥兵衛」


「はい」


「戦場へ行きたくなってきました」


弥兵衛が笑いを堪えた。


「若様が自ら残られたのでは?」


「残ったんじゃありません。残されたんです」


「ですが、引き受けられました」


「そうでしたね」


景継は小さく息を吐いた。


敵なら。


少なくとも敵だと分かる。


こちらを殺そうとしている。


ならば対処できる。


だが今、景継の前にいる者たちは違う。


商人には商人の理屈がある。


農民には農民の事情がある。


寺には寺の事情がある。


武士には武士の都合がある。


しかも。


誰も完全には間違っていない。


それが一番厄介だった。


◇◇◇


「関を減らしていただきたい」


商人の一人が言った。


景継は話を聞いていた。


「なぜです?」


「荷を運ぶたびに銭を取られます。これでは商いになりませぬ」


「全部なくせと?」


「できるのであれば」


「困りますね」


商人の顔が曇る。


景継は続けた。


「関から得ている銭で道を維持している場所もあるでしょう」


「それは……」


「それに関を守っている者たちにも暮らしがある」


商人は黙った。


景継は机を指で叩く。


全部なくせば。


商人は喜ぶ。


だが。


別の者が困る。


ならば。


「減らしましょう」


商人が顔を上げた。


「すべてではありません。必要のない関はなくす。残す場所も、取る銭を揃える」


「揃える?」


「場所によって勝手に額を変えられたら困るでしょう?」


商人の表情が変わった。


「確かに」


「その代わり」


景継は商人を見る。


「道を使うなら、決められたものは払ってください」


商人は少し考え。


頭を下げた。


「承知いたしました」


◇◇◇


次に来たのは村の者だった。


その次は寺。


さらに土地を与えられた武士。


一つを認めれば。


別のところから不満が出る。


一つを断れば。


なぜあちらは認めたのかと言われる。


夕方。


すべての面会が終わった時。


景継は机へ突っ伏しそうになった。


「疲れました」


弥兵衛が笑う。


「戦の後よりお疲れでは?」


「戦場なら、こんなに話を聞かなくていいですから」


「それを上様に言えば怒られますよ」


「言いません」


「本当に?」


「……多分」


◇◇◇


数日後。


景継は光秀を訪ねた。


「先生」


「何だ」


「助けてください」


光秀が景継を見る。


「珍しいな」


「何がです?」


「お前が素直に助けを求めるとは」


「帰ります」


「待て」


光秀が笑う。


「冗談だ。座れ」


景継は光秀の前へ座った。


「それで?」


「人を治める方法を教えてください」


光秀は一瞬。


何も言わなかった。


そして。


「随分と大きな質問を持ってきたな」


「困っているんです」


景継はこれまでのことを話した。


商人。


村。


寺。


武士。


それぞれの要求。


光秀は黙って聞いている。


「一つを立てれば、別の者が不満を持つ」


景継が言った。


「全員が納得する答えを探しているんですが」


「ないぞ」


光秀は即答した。


景継が止まる。


「ない?」


「そんなものがあるなら、誰も苦労せん」


「先生」


「何だ」


「もう少し希望のあることを言ってください」


光秀が笑った。


「景継」


「はい」


「お前は戦では、そんなことを考えるのか?」


「何をです?」


「全員が満足する方法だ」


「考えませんよ」


「なぜだ」


「できないからです」


「同じだ」


景継は黙った。


光秀は続ける。


「商人と農民。寺と武士。公家と大名。それぞれ欲しいものが違う」


「ええ」


「ならば全員を満足させようとするな」


景継は光秀を見る。


「では?」


「どこまでなら我慢できるのかを見ろ」


「我慢?」


「人は少し不満があるだけでは、すべてを捨てて逆らったりはせん」


光秀は茶を一口飲む。


「今ある秩序を壊す方が損だと思えば、従う」


景継の目が少し細くなる。


「……なるほど」


「全員を喜ばせるのではない」


光秀が言った。


「全員に、従っていた方がまだましだと思わせる」


景継は少し考えた。


「先生」


「何だ」


「それ、かなり嫌な言い方ですね」


「お前に分かりやすく言った」


「私を何だと思ってるんです?」


「司馬懿」


景継が止まる。


光秀の口元がわずかに上がった。


「先生」


「何だ」


「それを使うのはずるくないですか?」


「何のことだ」


「絶対楽しんでますよね」


「気のせいだ」


景継は呆れたように息を吐いた。


だが。


光秀の言葉は。


景継の中に残った。


◇◇◇


それから景継は。


やり方を少し変えた。


すべての要求を叶えようとするのをやめた。


何を望んでいるのか。


何を失えば困るのか。


どこまでなら譲れるのか。


それを見る。


商人には商いをしやすくする代わりに、決められた負担を求めた。


村には兵の勝手な徴発を禁じる代わりに、必要な時の輸送への協力を求めた。


寺には一定の権利を認める一方、武装した者を勝手に抱えることを認めなかった。


武士には土地を与える。


だが。


昔から住む者を好き勝手に扱うことは許さない。


誰も。


完全には満足しなかった。


だが。


大きな反発も起きなかった。


少しずつ。


景継のもとへ届く訴えが減っていった。


◇◇◇


「悪くない」


信長が報告書を見ながら言った。


景継は向かいに座っていた。


「それは褒めています?」


「そう聞こえぬか」


「上様の場合、油断できませんから」


信長が鼻で笑う。


報告書を机へ置く。


「戦だけではないか」


「何がです?」


「お前だ」


景継は信長を見る。


「今さらですか?」


信長の目が細くなった。


「褒めたのを取り消すぞ」


「ありがとうございます」


「まだ取り消しておらん」


「では素直に受け取っておきます」


信長は呆れたように景継を見る。


景継は少し笑った。


「ですが」


「何だ」


「戦より難しいですね」


「そうか」


「敵なら、誰が敵か分かります」


景継は報告書を見る。


「国を治める時は、誰も敵ではない。だから余計に難しい」


信長は少しだけ黙った。


「覚えておけ」


「何をです?」


「天下を取れば」


信長が言った。


「そちらの方が長い」


景継は信長を見る。


天下を取った後。


その言葉を。


景継は少し意外に思った。


信長は。


すでにその先を考えている。


戦が終わった後を。


◇◇◇


その頃。


中国地方では。


まったく別の戦が進んでいた。


備中高松城。


羽柴秀吉の軍勢は。


その城を前にしていた。


「攻めにくい城ですな」


秀吉が地形を見る。


官兵衛が頷いた。


周囲には湿地が広がっている。


大軍を自由に動かすには向かない。


力任せに攻めれば。


損害が増える。


「どうする?」


秀吉が尋ねる。


官兵衛はしばらく城と周囲の土地を見ていた。


やがて。


視線が低い土地へ向く。


水。


川。


地形。


官兵衛の目が細くなった。


「羽柴様」


「何だ」


「城へ入れないのであれば」


官兵衛は静かに言った。


「城から出られなくすればよろしい」


秀吉が官兵衛を見る。


「何を考えておる?」


官兵衛は地面へ簡単な図を描いた。


そして。


川を示した。


「水を使います」


◇◇◇


工事が始まった。


大量の人が集められた。


土が運ばれる。


木が運ばれる。


俵が積まれる。


堤が。


少しずつ伸びていく。


最初。


城の中の者たちも。


何をしているのか理解できなかった。


だが。


やがて分かった。


水位が上がり始めた。


雨も。


秀吉たちに味方した。


水が広がる。


道が消える。


田畑が沈む。


そして。


備中高松城は。


次第に水の中へ孤立していった。


城兵たちは。


城から外を見る。


そこにあるのは。


織田軍だけではない。


水。


逃げようにも。


簡単には逃げられない。


補給も難しくなる。


秀吉は高い場所から城を見ていた。


「恐ろしいことを考えるものだな」


隣の官兵衛が答える。


「攻めれば、こちらも死にます」


「水なら?」


「待てばよろしい」


秀吉が笑った。


「林道殿のようなことを言う」


官兵衛も少し笑った。


「本人が聞けば嫌がるでしょうな」


「違いない」


だが。


二人の表情から。


すぐに笑みが消えることになる。


◇◇◇


「申し上げます!」


使者が駆け込んできた。


秀吉が振り返る。


「何だ」


「毛利方に大きな動きがございます!」


官兵衛の表情が変わる。


「どこだ」


報告が続く。


毛利方の軍勢。


複数。


こちらへ向かっている。


毛利輝元。


吉川元春。


小早川隆景。


毛利の主力が。


高松城救援のために動き始めていた。


秀吉は地図を見る。


高松城を囲んでいる。


その背後へ。


毛利本隊が来る。


「数は?」


秀吉が尋ねる。


使者が答えた。


「正確にはまだ分かりませぬ。ただし……」


一瞬。


言葉を詰まらせる。


「我らを大きく上回る可能性がございます」


秀吉の笑みが消えた。


官兵衛は地図を見たまま。


何も言わない。


高松城。


毛利本隊。


そして。


秀吉軍。


三つの位置を見比べる。


「羽柴様」


「分かっておる」


「このままでは」


「挟まれる可能性がある」


秀吉が答えた。


城を落とす前に毛利本隊が来れば。


厄介なことになる。


撤退すれば。


せっかくここまで進めた中国攻略を失う。


戦えば。


兵力差がある。


官兵衛が口を開いた。


「上様へ使者を」


秀吉が官兵衛を見る。


「援軍か」


「はい」


官兵衛は即答した。


「ここで毛利本隊を退けることができれば、中国の戦そのものが大きく動きます」


秀吉は地図を見る。


しばらく考え。


頷いた。


「書状を用意せよ」


「はっ」


「急がせろ」


使者が走り出す。


秀吉は。


迫りつつある毛利軍の方向を見た。


「ようやく出てきおったか」


官兵衛も同じ方向を見る。


「ここからですな」


◇◇◇


数日後。


畿内。


「中国より急使!」


その声が響いた。


景継は信長とともにいた。


使者が入ってくる。


その姿を見ただけで。


相当急いできたことが分かった。


「申し上げます!」


使者が頭を下げる。


「羽柴様より!」


信長が書状を受け取った。


景継は黙って待つ。


信長が読む。


その目が。


少しずつ変わっていった。


「どうしました?」


景継が尋ねる。


信長は書状を景継へ渡した。


景継が目を通す。


備中高松城。


水攻め。


そして。


毛利本隊。


景継の目が止まる。


「毛利が出てきましたか」


「そうらしい」


「秀吉殿は援軍を?」


「求めておる」


景継は地図へ近づいた。


高松城。


秀吉軍。


毛利本隊。


「送りますか?」


信長は即答した。


「送る」


景継が信長を見る。


「誰を?」


信長は笑った。


「わしだ」


景継の目が少しだけ大きくなった。


「上様自身が?」


「毛利の主力が出てきたのだ」


信長は立ち上がる。


「ならば、まとめて片をつける」


「危険では?」


「だから行く」


景継は信長を見る。


止めても。


聞かないだろう。


それは分かっている。


「分かりました」


「景継」


「はい」


「お前も支度しておけ」


景継の目が変わる。


「今度は行っていいんですか?」


「まだ行くとは言っておらん」


「では?」


「命令を待て」


「また待つんですか」


信長が笑う。


「得意だろう」


景継は小さく息を吐いた。


「最近、それを便利に使われている気がします」


信長は答えなかった。


すでに。


次の命令を出し始めている。


毛利本隊が動いた。


秀吉と官兵衛が待つ中国へ。


信長自身が向かう。


そして。


明智光秀にも。


出陣の命が下った。


織田家の軍勢が。


再び大きく動き始める。


中国では。


秀吉と官兵衛が毛利と向き合い。


畿内では。


信長が西へ向かおうとしていた。


景継もまた。


新たな命令を待っている。


天下を巡る戦いは。


大きな節目へ近づいていた。

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